第24話 愛敬童子⑧ー迦楼羅(カルラ)

 

 恐る恐る床下から這い出た鶴は足元に落ちている鬼の腕に小さな悲鳴を上げて生命童子の裾に縋りついた。


 沢山いた鴉天狗たちはいつのまにか数を減らし、嘴型の仮面をつけた数人の男たちは屋根の上から柚果と怪我をした鴉天狗をそっと地面へ運び、鬼神に足をやられた鴉天狗を心配そうにのぞき込んだ。


迦楼羅カルラ様、早く巣へ戻って治療を」


「柚果は……」


「人間は大丈夫です。気を失っているだけです。それよりカルラ様の足の方が心配だ」


 男たちの間をぬって鶴は地面に横たえられた柚果に走り寄った。


「柚果!柚果!」


 生きているのか確かめたくて何度も体を揺さぶる。柚果はううんと何度か頭を揺らしゆっくりと目を開いた。


「鶴……」


「柚果!良かった!生きてる」


「怪我はないか、鶴……」


 気絶していたのは自分なのに優しい口調で柚果は鶴を心配した。口調の温かさに目が潤む。少し前の、まだ沢山話をしていた頃の柚果に戻ったようだった。


「僕は大丈夫だよ。鴉天狗さんが怪我をしちゃったけど……」


 鶴は寝ているままの柚果に震えながら抱きついた。


「怖かった。怖かったよ、柚果。死んじゃったのかと思った。鬼が柚果を狙ってたんだ。それから鴉天狗さんに抱えられて屋根の上に行ってしまって。僕、僕……」


 怖かったのは柚果も一緒なのだ。泣いてはいけない。鶴は溢れ出そうな涙を堪え、柚果の胸に耳を当ててその心臓の音と呼吸を確かめた。話なんか出来なくていい。そばにいてくれなくたって良い。生きていてくれればそれでいいんだ。


「怖かったな」


 そっと柚果が鶴の頭に手を乗せて撫でた。柚果の気づかいが伝わる。鶴は柚果が生きている事に感謝した。そしてそれを感謝するのは、和尚たちが崇めていた神仏ではなく、鬼を追い払ってくれた鴉天狗と童子たちだと思った。


「童子様、鴉天狗さん、柚果を救ってくれてありがとうございます」


 鶴はそれぞれに向かって頭を下げた。


 カルラと呼ばれた鴉天狗は柚果に話しかける。


「柚果、こんな場所に未練などもう無いだろう。また鬼が出るとも限らん。早く契りを結ぼう」


「カルラ様!起き上がってはなりません、処置をせねば」


「五月蠅い、大した傷ではない。早く血が止まるように足を縛れ。どの道飛んで帰らねばならん」


 カルラと呼ばれた男は鴉天狗のおさのようで、部下らしき男たちはいそいそと応急処置をした。両足にぐるりとサラシを巻いてカルラは上半身を起こし柚果に抱き着く鶴を見た。


「これがどれ程突き離し冷たくあしらっても心配せずにはいられなかった可愛い弟か。もうあの糞坊主はおらん。こいつは自由だろう。お前も自由になれ」


「鶴はまだ一人で生きていけない。ここに居ればまた新しい和尚が来て同じことを繰り返すだけだ。鶴にも字を教えてやってくれ。鶴とも契りを……」


「こんな子供と契りを結ぶのは御免だ。お前すらまだ条件を満たさぬから連れて行けぬというのに」


「俺だって十分子供だろう」


 カルラは柚果と何かの契約をしているらしかった。だが柚果が鶴を置いていけないと渋っている。童子たちは鶴を心配して、どういう事だと二人に聞いた。柚果とカルラは事の運びを説明した。


「山を散策していた時にカルラと出逢ったんだ。初めは怖かったけど、カルラについて行って彼らの世界を見せてもらった。寺に来るものから聞く世界とこの寺の中しか知らない俺にとってカルラが棲む世界は完璧だった。自由に空を飛び、縛られるのは自然の摂理だけ。過不足のない因果応報の中で全ての出来事が流れていく。自分の行いが全て自分へと戻る。皆相手を思いやり、虐げる者もいない。人の浅ましさや醜さばかりを見てきた俺にとってはカルラの世界は理想の世界だった。一見獣と同じく好き勝手に生きているように見えるが、神通力を持つカルラがいれば、嘘を吐く者もいない。ここの坊主たちみたいに、有難い仏様の説法や蘊蓄を垂れて村人から金をまきあげたり、世捨て人などと皮を被りその裏で子供を使い私腹を肥やして好き勝手するような不条理は起こらない。皆自由に生きているんだ」


