第40話 秘②


 鬱蒼とした森の中、頼りの耳を澄ませてみたが申し合わせたように虫も獣も音を立てることがなく役に立たなかった。全てが怯えているように不自然で静寂だった。そして奥へ奥へと進む内に匂いがしてきた。鼻が曲がりそうな腐敗臭。獣か何かが死んでいる。袖で鼻を覆いながら紅生は臭いのする方へ向かった。


 大きな椎の木の根元に大きな塊が見え、ゆっくりと近づくとそこには食い散らかされた人間の死体があった。首と足の肉が一部欠けていて内臓が喰われ、鳥類に啄まれたのだろう体中には小さな傷が無数にあった。切れた所から蛆が湧いている。


「無残な……」


 紅生は鼻を覆ったまま辺りを見廻した。恐らく戻ってこない人間の内の一人だろう。いなくなったのは四人。後三人このような状態になっているかと思うとぞっとしない。死体の損傷は首元と太ももが一番大きく何か鋭い牙を持った生き物に噛みつかれてから内臓を食い破られたのだと想像した。ひっかき傷がない事から熊ではないだろう。


 気温が一気に下がり始め、澱んだ空気が足元に這い出し、紅生の足へ纏わりつくように霧が出てきたと思うと同時に音が聞こえ始めた。


 湿気た落葉を踏む音は四足歩行の獣のものではなかった。紅生はすぐに近くの木の上へと登った。


 じっと目を凝らすと、霧の中からゆっくりソレが死体に向かって歩く。


 もつれたゴミまみれの髪、ボロボロの衣服、異常に盛り上がった筋肉質な体は片方が極端に肥大しすぎたのだろう均衡を崩しており、片足を引きずるようにして進んでいた。涎を垂らしながら言葉にならない呻き声を発して手をだらんとさせたまま死体の前に立つ。その頭からは角が一本生えていた。異形の鬼だ。


 鬼は死体の目の前に来てしばらくじっとしていた。それから屈んで死体に近づくと、死体の指を数え始めた。


 よく見ると死体の足の指は全て捥ぎ取られている。鬼はもうすでになくなっている足の指をわざわざ数え、次に手の指を数えて、残り三本になってしまっている内の一本を千切ってぼりぼりと骨ごと食った。


 そしてもう一本取って食おうとしたところで、突如地団太を踏んだ。周りには何もいないのに辺りを見廻して、涎を垂らしながら死体を舐めるように見てからもう一度地団太を踏みゆっくりと霧の中へと戻っていく。


 食べたそうな仕草を見せたのに、指一本だけ食って帰っていった。何故だ。食べたいのなら食べてしまうのが鬼だ。知能が高そうには見えなかった。知能の高い鬼は容姿が人間と変わらず整っている。人間の顔の形状を失うと同時に人であった頃の理性は消える筈。鬼の顔はもはや人のものではなかったのに高い知性を持ち合わせると言うのか。一日一本ずつ食っていたと仮定すると最低十七日間はあの死体を前に我慢し続けている事になる。食べたいのに食べられない。だから地団太を踏んだのだろう。


 異形の鬼に欲望を我慢させる何かがあるのだと思うと紅生は背中が寒くなった。あの鬼を支配している何か別の存在がある。嫌な考えが頭の中を走り回っていた。


 紅生は見つからぬよう異形の鬼の後をつけた。鬼は自分の足を引きずる音で紅生の尾行に気づかないようだった。


 鬼の足は大きな岩場で止まった。切り倒された木が岩に立てかけられて、岩と木の間に空間ができており、鬼はその中をじっと見ながらそこへ腰を下ろした。


 何かがそこにあるのだろう、寝転んで凝視し、また目線を反らして暫くすると再び中を見つめると言う行動を繰り返していた。


 村人の一人を殺したのはあの鬼だろう。そして今鬼が見ているのは残りの三人ではないだろうか。紅生が居る場所からはちょうど死角で中が見えなかった。見えるところまで移動しようとしたところで不覚にも音を立ててしまった。


 鬼は音を聞き逃さずむくりと立ち上がる。


『しまった……』


 三人の状態を確認してからの方が戦闘になった際安心だと思っていたのだが、それより先に見つかってしまっては戦わざるを得ないだろう。そう思ったのだが鬼はそのまま山奥へ走って行った。


「なんなんだ一体。何がしたいんだ」


 鬼の奇行が気になったが紅生は急いで中を覗いた。


 そこには三人の男達が腕と足を縄で縛られて倒れていた。紅生はすぐに駆け寄って息を確かめた。三人とも意識はないがまだ生きている。あの鬼が何かに恐れて走り去ったのかそれとも仲間を呼びに行ったのかは分からないが、早くこの場から連れ出さなければ。


