第10話 酒泉童子①




 目の前に立つのはかつて友と呼んだ者——今や春乃を殺した憎き鬼だ。怒りの余りに血が沸いて咄嗟に刀を抜いてしまったが故に戦いへと転じ、生命童子は弟の安否を確認出来なかった。まさか、と生命童子は震えながら聞いた。


「春次をどうした……酒泉!」


「お前の弟はもうこの世にはおらぬ、ホホホホ」


 黙る酒泉童子の傍にいた猿鬼が問いに答え、醜く笑いながら善財童子の肩へとよじ登った。憎悪に駆られてぎりぎりと噛み締めた生命童子の口の中に鉄の味が広がる。いつも兄上の様になりたいのですと幼いながら稽古に励み、疲れて夕餉後すぐに眠ってしまう幼気な弟の笑顔を瞼に映せば、柔らかいその手の感触までも蘇る。愛しい手をずっと握っていてやりたかった、童子の弟に生まれたばかりに。ずっと危惧していたことが現実になってしまった、罪深いのは自分自身だと、生命童子は憤怒と悲嘆に塗れ体中からゆらゆらと湯気を昇らせていた。眉間の皺を更に深く刻み頭痛を抱えているのか、顳顬を押さえた。


 荒れ狂う心を抑えきれぬまま、鬼の動きを見逃さぬ様睨みつけていたが生命童子は不思議な事に気がついた。鬼になった善財童子の体や顔の筋肉は他の鬼と同様異様に盛り上がり、元の顔を想像するのでさえ苦労するほど変形しているのに、酒泉童子の顔は人の時のままだった。もしや鬼に堕ちていないのか、そう生命童子が希みを持ったのも束の間、彼は武器を持ち直し攻撃の構えを見せた。鬼と戦う時にいつもそうしていたように、薙刀を高く振り上げ、その重さに耐えれるように足を広く開き腰を低く保つ。縋るように握った藁はいとも簡単に灰となり崩れ去った。外見はそのままであっても酒泉童子もまた、敵対する鬼になり果てたようだった。


 生命童子の血管が憤りで破裂しそうに膨れる。真紅に染まる視界では戦えないと思ったのか天を仰ぎ、拳を握り締めながら赤い涙を雨で洗い流した。


 強い雨風が吹き荒れ、雷鳴が轟き、まるで神の怒りに触れたように空は暗黒の渦を巻く。人々の信仰を奪い、神の力を衰弱させ、弱味に付け込み鬼へと堕ちた童子達を戦わせ、弁財天神を消す事が猿鬼の目論見。心を愚弄し、いつも大切なものを奪っていく鬼。下劣で、卑怯で、醜い生き物。そんなものになり果てた童子達を生命童子は憐れに思った。そして自分の存在もまたそんな鬼に近しいのだと、思い起こせば悲しみは降り注ぐ雷雨の如くとめどない。


「これも神が与えた試練なのか……」


 大きく息を吸って生命童子は二体の鬼に向かって構えた。


「目を覚ますなら今だ」


「何もかももう遅い!鬼の力でどれ程儂の力を取り戻せたのか、お前で試してみたかった。この時を待ちわびたぞ。手を出すなよ、善財!」


 酒泉童子の武器は薙刀。自分の上背程もある太く長い柄の先に刀がついている。その刃の幅は通常の三倍程あり、重たさも尋常ではなかったが酒泉童子は軽々とその薙刀を振り回し相手を倒した強者だ。童子達の背中を預かり、強く、何時も豪快に笑い、皆を鼓舞し見守ってきた酒泉童子。そんな彼でさえ鬼に堕ちねばならないのか、生命童子には解せなかった。人とは鬼から守らねばならぬもの。弱き者。鬼共は両親だけでなく、妹弟までも奪った。仲間をも引き摺り落とし、その命を奪わせた。生命童子の中に、目の前の鬼を殺す躊躇いは無かった。


 酒泉童子は薙刀をぶんと振り回し生命童子の胸を狙う。距離を詰めることなく飛んでくる攻撃を宝剣に受けると振り回された刀の重さを受けて生命童子は飛ばされた。落ちたところにすぐ長い刃先が飛んできて横へと倒れながら体制を立て直す。闘いの厳しさを生命童子に教えたのは酒泉童子。情けを掛けるな、一瞬の気の迷いを鬼は見逃しはしない。そう言って命乞いをする鬼に容赦せず刀を振り下ろした彼の瞳は悲しみに溢れていたのを思い出す。だがその慈悲の瞳が二度と光を取り戻す事はない。鬼を打ち倒す筈の酒泉童子の刃は今苦労を共にした、かつての仲間、生命童子に向けられているのだ。


