第48話 沈①



 心地よい秋空の下、紅生は完成した家を一人眺めていた。木の葉が舞って角に溜まっているが庭の手入れはまた落ち着いてからすればいい。細々としたものはまだ揃えられていないが暮らすには十分だ。家の周りはぐるりと竹林で覆われていて入り口は一箇所しかなく間違えて人が入って来る事の無いよう仕掛けを施してある。家よりも入り口を作る方が大変だったが、青竜が鬼と一緒に居るところを誰かに見られる訳にはいかない。一緒に過ごす時間が多くなるならば不可欠な仕掛けだ。会う約束は次の日だったが早く二人の家を見せたいと心が逸って仕方がなかった。きっと驚いてくれるぞとこれからの生活を想像していた所に突然の霹靂が走り、黒雲が空一帯を覆った。あっという間に雨が降り始めすぐ近くの山に何度も雷が落ちた。隣の山は青竜が住む村の裏山だ。雷が怖いと話していた青竜は大丈夫だろうかと心配になる。空で渦巻く黒い雲は龍が藻掻き苦しんで暴れているように見え、何故か胸騒ぎがして、いても経ってもいられなくなった紅生は振り出した雨の中神社裏の林に向かって走り出した。



 *



 神社裏の林に着いてから人がいないか確かめるためにそっと境内を覗くと一人の男が雨の中血の付いた着物を着て誰かと話をしていた。相手は黒い頬冠りを被っている。中の者は見えないが直ぐに人非ざるものだという事が紅生には分かった。男は頬冠りの男に手を合わせて拝んでいる。


「教えて貰った通り生き神を殺めてきた。彦太はいつ戻る」


 言葉を聞き取った紅生の血の気が引いていく。聞き間違えたに違いない。今男は何と言った?紅生は耳を澄ませた。


「早くも手を下したか。憤怒と復讐の欲に駆られた人程操りやすいものはないな」


「彦太の魂はこれで戻るんだろ?お前がそう言ったからワシはあの子を刺したのだ」


 衣服に着いた血が雨で流れて、まるで男が血を流しているように見える。


「フフフフッ、ハハハハッ!」


「何が可笑しい」


「死んだ人間が戻る訳がなかろう」


「でも……お前が……生き神さえ居なくなれば、鬼がいなくなって、喰われた魂も戻ると……」


「黄泉の世界から人を連れて帰る事は神であっても許されぬ行為。生き神を殺せば鬼の喰らった魂が戻るなどと、そんな戯言をよく信じたものだ。

 あの子はお前達が勝手に神と祀り上げた人間。人間が人間を殺して魂が戻って来る訳はないだろう。少し考えればわかる事よ。己の欲さえ満たす事が出来れば不条理も不合理も善悪も区別がつかぬ慾に塗れた愚かな生は何千年経ったとて変わらぬな。何もかもを有耶無耶にして、うわべの都合良い事ばかり」


 そう言って男は羽織っていた頬冠りを外した。大きな角を生やし、濁った黄色い目をした鬼神は正体を明かした。


「お、お、鬼!」


「我はかつて神と呼ばれ人を助ける存在であった。だが人間は恩を忘れ、己の力を強大にさせる為だけに我を貶め、我を鬼と呼び迫害した。お前も鬼と呼びたければ呼ぶが良い。だが怒りに囚われ己の欲を満たすために人を殺す事をなんとも思っていないようなお前の様な人間こそが鬼と呼ばれるべきだ。そうは思わぬか?

 我は人を赦さぬ。我を追いやった新しい神も赦さぬ。我がいる限り、人も神も苦しみ続けるのだ」


「ヒィイイッ」


 平八は振りあげられた鬼の手を見て後ずさり逃げだそうとしたが鬼神は両肩を掴んで頸動脈に齧り付いた。肉を齧り動脈から吹き出る血を浴びて鬼神は舌なめずりをする。


「ああ、不味い。恐怖と憎しみの味がする」


 鬼神は噴き出す血管に口を当て一気に血を吸い上げた。鬼神の体中の血管がドクンと脈打ち、身体が膨らんだように見えた。血を吸われ青黒くなった人間の体はそのまま崩れ落ちる。

 