 紅生は三人を抱えて山を下りた。男たちは魘されていたが目を覚ます事はなく、夜明け前に神社へ着いた。紅生は手水舎の柄杓を使い何度か男たちの口元へ水を運んだがまともに飲める者はいなかった。縄で縛られていた皮膚が擦り切れて膿んでおり変色が広がっている。病に罹ってしまっているのかも知れないと思った。


 青竜の家の戸を叩いたが直ぐには出て来なかった。何度か「医者を連れて神社へ来い」と言ってみたが青竜から返事はなかった。他の村人を起こす訳にも行かず、紅生は水瓶をひっくり返して神社へ戻った。


 男達は寝かせた状態から身じろぎもしておらず相変わらず意識がなかった。早く医者に見せねば命が危ういだろう。何か出来る事を、と傷口を洗ってやっていると数人の人間が走って来る音が聞こえ、紅生は林の中へ身を隠した。


 先頭を切って走って来たのは青竜だった。声は届いていたようで医者を連れていた。倒れている三人に駆け寄った医者はすぐに脈を計りお湯と酒を持ってこいと慌ただしく指示を出し、一緒に来た青竜たちは走り回っていた。救ったのは神だと思わせるのが一番無難だと思って神社に下ろしたのだが、ここには病人を寝かせる布団もなく、意識のない人間を常人が運ぶのは難しく看病は大変そうだった。民家へ連れて行けばよかったと思ったが何とか三人は無事に命を取り留めたようだった。男達が目を覚まして事の詳細が明らかになれば青竜へ向けられた疑いも晴れるはず。紅生は自分に出来るのはここまでだろうと家に帰った。


 敬翠はまだ戻ってなかった。そして彼が出掛けてから予定の五日目の夜になっても、七日目の朝を迎えても敬翠は戻ってこなかった。


 敬翠は何日掛かると言った予定を違えずにいつも家に戻る。こんな事は初めてだった。どうしたのだろうと気になったが、敬翠は元童子で今や鬼。物理的な心配は無用。細やかに生活を営むのが好きな敬翠は、家に色々なものを揃えていた。華道や茶道も嗜んでいたためそれらの道具を集めるのも好きだった。戦い以外無頓着だった紅生には何が不足しているのか分からない。欲しい物など何もない。この世に執着するものが何もない紅生は空っぽだった。全て敬翠の好きにすればいいとそう思いながら、鬼の生活を楽しんでいるようにも見える彼を羨ましく思った。手に入りにくいものを探しているのかも知れない。紅生は敬翠の帰りを待つことなく置手紙を書いて再び青竜のいる村へ向かった。





 再び神社の裏の林へ来た紅生は周辺の様子を窺った。人が神社の境内に集まって騒いでいた。その中心に青竜がいる。


「神様があの三人を助けて下さったんだ。きっとまた助けてくださる。頼む、青竜」


「俺は何もしてないよ。ただ、いなくなった人たちが早く見つかりますようにって神様に願っただけだ」


「しかしお前のおっかさんが夜中に“医者を呼べ、神社へ来い”と不思議な声を聞いたと言っとったじゃないか。だからお前さんも飛び起きて医者を呼んだんだろう。頼む、行方不明だった者たちは戻ってきたが田畑はさらに荒らされるようになった。このままでは皆食べていけなくなる。もう一度神頼みしてくれんか」


