第13話 澄清の空



 生命童子は両膝をついて頭を抱えたまま震え、自分の指先を見つめて目を見開くと発狂したように叫び出した。


「ウオォォォォーーー!」


 絶望と悲しみからくる魂の叫びかそれとも変貌していく肉体の痛みか。肩を何度も上下させて苦しそうに呼吸を繰り返し悶え出した生命童子の指の爪が一つずつぼろぼろと取れ始め、その下から肉を突き抜けて赤い爪が伸び始めた。身体中の血管が膨れ、青と赤の地走りが身体中を這い、額から血が流れ、その血に染まるように髪の色が赤橙色に変わっていく。


「嗚呼ァァァアアアア」


「あ、兄上ーー!!」


 春次が泣きながら藻掻き苦しむ兄の姿を見て叫ぶ。


「嫌だっ、鬼になっちゃ嫌だ、兄上ーー!」


 暴れる春次を抑えながら猿鬼は舌打ちした。


「鬼に堕ちたか。アイツが完全に鬼になったら力じゃ負けるよ。半妖なら人間であった事を忘れないからね、このままだと厄介だ。善財、のたうち回ってる今の内に殺しておいで!この子は切り札に取っておく」


 言われた通り善財童子は刀を持って生命童子へと足を動かし始めた。春次は兄が危ないのだと知り再び叫ぶ。


「鬼がそちらへ!早く刀をお持ちください、兄上ー!」


 己の叫喚で何も聴こえていない生命童子は鬼が近づいてくるのに気づかない。


「嗚呼アアァァーッ」


 長い爪で首元や皮膚を掻きむしり身体中に裂傷を作っていく。苦しみ暴れる様子に怯む事なく善財童子は歩を進めた。


「やめろ、醜い鬼め!兄上は童子だぞ!嫌だ、兄上、戦って!宝剣を拾ってください、兄上!」


 やっと弟の声が届いたのか、びくりと体を強張らせた生命童子はぴたりと雄叫びを止めた。雨音以外に響くのは、黒雲が燻る様な空の轟きと善財童子が泥を踏む音。その歩く音が生命童子の前で止まると刀は高く振り上げられた。蹲る男の瞳は紅く、髪も紅く染まっていた。額からは角が皮膚を割って生えている。


「オ前ガ元々鬼ダッタトハ……笑ワセル。我々ガ鬼ヘト堕チタノハ、鬼ノオ前ガ神ナドニ愛サレタカラダ。愛スル筈ノ無イ者ヲ愛シタ神ノ罪ハ重イ。オ前ナド生マレテ来ナケレバヨカッタノダ。全テ、オ前ノセイダ」


 善財童子にそう言われて生命童子は自分の掌と指を見つめ、その指を恐る恐る額へと移した。不自然に生えてきた角をそっと触ると青褪めた。刀を向けられているのに己が鬼へと成り果てた事に衝撃を受け、動けなかった。


「鬼ニナッタ者ナド、神ハ愛シテクレヌ———死ネ」


 生命童子はその言葉に促されるように首を差し出し、弁財天の言葉を思い出していた。


『道を誤れば人々を脅かすげに恐ろしき鬼となるだろう』

『鬼になるな』


 鬼は己の欲望にだけ従い、生きる。道を誤ったのだ、生命童子はそう思った。鬼になった今、最早生きている事さえ罪なのだと、だらりと両手を降ろし抗う素振りも見せず諦めたように見えた。


 やっと内で暴れる嫉妬の虫を殺すことが出来ると善財童子は笑った。神より特別な寵愛を受け、力を失わず、人々から蔑まれる事なく過ごしていた彼が羨ましくて堪らなかった。何もかもを失くした自分が情けなく、悲しかった。全て生命童子と彼を偏愛した神の所為。義を知らぬ愚かな人間達の所為。半妖の為か鬼と化し爪や髪の色が変わろうとも尚その麗しさを失わないとはなんたる不平等。醜くなった己を鏡で見た時の絶望までもこの男には与えられない。胸に焼付く苦しみからついに解放されるのだと憎悪のすべてを一刀に込めて振り下ろそうとしたその瞬間、声が聞こえた。


「生命童子様ーー!!」


 その場にいた全員が声のする方へ顔を向けた。視線の先には愛敬童子がおり、馬上で弓矢を構えていた。矢を持つ腕を力の限り後ろへと引き、弓柄と弦をぎしぎしと撓らせて一点を狙っていた。そして定めていた狙いへ矢を放つと、赤羽の矢は振り向いた善財童子の眉間を貫いた。