 紅生は倒れた人間に駆け寄った。平八の体は痙攣を続けているが目を剥いてもう息をしていない。


「紅生……やっと出て来たか」


「お前は……」


 右上腕から下だけ人間の腕だと気づいて目の前にいるのは鶴を助けた時に遭遇した鬼神だと認識した。


「久しいな、紅生……。紅い髪の鬼、我が子孫よ。生命童子よりもお前に相応しい名だ」


「黙れ。この男は生き神を殺めたと話していた。一体青竜に何をした⁈」


 紅生はギロリと鬼神を睨みつける。


「我は何もしておらぬ。この男が青竜とやらを刺したそうな」


「嘘を吐け!青竜は弁財天神様の一部を体に宿す聖なる人。青竜を殺せる訳がない」


 言葉を聞いて鬼は笑った。


「はははははっ!お前までそんな戯言を信じているのか!神の一部を宿しているから何だと言うのだ。奴は何の力も持たぬただの人間。奴が受け継いだものは弁財天神が抱えていた半妖のお前を乞う卑しい心、ただそれだけだ。受け継いだ者がお前を愛するのは宿命。容姿と心に惑わされ、お前は義を欠き、その裏切りが奴を殺したのだ」


「何を……」


「愚鈍な奴め」


 紅生は鬼神に飛び掛かったが血を喰らってさらに力を増した鬼神は簡単に攻撃を交わした。


「お前に俺たちの何が分かると言うのだ!」


 ニヤリと黄色い目は光る。


「我は全てを知っている。弁財天神の噂を流布したのも、童子たちの悪い噂を流布したのも、猿鬼を使い童子達の心を闇に染めたのも我。追いやられた童子たちが鬼に堕ちていく姿は何とも爽快であった。人は簡単に心を奪われていく。志高き童子たちも尊厳を奪い、着ぐるみを剝がせばただの醜い人間となり下がった。あの高潔な酒泉童子でさえ力を失えば心を奪う事など容易いものだった。人は愚かだ。神を欺き、童子を追いやり、神の子と自分たちが崇めた青竜にまで手を掛けた。人の為に仁を尽くしても裏切られる。何と悲しい世だ」


「全部お前が……!?」


 頭に血が上り殴りかかったが拳は鬼神の服を掠めもしなかった。鬼神は満足そうに笑みを浮かべている。


「全てではない。青竜との逢瀬を先に人に漏らしたのはお前の裏切りに愛想を尽かした敬翠だ。お前が義を欠いたゆえに敬翠は傷つき、臆病で身勝手な人間が青竜を殺したのだ。全てお前のせいだ。いや、神がお前を愛していなければこんな事にならなかった。弁財天の罪は重い。ところで時間を無駄にしていいのか?お前の愛しい青竜は恐らく今頃虫の息」


 怒りに我を忘れて攻撃を続けていた紅生だったがはっと我に返り村の方角を見た。その一瞬に鬼神は林の中へと跳躍して逃げる。


「我を追っていれば青竜の死に目に会えんぞ。さぁどうする」


 遠くなって行く鬼神に殺意を抱えつつも紅生は青竜の家へ走った。


 土砂降りの雨の中、姿を人間に見られるのも構わず青竜の家の戸を叩く。


 青竜の母親は戸を開けて紅生の姿に一瞬愕いた様子だったが直ぐに手を合わせて拝んだ。


「赤い髪の神様。青竜をお守りください」


 母親の拝む両手を下げさせ、紅生は訊いた。


「青竜はどこだ!」


「村の人に訊いても誰も教えてくれなくてもう三日も戻ってないんです。村で会合を開く時は神社と反対の外れにある信三さんの家でするからきっとそこに。連れ戻して下さい。近頃みんなの様子がおかしくて……青竜は特別な子。神様の生まれ変わりなんです。守って下さい」


「青竜は神様ではない。ただの、人だ」


 紅生はそう言い、教えられた場所へと走った。雨は強く降り続けている。黒雲の龍はまだ頭上で渦を巻いていた。


「青竜ー!!青竜ー!!」


 紅生の大きな声は雨の中でも家々に響くようで村人は間口から顔を出し、赤い鬼が雨の中を走っていると知るとぴしゃりと戸を閉めた。


 愛しい者の名を叫びながら教えられた場所につくと泥にまみれて紅い血を流して倒れている青竜を見つけた。容赦なく雨は降り注ぎ、流れ出た血が水溜りの中に澱んでいる。


「青竜!」


 駆け寄った紅生は倒れたままの青竜をそのまま抱え上げ、開け放たれている納屋に連れ入った。敷かれていた茣蓙の上にそっと下ろして青白い頬に触れる。


「青竜……何故こんな事に……」


 脈は薄く鬼神の言った通り虫の息だった。腹から流れた血が着物を真っ赤に染めて最後に見た春乃の姿が瞼に浮かんで重なる。紅生は着ていた服を引き裂いて雨を絞り、傷口に当てた。だが血は止めどなく溢れて来る。


