第12話 酒泉童子③



 酒泉童子の体がぐらりと揺れるとその口から血が溢れ出た。生命童子は倒れる酒泉童子を支えて横たえる。すんでの所で剣をずらし斬首技を止めようとしたが、首を差し出されては勢いを逃がすことが出来なかった。宝剣は位置のずれた肩から鎖骨まで突き刺さり傷口からも血が噴き出す。


「とどめを……刺せ……」


 再び血が溢れごぽごぽと喉が鳴る。


「酒泉っ!」


 師と仰いだ酒泉童子の変わり果てた姿を見て生命童子は顔を歪ませた。雨が弱まり風が凪ぐ。紅い瞳に囚われた酒泉童子は血を吐き出しながら苦しそうに言葉を紡いだ。


「頸動脈を切られてまだ生きておるとは……鬼とは何と難儀な生き物よ。このまま放置されれば時間をかけて体は修復を試み、異物を取り込んで異形の鬼となる。鬼の血を口にしたこの身体に未練はない、殺せ……」


「何故だ、酒泉……何故避けなかった、何故鬼になったのだ!」


 悲哀に満ちた瞳は炎を孕んだまま問うた。


「最後に強さを取り戻したかった……」


「そんな事で……」


「お前には滑稽に映るであろう……鬼を倒してきた剛腕の童子が力を求めて鬼になるとはな……儂には戦いが全てだった。戦いしかなかった。人の為に命を掛けて戦う儂の生きがいは、お前と共に戦い、酒を呑む事だった。お前の横へ立つに相応しい豪傑な童子でありたかったのだ……そのささやかな生きがいさえも奪われ、力を無くした儂には何の価値も無い」


「そんな事はない!あなただけは鬼には堕ちぬと信じて……」


 手を伸ばし生命童子の頬に触れた酒泉童子は異様に伸び始めた自分の爪先を目にすると、己の鬼化に絶望を抱え、自分の愚かさを改めて噛み締めた。後悔しても死にきれぬ。だが死なねば一層醜い鬼となる。


「……人とは弱い生き物だ。誰も彼もが強く正しく生きられる訳ではない。蔑ろにされ存在意義を奪われ、全てを失った人の心は脆く、僅かな尊厳に縋らねば生きていけぬ。結局は儂もただの人であった。お前が最後に見た酒泉童子は、ボロ屋根の下で弱音を吐いた愚かな童子ではなく、力を取り戻し薙刀を振り回して戦った豪傑、そう覚えていてはくれまいか……」


「酒泉……何故こうなる前に俺を頼ってくれなかった!」


「詰まらん見栄にも勝てぬ愚かな人間なのだ。悍ましい鬼に成り果てるなど、儂は血迷っていた……ゴホッ……」


 血が行き場を失くして口へ鼻へと流れてくる。苦しそうにのたうつ友でさえも救えぬのかと生命童子は無力感に打ちひしがれた。


「酒泉……人に戻る方法は無いのか……」


「フッ、そんなものがあるのならばとっくにそうしておるわ……。人を見殺しにした儂は既に鬼。もはや引き返す事は叶わん。

 生命、春乃は……可哀想であった……襲われる前に儂が来ておれば……。ただ、春次は逃すことが出来た」


「春次は無事なのか!?」


 酒泉童子は目を一度ゆっくりと閉じてその言葉を肯定した。口元をぎゅうっと結んで、生命童子は込み上げる安堵と憂いを飲み込んだ。


「儂は……お前のその紅い瞳を見るのが好きだった」


「紅い瞳……?」


「鬼と戦う時、お前の瞳は紅く染まる。最後にお前のその瞳を見る事が出来て本望だ……皮肉にも儂がだがな。悔いはない。最後に願いを一つ聞いてはくれまいか……」


「……なんだ」


「すぐに首を斬ってくれ。人の心を持ったまま逝きたい……お前の剣で死にたい……後生だ……生命」


 酒泉童子の目から透明な涙が溢れた。それはまるで彼の魂の結晶の様に見え、生命童子はそっと酒泉童子の瞼を閉じ宝剣を彼の体から抜き取って刃を首横に突き刺した。酒泉童子は笑みを浮かべ、呟いた。


「さらばだ、友よ———」


 宝剣は振り下ろされた。


 胴体と首が切り離された酒泉童子の体から煙が上がり、雨の中を昇っていく。


「酒泉……酒泉……」


 生命童子はそれが消えて見えなくなるまでずっと空を見上げていた。



 雨の中に立ち尽くす男の心は悲しみで潰れてしまいそうだった。仲間だった者たちをその手で殺し、妹を奪われ、師と仰いだ酒泉童子までもその手に掛けた。震える両手は血に塗れていた。まるで己自身の宿命を見ているような不吉な予感がしてならなかった。心臓は尚も激しく脈打つ。雨足が再び強まり、いかづちが落ちそうに轟く。そして静寂は戻る事なく、耳障りな声が再び聞こえた。


「ホホホホ、まだ生きておったのか、生命童子」


「貴様!」


 気配を感じた先へ刀を振るが猿鬼は軽々と攻撃を躱して、片腕を失くした善財童子の肩へと戻った。だがその善財童子の横に立つ者を見て生命童子は攻撃する手を止めた。


「春次!」


「兄上っ!」


 鬼の傍らに春次が立っていた。逃げおおせたと思っていた弟は鬼達に捕まっていた。


「兄上、姉上が……姉上は……」


 鬼に囚われた恐怖、殺された姉、そして兄の姿がそこにある安堵で混乱した春次はわんわんと大声で泣き出した。耳に指を差しいれて猿鬼は善財童子の周りをくるくると飛び回る。