「グアッ」


 慮外の攻撃で急所を穿たれ善財童子はそのまま倒れた。


「オノレ……憎キ童子メガ……」


「善財……オン・ソラソバティ・エイ・ソワカ……」


「ソンナモノ、何ノ役ニモ立チハセヌ。神にドレ程祈っテモ、我ラを救ッテは、くださらなかった……」


 堰を切った様に溢れ出る善財童子の涙はそのまま煙となり落ちてくる雨に逆らうように天へと昇った。


 生命童子は自分が首を斬った酒泉童子の亡骸と、目の前に倒れた善財童子の亡骸を見ると、自分の宝剣を拾い、そのまま刃を己の首へと充てがった。


「兄上!」


「生命童子!」


 暴れる春次を制止しようとした猿鬼だったが、愛敬童子から矢の狙いを受けて逃げ去った。春次は兄に駆け寄り、愛敬童子は馬上から降りて走った。


「兄上ー!」


「兄様!なりませぬ!」


「許せ……」


 つかに力を込めて自分の首を斬り堕とそうとする生命童子の腕を狙って愛敬童子は弓を放った。弓矢は腕に刺さり、宝剣が音を立てて落ちる。雨はいつの間にか止み、空が白み始めていた。春次が生命童子の体に抱きつく。


「姉上を喪って、兄上まで喪うなど、耐えられません。兄上、春次を一人にしないでくださいませ………お願いです、兄上……」


 そう言ってしまうと再びわんわん泣き出した。諭す様に弟の頭を撫でながら生命童子は話す。


「もう一緒におれんのだ、春次。俺は鬼と化した。春乃を喪い、友を殺してしまった悲しみと怒りに囚われ、忘れていた凄惨な過去まで引きずり出し、鬼に堕ちてしまった。鬼と人とが一緒に暮らせる筈がない。俺の醜い姿をずっとお前に晒し続ける訳には行かない。俺もいつ正気を失うのか分からんのだ。お前が誇りに思ってくれた童子の過去を穢さぬよう、今この命を絶つ」


 傍に駆け寄った愛敬童子はその言葉を聞いて生命童子の頬を思い切り引っ叩いた。


「身勝手な事を言ってはなりません!春次は貴方の弟君、彼から全てを奪うなんて許しません!彼を天涯孤独にするのですか?貴方が死ねば猿鬼達の思うつぼ。一匹逃したから報復に来るやも知れません。春次を護らねば。弁財天様だって貴方が死ねば悲しみます。私だって貴方に今死なれては困ります。鬼になられようとも傍を離れないと、兄様は私がお守りしますと約束したではありませんか……どうか……」


 気丈でいようとしたが愛敬童子も肩を震わせていた。自害してしまわぬようにと、愛敬童子は生命童子から宝剣を引き取った。春次は足元で泣き疲れて眠ってしまった。霞の空が黎明の刻を迎える。


「俺はいつまで人の心を保てるのだろう……」


 項垂れる生命童子は遠い目をしていた。酒泉童子の鬼化した時間を逆算すれば、一刻で肉体は鬼へと変わるようだった。だが角が生えた生命童子の肉体や人相に大きな変化は無い。髪と瞳と爪の色が染まり、少し体つきが大きくなりはしたが、異形となった他の童子とは明らかに違う。半妖の鬼であることで、この先自分がどう変化するのか全く分からない生命童子は悲観していた。善財童子は春乃を食べていた。鬼へと肉体が変貌した後、自分がおぞましい行為へ走るのはいつになるか分からない。その不安から自害を求め、愛敬童子に何度も宝剣を返すか自分を殺してくれるように願ったが、愛敬童子は聞き入れなかった。力ずくで宝剣を取り戻す事は容易であるはずが、今の生命童子にはそんな気力さえないようだった。


「私が貴方を守ります。貴方が人を襲うなら、止めて見せます」


 鬼のように強い生命童子が鬼になった今、その言葉を裏づける強靭さを愛敬童子が持ち合わせているとは思えなかった。だが不思議と彼の言葉には説得力があった。生命童子は嘆息し、紅い瞳を鈍く光らせた。


 幼い弟を抱き、生命童子は家の中へ入った。弟をそっと布でくるみ、寝かせるとそれから春乃の亡骸を集めて全て残らず庭へ埋めた。長い間二人はそこに立ち尽くした。朝日が昇り、鳥達が囀り始める。さっきまでの雷雨が嘘のように澄清の空であった。


「どんなに激しい嵐であっても、いずれは止み、陽は昇る。どれほど悲しみに打ちひしがれようと、貴方は生きている。春次も私も生きています。道を探しましょう」


 愛敬童子の言葉に生命童子は目を伏せた。


 仲間たちの亡骸を埋めるから、その間春次についていて欲しいと愛敬童子に頼み、彼が家の中へ入ったのを確かめると、生命童子は友を埋め、鉛のように重い身体と心を引きずって、そのまま山へと姿を消した――。





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