「でも、俺が祈ったからってまた聴いてくれるとは限らないし」


「この世のものとは思えん器量をもつのは、やはりお前さんが神様に近いお人だからじゃろう。神様もお前の頼み事なら聞き入れて下さるに違いない。頼む、この通りだ」


「わ、分かったよ、やってみる。でも、なんも無くても俺を恨むのは止めてくれよ。神社に一番近い家に住んでるから神様が教えてくれただけかもしれないんだ」


「ああ、勿論じゃ。では頼んだぞ、青竜」


 青竜が渋々受け入れると、彼を囲んでいた村人は帰っていった。一人神社に残った青竜は溜息を吐いて神社の裏の階段に座った。


「また紅生に頼むのか。助けて貰ったばかりだって言うのに……」


「俺は構わんぞ」


 辺りを見廻しながら紅生は林から出てきた。


「紅生……来てたのか」


 青竜は困った顔をしていた。紅生は横に座る。


「でも紅生に頼ってばかりじゃ……」


「構わんと言っただろう。お前はどうしたい」


「そりゃどうにかしてやりたいけど、誰が見張りをしてたってどこかがやられるんだ。紅生が見張ってもきっと一緒だよ」


「皆の田畑を守りたいんだろう。童子の頃にもこの類の頼み事は多くあった。大体は山から下りてきた獣のせいであったが、稀に鬼や物の怪がいたずらに畑を荒らす事があった」


「そうなのか。でも……」


「何か他に心配ごとがあるのか」


「帰って来た三人は鬼に襲われたって言ってた。一人は食われたって。鬼があの山にいるんだろう。畑も鬼の仕業だったら……」


「何だ」


 紅生は青竜の眼を見つめた。強い眼差しを持つ麗しい瞳は相変わらず穢れを知らず光り輝き、海の底を見ているようだった。


「あいつらの話聞いてたら怖くなったんだ。田畑を荒らしてるのが鬼なら、追い払う時は戦うんだろ」


「それはそうだ」


「紅生がやられたら……」


「俺の事を心配してるのか」


 ふふっと紅生が笑うと青竜は頬を膨らませて怒った。


「何がおかしいんだよ、人が心配してるのに!」


「すまん、あまりにも嬉しくて」


「何がっ」


「お前が俺の身を案じてくれる事が嬉しいのだ」


「そんな事、普通だろ」


「俺より強い鬼は、俺が知っている中ではこの世に一人だけだ。そいつでない限り俺は負けない。それにお前の役に立てるなら例え死んでも本望だ」


 泣きそうに見えたのは気のせいだろうか、青竜はそっぽを向いて腕を組んだ。


「勝手に死ぬとか言うな」


「俺が山で見た鬼は俺が恐れる鬼ではない。心配するな」


 紅生は青竜の頭をぽんぽんと撫で、身を案じて渋る彼を説得する様な形で紅生は再び厄介ごとを請け負った。


 紅生は家へ戻る事なく早速その晩から村の田畑の見張りを始める事にした。神様は人がいるところには出ないから絶対に夜は外へ出ないようにと青竜を通して村人に伝えて貰った。鬼の出現があれば戦いに巻き込む可能性があるからだ。


 暗闇の中、じっと耳を澄ませていると聞き覚えのある足音が遠くで聞こえた。山の中で人を食っていた鬼のものだ。歪な歩き方をするため音が特徴的ですぐにわかる。鬼はゆっくりと山から下りて草叢の中へ身を潜ませ、荒らす場所を選ぶようにきょろきょろと様子を窺っていた。そして場所を定めるとそこへ向かって一直線に走り出し、入った畑で作物を踏み潰し始めた。狙われた田畑は綺麗に整えられている場所で作物がよく実っていた。


 鬼になりたてと言う程人であった時の理性を持ち合わせているようには見えない。この村の全員を憎んでいるという事だろうか。紅生は人の気配がない事を確かめると鬼の目前へ飛び出た。


「やめろ」


「グゥ……キタ、紅イ鬼」


 そう言って鬼は紅生を見るや否や背中を見せて逃げる仕草を見せたので紅生は回り込んで行く手を塞いだ。


「どこへ行く。お前の目的はなんだ。畑を荒らして人を困らせてどうする。人を山へ誘い込むためにしてるのか」


「紅イ鬼、コロサレル」


 鬼は逃げ惑ったが均衡の悪い体は走るのも遅く紅生にすぐ捕まった。そして鬼は叫んだ。


「紅イ鬼コワイ。コロサレル」


「森の中の人間もお前が殺したんだろう」


「紅イ鬼、コワイ!コロサレル!」


 鬼は田畑を走り回りながらその言葉を繰り返した。そして畝の端に突きさしてあった鍬を手に取ると紅生へ襲い掛かった。


「紅イ鬼、コロサレル!」


「黙れ!これ以上悪事を続けるならばお前の首を刎ねる」


「ヒィッ!」


 怖がりながらも鬼は紅生へ鍬を掲げて向かっていった。戦い方を知らぬ鬼。この鬼はもしかして元々村人だったのかもしれない。だから人を簡単に殺せなかったのかもしれないと紅生は思った。振り上げられた鍬は何度振り上げられても虚しく空を切る。


 「憐れな鬼よ。生き永らえ罪を犯し、人を渇望し続ける哀しい生き物。今その苦しみから解放してやろう――」


 紅生は向けられた鍬の柄を掴み奪い取ると右手の平を硬直させて異形の鬼の首元に中てて振りぬいた。


 鬼の首は夜の空に飛び、首のない肉体は倒れて灰色の煙が立ち昇った。魂が昇華していくのだ。鬼になって暫く経っている個体のようで煙が消えると骨まで粉々になっていった。


「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ……」


 紅生は真言を唱えた。童子でなくとも、鬼になっても鎮魂を願う。



 一部始終を見つめる妖しい眼光が暗い森の奥で鈍く光っていたのを紅生が気づく由もなかった。




 







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る