「青竜!死ぬな!死ぬな!」


 手首には酷い縛り跡がついていて納屋の梁には長い縄が掛かっていた。ここで青竜が酷い目にあったのが分かった。少年一人になんと酷い仕打ちをするのだ。青竜は村のため、人のためにと言って申し訳なさそうに頼みごとをしてきた。気は強いが優しい青竜の頼み事なら何でも受け入れた。それが青竜の願いだったからだ。村人に感謝こそされ、恨まれる謂れはないはずなのにこんな目に遭うなんて。わなわなと震える手で傷口を抑え、少しでも体温を与えようと紅生は傷のない箇所を撫でた。 


「目を開けてくれ!青竜!青竜!」


 紅生は青竜の顔に何度も口づけを落とした。生温かい涙が目から溢れ出てぼたぼたと青竜の体を濡らす。


「青竜、死なないでくれ。生きてくれ、後生だ、青竜」


 青竜の頭を抱きかかえ、紅生は泣き叫んだ。


「青竜……青竜……聞こえるか、青竜……やっと二人の家が出来たのだ。お前と俺の家だ。誰憚らずお前が年老いて消えてしまうまで、二人で過ごせると思って造った家だ。俺と一緒にあの家に住もう。頼む、死なないでくれ、青竜……」


 零れる涙もそのままに紅生は懇願し続けた。


「青竜……うっ……うっ……青竜……」


 嗚咽しながら名を呼ぶ紅生に青竜の腕が触れ紅生は顔を上げた。


「青竜!」


 朦朧としながらも薄く目を開けた青竜の瞳は海の底の様に深い蒼色に染まっていた。


「……紅生……泣いて……いるのか」


「青竜、青竜、死ぬな!」


 青竜の手を掴んで紅生は叫んだ。


「……神様……」


「俺は神様じゃない、紅生だ。しっかりしろ、青竜。医者を呼ぶ。待っていろ」


「……だめだ……俺はもう……紅生……ありがとう」


「青竜!逝くな!生きてくれ!」


「紅生に……逢えて……良かった。……生き、ろよ……約束……」


「駄目だ、青竜!神よ、聞こえますか!あなたの一部を宿した命が今消えようとしています。助けて下さい。どうか、助けて下さい。我が神、弁財天神よ!」


 紅生は天に向かって叫んだ。神をこの目で見た。神は存在する。青竜の美しい顔は弁財天の生き写し、神に由縁のある人間。簡単に死ぬわけがない。きっと神が手を差し伸べてくれる。そう信じていたのに空は暗雲を立ち籠めたままで何も起こらない。紅生は絶望した。青竜はそっと目を閉じていく。


「青竜!嫌だ、青竜!死ぬな!死なないでくれ!目を開けてくれ!青竜!」


 紅生の泣き顔を見ながら青竜はふっと笑った。幸せそうな顔で涙を一筋溢すと瞳は光を失い、瞼はもう動かなかった。


「アアアアアアッーーーーー!」


 咆哮を上げて紅生は泣いた。青竜の亡骸をぎゅっと抱きしめ、だらんと力なく腕が零れ落ちるのを見るともう一度咆哮が響いた。


 稲光が空一面を何度も無尽に駆け抜けると、さっきまでの雨が嘘のようにぴたりと止み、黒い雲が流れていった。


 雄叫びを聞いて村人たちが納屋の近くに集まっていた。青竜を凌辱した人間もそうで無い人間も怖いもの見たさに影から覗いていた。刺された青竜を放っておいて見殺しにした村人たち。


「鬼だ…」

「紅い鬼だ」

「青竜と契った悪い鬼だ」

「あんな恐ろしい鬼と契るなんて……」

「危うくあいつらに騙される所だったんだ」


 亡くなった青竜への感謝どころか人々の口からは青竜への悪態が聞こえた。紅生はどの言葉も漏らさず聞き取り青竜をそっと横たえて立ち上がった。


 髪は怒りで逆立ち角はめりめりと音を立てて大きくなっている。


「青竜が一体何をしたと言うのだ。困っていた人々を助け、鬼から人々を救ったのだ。何故幸せに生きてはならぬのだ。何故鬼は人を愛してはならぬのだ!」


 角がなければ神と見紛う麗しい鬼だった紅生。


 その面影を一片も残さぬ恐ろしい顔で、紅い鬼は次々に人々へ襲いかかり赤い土へと沈めていった。


 紅生は修羅の鬼となった――。






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