第9話 毒念


 雨足は弱まることなく逸る心に影を落としていた。


 

 ――綱を持つ手は血に塗れている。

 俺は童子達を手に掛けた。

 共に命を懸けて戦った仲間をこの手で殺した。

 己の醜さに手が震える。

 俺がもっと早くに気づいていれば。

 もっと皆の気持ちを慮っていれば。

 何故俺はこんなにも不甲斐ない、

 何故童子達は俺に何も言わなかった、

 何故弁財天様は皆に知らせなかった、

 俺の鬼の素質を。

 悍ましい程の虚栄を。

 俺がもっと強ければ。

 俺にもっと思慮が有れば。

 こんな惨事は起きなかっただろうに。

 これは愛してはならぬ方を愛した俺への罰なのか。


 いや、俺はもう十分に失った。

 父も母も、そして仲間達も……。

 これ以上大切なものを喪ってたまるものか――。


 生命童子は何度も心に落ちてくる闇に抗い、暗闇の中を走り続けた。



 *




 生命童子が家に着くと門扉が大きく開け放たれたままになっていた。無闇に外に出るなと言い置いたのに、と背中を寒くして馬に乗ったまま家の門をくぐり勝手口へと移動した。木の桶が風に飛ばされカラカラと音を鳴らして庭に転がる。勝手口の戸も開いたままだった。家の中の灯りが見え、人の動く音がする。馬を降り、声を掛けながら中へ進んだ。


「春乃……外に出るなと言ったではないか、門扉が開けっ放しでは不用心だぞ……春乃……」


 返事はまだない。心は急くのに鉄の枷を引きずっているかのごとく足取りは重い。あの騒動の後だ。町の者達が戻ってきて宿を貸してくれと頼んでいるのかもしれない。高村山はここから半刻掛かり、行って戻ってくるだけでも一刻は優に掛かる。酒泉が見つからなければ一旦ここへ戻るだろう。可能性が低くとも、そう考えたかった。この物音はきっと町の者達か妹のものであると信じたかった。現実を直視することを童子の心が拒否しようとしていた。だが感情とは裏腹に手は自然と刀を抜いていた。


 上り框から水が垂れ、続く廊下も汚れて濡れていた。この大雨だ。皆の服が濡れていたのだろう。だが草履は妹達の物しか無かった。悪い予感と縋りたい希望、矛盾する二つの感情に心は乱れた。


 奥へ進む廊下の水の中に、赤い雫がぽつりぽつりと現れた。その雫は足を進める度に大きくなり、やがて血の水溜りへと変わる。

 

 奥へと進むほどにぼりぼりと嫌な音がする。それはどこかで聞いたことのある音だった。人の少ない集落で人さらいが続くと聞き、助けを求めてきた村人に案内された道中、茂みの中から聞こえたものと同じ音。硬いものを砕く音。茂みの中にいた鬼は殺した人間を骨ごとを食べていた。鋭い牙に砕かれる骨の音が、あの日と同じ悍ましい響きが、囲炉裏部屋から聞こえてきた。童子の心が悲鳴を上げ始め、心臓が早く大きく脈打つ。異常に早まった血の巡りに血管が耐えられず頭痛を生み出し、酷い耳鳴りの所為で音が上手く聞こえないまま、童子は障子の開け放たれている部屋へ足を踏み入れ目を見開いた。稲妻が走り落雷の音が鳴り響く。


 壁や箪笥には血しぶきが散り、畳は文字通り血の海だった。その血の海の真ん中に、背中を丸めた男が一人うずくまっている。そして頭を何度も上下させ、何かを食べていた。

 その肩に池で倒したものと同じ大きさの猿鬼が乗っていた。男は白い腕を持ち上げる。柔らかそうな、美しい腕。その手には何かが握られていた。しっかり握っていたのだろう、落ちずにまだ手の中にある。だが持ち上げられた腕の肉に男ががぶりと噛みつくと、それは力なく細い指からすり抜け、畳の上に零れ落ちながら解けた。

 