 薙刀の利点は攻撃対象との距離にあるが、それは弱点でもあった。間合いを詰めれば身を護るものは薙刀の柄のみ。両手で握らねば振り切れぬ武器では接近戦の防御に隙が生まれる。酒泉童子の目前に瞬時に移動した生命童子は首を狙って宝剣を振った。


「許せ、酒泉!」


 その攻撃を躱そうと酒泉童子が足を引いた直後、生命童子の声が上がった。


「ぐァッ……」


 生命童子の左肩に刀が突き刺された。その刀を握っていたのは鬼に堕ちた善財童子だった。


「手出しは無用と言った筈だ、善財!」


「俺ニモ殺サセロ」


「こいつは今俺と闘っているのだ、邪魔をするな!性根まで鬼になり腐りよって、下衆が!」


 鬼は戦う生命童子の後ろを取り隙を見て言葉通り横槍を入れたのだった。血迷ったのか酒泉童子は仲間である筈の鬼の肩に薙刀の刃を振り下ろし、鬼の利き腕を切り落とした。腕はぼたりと地に落ちる。


「ギャーーッ!!」


 鬼の叫び声に生命童子は振り向いた。片腕を失った鬼は血の噴出す肩をもう片方の手で押さえながら泥の中をのたうち回っている。


「俺ノ腕ガァーー!アアッーー!オノレ、卑怯者ハ、オ前ダ!最後ニ鬼トナッタ意気地ナシノ癖ニ!俺ノ腕ガァーー!」


 侮蔑するような目で鬼を見下す酒泉童子に生命童子は希望を抱かずにいられなかった。やはり人間のままなのではないかと疑念が頭の中を彷徨う。だが刃のぶつかる音は止む事なく鈍く響き続け、雷鳴はどんどん近くなっていった。



 雨の中で闘う二人の体力には大きな違いが生まれていた。生命童子は肩で息をしているが酒泉童子は戦い始めた時と同じ力を発揮して、息も乱れていなかった。どれ程戦っても酒泉童子の力は一向に緩まない。酒泉童子は生命童子よりも年上であり健康状態も生命童子程良好な状態ではなかった。互いに死ぬ気で戦ったことなど過去に無かったにしても、これ程までに力の違いがあったとは思えない。この力はまさしく鬼のなせる技だった。そしてやはり鬼なのだと言う確信が齎されたのは酒泉童子の外見にも変化が見られ出したからだった。


 戦う間に頭頂部に二箇所大きな盛り上がりが生まれ、目が黄色く染まり始めている。腕の太さは倍ほどにもなろうとしていた。隆起していく筋肉は他の鬼達の特徴と同じもの。これが鬼になるという事なのかと、生命童子は変貌していく彼の姿に目を覆いたくなった。


「ワシを憐レに思うカ、生命ヨ」


 刀を交えながら酒泉童子は生命童子に訊いた。


「憐れになど思うものか!お主は鬼になることを選んだのだろう!」


「ソウダ、人から迫害され、住処を奪わレ、チカラを失イ、屈辱を味ワッタ。なのにまた鬼と戦えと奴ラは性懲りモナク、ワシに頼みに来た。虫唾が走ッタ。人とは鬼の様に残酷な生物ヨ。奴ラは猿鬼共に殺サレタ。ワシはそれをただ見て居た。ワシはもう既に鬼だったのだ」


「何故だ、酒泉!俺のことが信じられなかったのか?!神の力が戻ればお主の力は戻るとそう言った筈だ!」


「力は戻った、ホラこの通り!」


 酒泉童子はその剛力で薙刀を振り生命童子を再び飛きとばした。だが今度は倒れる事無く着地し、生命は次の一手に全力を掛けようと構えた。それは闘いに出かけた際、酒泉童子と共に編み出した斬首技。


「せめてこの技で葬ってやろう……覚悟!」


「……来イ、生命!」


 薙刀を握り直し構えた酒泉童子の元へ生命童子は走る。宝剣を体に沿わせて前へ前へと走り、飛んでくる刃をその身一つで避けながら敵の領域に入った。何度も刃は頬を掠り血が流れるが距離を詰めれば攻撃は遅くなる。その間に一足一刀の間合いまで詰め寄り生命童子は宝剣を酒泉童子の首にあてがった。


 その瞬間、酒泉童子は攻撃の手を止め、防御をする事無く目を瞑った。


 笑みを浮かべて斬られるのを待つように――。


 










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