第39話 秘


 紅生は近頃ずっと機嫌がよかった。何故だか敬翠には分からない。


 時折自傷の痕を左手で辿って空を見つめる仕草をするのだが、そういう時は何を考えているのかと尋ねた。大抵どうやったら死ねるのかぼんやり考えていると答えた。それを聞いた時、どれ程の悲しみを抱えて生きているのだろうと心配していたが、その仕草もいつのまにかしなくなっていた。笑っていて欲しいと思ってはいるが、憂いた瞳は魅惑的で物憂げな姿も好きだった。紅生の悲しむ顔も、困った顔も、憂う姿も、苦悶する顔も全てが大切で、笑ってくれなくてもただ傍にいられるだけで幸せだった。


 それが上弦の日の前後に笑みを零すようになったのだ。生きる事を受け入れているように見えてうれしい反面、何が彼を変えたのだろうと気になって仕方ない。


「紅生様、何か良いことがありましたか」


 あったに決まっている。なのに紅生は何もないと真顔の顔を造る。


 紅生は何かを隠していた。彼の心の内側を何かが照らしているのだと敬翠は思った。まさか神と再会したのだろうか。いや、それならば話してくれるはずだ。神への思いは今まで散々聞かされてきた。今更繕って隠すとは思えない。では何を隠しているのだろう。


 心の中で燻りの種が芽吹くと雑草のようにみるみる育ち、根を張り、さらに葉を広げ敬翠の精気を消費するようになった。感情が渦巻き心が揺さぶられる度に精気を失っていく。このままだと食事を摂る体を交える際に紅生の持つ精気を食べてしまうかも知れない。

 精気は補え合えるもの――そう信じさせ続けるためには己の精気は常に補充しておかなければならない。また村へ下りなければ。


 足りないものがあるから村へ行くと紅生に伝えると、いつ戻るのかと訊かれた。人間から精気を摂取するのは大体月の終わりごろと決めているから都合よく人間に出逢わない限り日にちが掛かるだろう。いつもの男たちを誘い出す事が出来るか分からないし彼らがどこに住んでいるかまでは知らないから、「四、五日は掛かるかもしれない」と告げた。するといつもすまないなと労いの言葉を掛けられた。

 「行けるものなら俺も行きたいのだが」という聴き慣れた台詞は聞けなかった。普段なら残念そうに見送られるのに今回は家を空けるのを喜んでいるようにも見える。


 芽吹いた種には沢山の棘が生えているようで内側にじくじくと傷を作っていった。近頃は嫌な妄想まで頭に浮かぶ。半妖のままでいる自分の精気が不足したら、醜い鬼へと変貌していく妄想だ。早く精気を摂らなければ今の姿を保てず、醜く変貌した異形の仲間たちの様になる、そんな恐怖に襲われた。そうなってしまえば紅生の傍にいられなくなる。悪い考えはどこまでも一人歩きして敬翠の心を苛み、敬翠は急いで山を下りた。



 敬翠が四、五日戻らないと聞いて紅生は直ぐに青竜の家へと走った。辺りが薄暗くなってから青竜の家の裏戸を叩く。そして置いてあった水瓶をひっくり返して誰にも見られないように神社の裏の林の中で待った。


 程なくして青竜は現れた。息を上げて走って来るのが見えると、紅生の心の内は踊るようだった。自分のために走ってくれている、早く逢いたいと思ってくれているのかと思うと体温が上がった。


 「紅生」


 青竜は林の奥に赤い色を見付けてそのまま駆け寄って来た。紅生は微笑んで迎える。


「青竜……」


「すぐ気づいたっ、からっ……」


 走って来た息を整えながら青竜が言うので嬉しさを隠せず紅生は心の内を漏らしていた。


「逢いたかった」


 その言葉を聞いて青竜は顔を真っ赤にする。恥じる仕草の愛らしさに胸へ引き寄せてしまいそうで紅生は自分の腕をもう一方の腕で抑えた。


 青竜の足はそこから動かず、何か話したい事があるようで近くの岩に腰掛けた。初めはたわいのない事を話していたが少し気になる事があるんだと切り出した。


「最近さ、田畑が滅茶苦茶にされるようになってさ。村の連中困ってるんだ。それに山に入ったきり帰ってこない奴らもいるんだ。何日待っても帰って来ないから、二人探しに行ったらそいつらも帰って来ない。だから今、村の中がざわついてるんだ。紅生、どう思う?これって鬼の仕業?それとも妖怪かな……」


