第22話 愛敬童子⑥ー羽
本堂での夕餉にはいつの間にか来ていた隣村の寺の和尚と修行僧も同席していた。酒が振舞われ上機嫌になる酒泉童子だったが生命童子は頬の肉をぴくりとも動かさない。
「生命童子様、体調がすぐれないのでしょうか……、箸が進まぬようですが」
硬い表情のまま、にこりともしない生命童子にたじろいで和尚は冷や汗をかいていた。
「小僧達が何か失礼な事を致しましたか……」
「いえ」
はいかいいえしか答えない生命童子を横目に、酒泉童子は酒を飲んでは箸を進め童子達の武勇伝を語り、それを肴にまた盃を空にして和尚たちに酒を注がせた。横に座る生命童子の不機嫌を繕うでもなく、言い訳をするでもなくいつもの様に酒豪よろしく飲んでいる。和尚たちは何とか機嫌を直してもらおうと生命童子に何度も話しかけたが一向に壁は崩れそうになく途中で諦めた。最後まで機嫌の直らない生命童子に気を使いながら何が彼をそこまで怒らせたのか坊主たちは理解できずに気まずい雰囲気のまま夕餉は終わった。鬼が出るのは何時か分からないが、馬小屋と墓地のある西側ばかりが狙われるので、今宵はそちらの見回りをしていただくのが良いでしょうと和尚が告げた。肩を貸せと言う酒泉童子を抱えて生命童子は部屋へ戻った。開け放たれた部屋に月明りが差し込む。
「何で酔った振りするんですか、師匠」
敷いてあった布団にごろんと仰向けに寝転んだ酒泉童子は今にも鼻歌を歌い出しそうだった。胸が焼けるような話を聞かされて不機嫌な生命童子は機嫌のよい酒泉童子に小言を言う。
「坊主たちの本音を聞くには酔っ払ったふりが一番だろう。お前こそ仏の前でずっと仏頂面とは面白かった、フハハッ」
「あんな話を聞いてにこにこ出来ません」
「そりゃそうだ。それにしてもやたら滅多に旨い酒だった。禁欲している僧侶たちが作っただけあって、濃い欲望の味がした」
「そんな酒を飲んで彼らは欲を抑えられるんですかね」
「抑えられないから捌け口を作るのだろう」
「一気に僧侶を助ける気が無くなりましたよ」
「あくまで噂だ」
部屋の入口に腰掛け、鶴がいるだろう白い社を見た。寺で幼い少年達を囲い、穢れなき魂を持つ神の権現・御稚児様を通じて神と繋がると名ばかりの儀式を用意し、淫猥な行為を強いているという噂があると酒泉童子に聞いた生命童子は愕然とした。童子は鬼や物の怪達を排除して物理的に人々を救う。僧侶は迷った人々の心を救う。高尚な精神を持ち煩悩を忘れ、他人の為に生きるからこそ僧侶は敬われ人々から崇められると思っていたのに、自分達の欲望の為に子供を使って虐げているなど耳を疑った。あってはならない現実だ。どうして誰も咎めないのだと酒泉童子に聞いたが稚児がいる寺は沢山あるという。親も兄弟もおらぬ場所で孤独な上に腐敗僧侶の好きなようにされてどれ程口惜しい事だろうか。なんと惨い世界だ。すぐにでも救ってやりたいと生命童子は息巻いた。だが鶴からは事情を聞いていないし本当にそんな事が行われているのか確認もしていない。先刻の様に早合点する訳にはいかない。
「一皮むけば人も鬼も同じ。どれだけ正しく生きるかではなく、どれだけ悪事を働かずに済むかが分け目だ。人間の中には鬼よりも悍ましい殺戮をする者もいれば、鬼にも人のように優しい心を持つものがいると言う。他の童子は儂の考えにいい顔をせんが、儂は鬼であっても人に迷惑を掛けておらぬのなら生きる事を咎める必要はないと思っている」
「その理からすれば子供を自分の欲の捌け口にする僧侶は助ける価値のない類となりますが」