 体中の血が全て足先から抜けていくように生命童子は蒼白になった。


 零れ落ちたそれは妹が縫っていた帯だった。「危ない時のお守りに」と生命童子に渡そうとしていた角帯。宝剣を握りしめていた握力が抜け、ごとんと切先が床を叩いて音を鳴らし、男が振り返る。


「……生命童子、ヤットモドッタカ」


 口元の血を腕で拭うと男はにやりと笑った。額からは角が二本生えている。その場にすくりと立った鬼は童子の手にある宝剣を見ると距離を取るため、部屋の奥へ飛んだ。腰からぶら下げている袋からは血が滴り落ちている。


 囲炉裏の横には血まみれの女が横たわっていた。衣服は乱れて、胸から切り裂かれている。切れた着物の内側からは臓物が無惨に引きずり出され、左手の指は親指以外全て食べられていた。


 ただ、顔だけは、美しく、無傷のまま目を開けてこちらを見ていた。

 その女の顔は紛れもなく、童子の妹――春乃だった。


「春乃……、春乃ーーー!!」


 生命童子は妹の体の傍に駆け寄った。春乃の体の上に両手を翳し、溢れ出る内臓や血を元に戻したいのか、混乱しているのか、触れようとしては手を止め、起こそうとしては躊躇い、わなわなと震えて童子は刀を握りしめた。


「お……のれぇ……」


「ハハハハッ、オ前ノ妹ワ大層美味カッタ。人ガコンナニ美味イノデアレバ、モット早クニ食ベテオレバヨカッタ。ヒモジイ思イヲスル事モナカッタモノヲ」


「おのれぇええええ!!化物めがぁぁあああああ!!」


 童子は刀を振りかざし鬼に飛び掛った。振り下ろした刀は鬼の手に当たったが刃は刺さらず、猿鬼は肩から飛び降りて部屋から戸口へと逃げた。憤怒の余りに童子の目の毛細血管が破裂し、白目が真っ赤に染まる。こめかみの血管は今にも血が吹き出そうにドクドクと脈打った。怒りの余りに呼吸するのを忘れていたのか、童子はゼィゼィと苦しそうに呼吸する。刀を避けた鬼の爪は長く鋭く尖り、爪先は真っ赤に染まっていた。畳みに沁み込んだ血が自分の重さで沁み出るのを見ると、怒気が体を駆け回った。


「何故だ、何故妹を殺した……善財童子」


「……オ前ヲ苦シメル為ヨ」


「俺を襲えばよいだろう!何故だ!何故弱き者を襲う!お前も鬼と戦う俺の朋であったではないか!弱き者を共に、共に……その命を掛けて守ってきたではないか!!」


 童子は再び刀を振った。だが鬼は素早く後退すると襖を蹴り倒し隣の部屋へと移った。床の間においてあった生命童子の刀を見つけると素早く手に取り、刀を抜いて童子へと刃を向け、刀がぶつかり合う音が響く。


「憎イ、ニクイ、俺達ハ命ヲ削リ……ソレナノニ……人ガ憎イ……オ前ガ憎イ、我ラヲ救ウ神ナド、コノ世ニ存在シナイ!!」


 鬼は大きく振りかぶり上段の構えで童子へ斬り掛かる。童子は振り下ろされた刀を宝剣で受け、雨戸側へ追い詰められた。繰り返される攻撃を宝剣で防御するが鬼の強烈な蹴りが腹に入ると衝撃で雨戸が外れ、外へと転がり出た。


 再び雨に濡れる童子の目からは赤い涙が流れていた。


「何故だ……何故奪う……」


「オ前ニハマダ弁財天ガオルデハナイカ。オ前ダケニ力ヲ与エシ、悪ノ根源。ソレモスグニ消シ去ッテクレルワ!」


「何を血迷った事を言っている!お前達は皆鬼共に戯言を吹き込まれ毒念を植え付けられたのだ。人の心を忘れ、鬼に堕ちただけだ!」


 鬼はそれを聞くと肩を怒らせ咆哮を上げた。


「グオオオオオーーーッ!」


 咆哮と同時にまた稲光が走る。

 そして稲光と共に、目の前にもう一体、鬼が現れた。


 




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