 妖怪かも知れないし、鬼かも知れない。どちらの可能性もあるが嫌な予感がした。紅生は青竜に訊く。


「青竜の周りで変な事は起こっていないのか。妖怪によく出くわすと言っていただろう」


「俺と母ちゃんは大丈夫。俺んちの田畑はまだ荒らされてないし。牛鬼が死んでからは妖怪もあんまり顔を出さなくなった。ただ人が戻ってこないのが気になって……そんなに大きな村じゃないのにもう四人も行方知れずだ。毎晩交代で見張りをしてるけど、村の田畑は毎晩どこかが荒らされてる。母ちゃんも不安がってるし、俺がまた物の怪を連れてきたんじゃないかって言い始める村の人もいて……」


「そうなのか」


 何か有ればすぐに他人のせいだと責任を擦り付け憂さ晴らしに攻撃先を見つけようとする愚かな生き物め。腹の中で人間に対する怒りを抱えながら、かつては自分もそんな人を守る童子にんげんであった事を思い返す。自分の視点がいつの間にか人間とはかけ離れたものになってきている事に不安を抱き、その不安を払拭するかのように紅生は提案した。


「四、五日なら時間がある。俺がその山を調べてみようか。まずは行方知れずの人を探すのが先決だろう」


「いいのか?紅生、強いの?」


「あぁ。俺は鬼の中でも強い方だと思うぞ。元童子だから武術も人並み以上。安心していい」


「じゃぁ弓矢も引けるのか?!」


「ああ……、弓矢も引ける……」


「へぇ!凄いや」


 紅生の視線は自然と落ちた。弓矢と聞いて何故か罪悪感に襲われた。


「森へ案内するよ」


 青竜は紅生を連れて山道を歩いた。人が居なくなったという山は青竜の家の近くにある川の反対側に位置する山で、夜半だから姿を見られずに済んだものの昼間では渡る際に人目につく恐れがある地形だった。気を付けようと紅生は自分に言い聞かせて川を渡った。


 反対側の山は神社側とは違って人の気配が全く感じられなかった。

 人が近くに住んでいる場合、大抵は麓が開けているのに全くの手付かずだった。


「全く人の気配がしないな」


「うん。こっち側はなんでか昔から人が寄り付かないんだ。村の爺様たちも入るなって五月蠅いらしい。ちょっと前に大水が出て水浸しで畑使えなくなった連中もいてさ。こっちの方が土地が高いから氾濫しないんじゃないかって皆で話してたんだ。それにいくら囲いをしても見張りをしても荒らされるから新しい場所を耕すのがいいかも知れないって事になって。ただ土地が高いのに水を引くのには大変だから山の中に流れる小川を平地に引いたらどうかって案が出た。それで確認しに山に入った二人が戻らなくなって、その二人を探しに行った人たちも帰ってこないんだ。

 皆森の神様の祟りだとかなんとか言ってるけど神様が人間を攫うなんて事しないと思うし、俺は妖怪か鬼の仕業じゃないかと思うんだけど……鬼って、その、悪い鬼な」


「気を使わなくて大丈夫だ。俺は鬼だが元人間、不安も理解している」


 そう言って辺りを見廻した。人の匂いがしないのは当たり前として獣の音まで聞こえぬとは不思議な場所だった。どうやら青竜の憶測通り、妖怪か鬼の仕業である可能性が高いと思った。


「奥へ入って様子を見て来る。お前はもう帰れ。そして俺が合図を送るまで村人には森へ入るなと言って置く方がいい。また人が入って来てどうなるか分からないし、俺の姿を見て俺が人を攫ったように思われたらお前に会いにくくなる」


「分かった。なんか面倒事頼んでごめん」


「お前が困っているならいつでも助ける。何せ鬼は暇だからな」


 紅生はそう言って笑って見せた。


「そうなのか」


「あぁ。殆んど歳を取らないし、怪我もすぐ治る。だから心配するな」


「分かった、気を付けて」


 青竜は何度も振り返りながらもと来た道を帰っていった。紅生は視界から見えなくなるまでじっと後ろ姿を見つめていた。


 青竜ともっとゆっくり話していたかったが、村の人間の疑いが青竜に向いているのは聞き捨てならなかった。退治出来る相手であればさっさと退治して、早く疑いを晴らしてやりたい。紅生は山奥に足を進めていった。




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