「まぁそう言うな。僧侶の頼みを聞かない訳にはいかん」
「何故ですか」
酒泉童子は起き上がり外の池に移る水面の月を見た。鯉の背びれがちらりと水面から顔を出して映る月の形を崩すとまた沈んでいく、その音さえ聞こえる静かな夜だ。
「僧侶は信仰を広める。我らの神は人の信仰により力を得、我らはその神から力を授かる。力の根源が神に有る限り人を助けなければならん」
「そこまでして力を持たねばなりませんか」
「苦しむ者を助けるのが我らの仕事だ。力が無ければ鬼も倒せん」
生命童子は自分の手のひらを見つめてぎゅっと握りしめた。神に授からねば力は生まれない。では鬼はなぜ力を持つ。鬼の力は人を凌駕し、寧ろ神の力に等しい。鬼とは一体なんだ。
「……鬼は何故人を襲うのでしょうか」
「人の生気と肉を喰って生きるのだから仕方あるまい」
「人を襲うなんて……」
「弱者が強者に食われるのはこの世の理。人間はその理を壊す存在であることを知っているか」
「……分かりません。人が他の動物と異なるのは道具を使う事、そして天敵がいない事だけだと思います。森の中の狼に天敵がいないのと同じ。人間の何が理を壊すのですか」
「例え強者である狼に天敵がおらずとも、自然の理は崩れぬ。狼は獲物である鹿の数以上にその数を増やすことは無い。鹿は天敵の狼がおらねばその数を増やし山の草を食いつくすが、狼がいる限りその数は必要以上に増えもしない。自然には均衡を保つものが必ず存在するのだ。だが人には均衡を保つものがない。人は増え続け、搾取し続ける。鬼が生まれたのはその均衡を保つ為だと、儂は考えておる」
「では人が鬼に食われるのは当たり前だと?」
「そうは言っておらん。儂とて人だ。人が食われるのは許せん。だが人が均衡を保てる存在となれば鬼は消える筈」
「……酒泉童子、鬼は悪。殺さなければ」
少しの沈黙の後、どこか憎しみを孕んだ生命童子の声色に酒泉童子は目を逸らした。
「童子の中でこのような考えを持つものは儂だけだ。儂の考えはおかしいのかもしれん。だがお前にとっての正は必ずしも他人の正とは限らない。人間の正とて人間以外にしてみれば正とは限らんのだ」
「だからと言って鬼を倒さない訳には行きません」
「ああ、わかっている。儂らの生きている間にどうこうなる問題ではないさ」
すっかりほろ酔い気分が冷めた酒泉童子は頭をぼりぼりと掻いた。
「鬼はこの寺の何かに惹きつけられてきたのだろう。でなければ人の少ないこの場所にわざわざやって来る筈がない。普通鬼は町や村のように人が集まる場所から攫う。こんな寂れた寺の限られた人数しかおらぬ場所に出没する事自体がおかしな話だ」
「やはり何か匂いますね」
「お前の見た黒い影もな」
二人は月明かりを反射して白々と闇夜に浮かび上がる社にいる鶴を想った。
*
一方、和尚と隣村の寺の者たちは和尚の部屋で夕餉の愚痴をこぼしていた。
「まったく何だ、あの態度。酒を注いでやろうとしても愛想笑いさえせん」
「まぁまぁ、元々鬼退治に来てもらっただけでしょう」
「それはそうだが、あれほどの見目をしておるのだから……」
「和尚様は欲張りでらっしゃる。麗しい御稚児様を二人も手元に置かれているというのに」
「いや、それもそうだ、はははっ」