「五月蠅いねぇ、人間の子供は。でも子供だからって油断はならないよ。いつぞや、半妖の子供が人のなりして、鬼をあっという間に殺しちまった事があった。この子も早い所殺して喰っちまわないと分かんないよ、あの生命童子の弟だからねぇ」


 ぎりぎりと歯軋りをする生命童子を見て猿鬼はほくそ笑んだ。


「弟にかすり傷でもつけたなら、お前の目玉も残さず賽の目に切り刻んでやる!」


「おお怖い、ホホホホ」


 猿鬼の笑い声を聞くと生命童子の頭は割れそうに痛んだ。はらわたが煮えくり返って憎悪が込み上がってくる。心地の悪さに吐きそうだった。そしてその声をどこかで聞いた事があると思った。甲高い冷えた笑い声。


「酒泉も役に立たなかったねぇ。あんなに鬼になるのを渋るから、鬼になった暁には相当な大物になると踏んでいたのにあっけなく殺られちまってさ。寂しい男だよ。あんたみたいなもんに惚れ込んじまって、善財の腕まで切っちゃって、あーつまんない、つまんない。でもあんたに呵責を植え付けるには十分な材料だったみたいだからヨシとしようか。ほら、あんた血管が破れちまいそうになってるもの」


「べらべらとよく喋る猿め!鬼の分際で酒泉童子を愚弄するな!」


「あらまぁ、じゃぁその鬼に唆されて鬼に堕ちた童子達は、鬼以下という事になるかねぇ、ホホホホホ」


「おのれ……」


 友を侮辱されて頭に血が上る。切りかかろうと刀を握る手に力を入れると鬼は春次の首に鋭い爪を当てて牽制した。


「おっと、弟を串刺しにされてもいいのかい?我らの目的はもうすぐ果たされる。愛敬童子も今やただの人。お前が死ねば最後、弁財天を護る童子はこの世から居なくなる。童子にまで見放された弁財天は人からも信仰されず、この世から忘れ去られて消えていなくなるって寸法さ!老鬼ろうき様もよく考えたもんだ、伊達に歳とっちゃいない、ホホホホ」


 猿鬼は楽しそうに笑った。


「穢れた手で我が弟に触れるな!」


 叫んだ生命童子の顔をじっと見て、おや、という顔をした猿鬼はニヤリとまた笑った。


「さっきは雨でよく見えなかったけど、お前、眼が真っ赤なんだね」


「だったら何だ!」


「その眼の色、知ってるよ。鬼を素手で八つ裂きにしたあの半妖の子と同じ色だ」 


「半妖……?」 


 猿鬼は記憶を辿る様に顎に手をやって暫く撫でていた。そして思い出した様に手のひらを拳で叩いた。


「……そうか!あの時の半妖の子がお前かい!道理で鬼の様に強い訳だ!オホホホ」


「何の事だ!」


「アハハハハ!老鬼様はここまで知っていたのか、それとも偶然なのかい?人間と鬼の間に出来た子が弁財天の守護童子だなんて、こんな滑稽な事があるもんかい!」


「何を馬鹿な事を……」


 生命童子は頭を抱えた。痛みがどんどん酷くなり、立っていられなくなって土に膝をつく。猿鬼の声が響き、生命童子の瞼の裏にさっき見た春乃の変わり果てた姿が写った。惨殺された春乃の姿は母親の顔にすり替わり、その着物も母親の物へと色を変える。斬首されている酒泉童子の姿は死に絶えている父親の姿になった。春次の泣き声が響き、その声は泣いている幼い自分の声と入り混じった。生命童子は閉ざされていた記憶の中に迷い込んでいた。



 ———大声で泣いている自分の目の前に、鬼はいた。大きな体をした鬼が倒れた母親に覆い被さり、まだ息をしている母親が叫ぶ。


『逃げ、なさい……春……早く……ァアアァー!』


 母の体に鬼の腕が刺さり血潮が飛び散る。母の伸ばした手が動かなくなると、怒りが頭から突き抜けた気がした。狂い泣きながらその大きな鬼へ向かって走り、鬼の腕を引き千切り、足を引き千切り、首を斬り落として鬼を切り刻んでいる自分を見た。横に居た小さな鬼はいつの間にか逃げてしまっていた。自分の両手を見下ろせば、血に塗れた鬼の手。殺された両親の死体に触れようとするその手が鬼の手である事を認識すると意識は途絶えた。


 気がつけば御堂の中に居た。御簾の中に見える姿が眩し過ぎて目が上手く開かなかった。両手は人の手に戻っていた。腹の底が震え美しい声が頭の中に響く。


『鬼と人との間に生まれし半妖の子よ、そなたは鬼よりも強い鬼の力を持つ。故に道を誤れば人々を脅かすげに恐ろしき鬼となるだろう。だが心は無垢な幼き人のまま。不浄を忌み、神に仕える童子として人の為にその力を使うと約束するならば、そなたを清浄の道へと導こうぞ。親を殺されて哀しかろう。だが憎しみを忘れ、清く生きよ。さすればそなたは人のまま生き、人として死していける』


『俺は鬼じゃない……俺は人だ』


 震えながら訴える幼い声に優しい声が応えた。

 

『よかろう。そなたに生命童子のめいを授ける』



 稲光と共に雷鳴が何度も轟き、楠の木にいかづちが落ち、炎が上がる。



 ———記憶は蘇った。








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