勝手な言い分を連ねて坊主たちは酒を飲む。隣村の和尚は懐から何やら布に包まれたものをそっと和尚の袖の中へ落とし、和尚はその中身を確認するとにこにこと笑みを浮かべ、すくりと立ち上がってこちらへと二人を裏の社へと案内した。月夜の廊下を歩く楽しそうな坊主たちの声に童子達の心は穏やかではない。もとより鬼退治に来たのだから穏やかで済む筈もないのだが、これ程心地の悪い夜は無かった。
和尚が二人を社へ案内した後暫くすると静寂な夜にすすり泣く声が響いた。いつもは声が出ぬよう布を噛まされるのに、今日に限って口元は自由だった。
「御稚児様、今宵は童子様達が鬼退治をなさるそうです。きっと彼らが暴れる音でお声は掻き消されるでしょう。どうぞ存分にお声をお聴かせてください」
「口を、塞いで下さい」
「今日はいつもよりお布施を沢山持ってまいりました。御神の麗しい声を耳に焼き付けて帰ります。どうぞ」
鶴は懇願するが、我慢する姿を楽しむように僧侶は体を揺すった。自分の抗う声の合間に普段は聞こえぬ柚果の声も聞こえる。何がお布施だ。自分にはびた一文入らない。ただ食べて寝て体を揺さぶられるためだけに生きて何が神の化身だ。
涙が零れそうになるのを鶴はぎゅっと堪えた。一度泣いてしまえば声を抑えられなくなる。そうすれば童子たちに聞かれるだろう。こんな惨めな姿を晒すのは嫌だった。先刻までは彼らに弓を習い狩人の弟子になってここを出ていくのだと夢を見ていた筈が、現実は簡単に鶴の羽を捥いでいく。一枚一枚羽をもぎ取られ、日毎に飛べない体になっていくようで怖くて堪らない。苦痛に慣れ、搾取されることに慣れ、いつしか夢さえ諦めるのだろうか。知識もなく、身を立てる頭も体も持ち合わせぬまま、ここで貪り喰われ、朽ちていくのが目に見える。どうしてこの世はこんなに残酷で、どうしてこんなに孤独なのだ。頼りにしていた柚果さえ、もう笑いかけてくれない。なぜこんなにも苦しい思いをしなければならない。自分は何のために生きているのだ。
血がにじむほど唇を噛みしめ、鶴は苦痛を逃がすように息を継ぐ。悍ましい水音に吐き気がする。思うがままに蹂躙し、欲望を貪る人間の何が偉い。そんな人間が崇める神など、神であって神ではない。神に仕えるとする僧侶たちに貪られいつまでも苦しまねばならぬなら、いっそ鬼に食われた方がましだ。
「神さまなんて、どこにもいない……」
絶望にそう呟いた鶴の声と同時にガタンと柚果の部屋の方から大きな音がした。そして直後に叫び声が上がった。修行僧はそれを聞くと慌てて身を繕い、鶴を床へ投げ飛ばした。鶴は柚果が僧侶に酷い事をされているのかも知れないと、自分の乱れた服を素早く整えて廊下へ出た。先に廊下へ出ていた筈の修行僧は腰を抜かして部屋の入口前で倒れており、そのまま後退りしながら鬼だ、鬼だと手を合わせて南無阿弥陀仏と祈っていた。僧侶が慄き見つめる視線の先には、大きな羽根を背中に生やした男が柚果を抱きかかえていた。
「あなたは……」
白い社にくっきりと浮かび上がる黒い羽根を広げ、男は振り返った。顔に返り血が付いている。もしかして柚果のものだろうか。鶴の体から血の気が引いていく。物音を聞きつけて馬小屋のある西側から童子達が走って来た。
「鶴殿!」
「童子様!」
走る童子達を見ると羽の生えた男は柚果を抱きかかえたまま二、三度羽をはためかせ、そのまま屋根へと飛んだ。柚果は男の腕の中でぐったりしている。
「柚果!」
「あれは鬼か?!」
酒泉童子が叫ぶ。
「いえ、あれは、俺が昼間見た物の怪です」
生命童子は宝剣を抜いた。
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