 柚果は鴉天狗たちの世界がどれ程合理的で平等で透徹した世界なのかを説明した。そして自分が生きている世界の醜悪さに絶望していた。元よりこの世はこんなものだと思っていた。欲に塗れ、その欲を満たせなければはけ口を求め、手に入れても手に入れてもさらに業を増すのが人。弱き者は生きる為に自分の尊厳も何もかもを犠牲にせねば生きていけない。見えない足枷を付けられ、羽をもがれた籠の中の鳥と同じ。搾取し合い、争い、嫉み、自由さえも奪われてやっと生きながらえる。しかし己にはその道しかないのだと思っていた。だがこの世はそんな世界ばかりではない。自由というものが存在するのだと知った。

 

 柚果はこの寺から自分を連れ出して鴉天狗の世界に連れて行ってほしいと頼んだ。そして字を教えて欲しいとも言った。もしカルラ達の世界に居られなくなっても字が読めれば世の中を渡っていける。舞も踊れるし唄も歌える。出来る事は何でもするから、この牢獄の様な場所から救い出してくれと願ったがカルラは渋った。字を教える事はできるが、飛べない人間と契約を結び、共に暮らす事は一族全体を危険に晒す事になりかねない。人間は嘘を吐く。そして己の欲を手放すことが出来ない。人を鴉天狗たちの世界に引き入れる事は禁忌で大きなわざわいだと言われていた。だがカルラは柚果に惹かれていた。まるで物の怪の様に妖しく、美しく、そして若いのに全てをあきらめたように見える柚果が不思議で、何も要らない、ただ自由が欲しいと寂しそうに言う彼を愛おしく思っていた。苦しみから解放してやりたい、愛とは何かを教えてやりたい、同じ世界に生きる者であれば、伴侶にしたいと言う程思いを募らせていた。


 柚果の願いは鴉天狗の世界の禁忌を侵す事となる。カルラは愛してはならないものを愛したのだと自覚し、迷い、仲間に相談した。歳老いたものからも苦言を提され、カルラは長を辞めて柚果と二人で暮そうかとまで考えたがそれこそ鴉天狗一族全員から猛反対を受けた。カルラは特別な存在だった。神通力を持つ鴉天狗界の中で最強の男だったからだ。協議は繰り返され、二人は契りを結ぶことにした。契りを満たせば柚果は鴉天狗の一族として認められ、カルラの伴侶として暮らせるという事になった。条件は二つだけ。カルラと契り、鴉天狗の印を魂に刻むこと。そして今まで出会った人間との記憶全てを手放すというものだった。


 鴉天狗の一族として迎えられるのであれば、最初の条件は何の抵抗も無く、カルラを慕い、人間の世界に居たくない柚果にとっては寧ろ望んでいた事であったが、二番目の条件を満たす事が出来なかった。鶴を忘れる事を拒絶したのだ。


 自分が居なくなれば寺に残された鶴は自分の分まで捌け口を担う事になる。鶴がどうなろうとも自分は鶴自体を忘れてしまうのだから、鶴がどれ程苦しんで悲しんでも知らないで居られる、気にせずに居られる。好都合に違い無かった。だが忘れてしまうからと言って鶴をこのままにさせたく無かった。距離を置いて冷たくすればもしかして気持ちが離れて忘れる事を決断できるかも知れないと思った。それに鶴が自分の事を嫌えば自分も心起きなく去れると思ったのだが、鶴は柚果の冷たさに嘆くばかりでいつまで経っても頼りないままだった。どれだけ突き放しても柚果柚果と慕ってくる。このままここで朽ち果てるのは嫌だ。だが鶴を置いていけない。鶴も一緒に連れて行ってくれないかと頼んではみたが、異例中の異例である人間の受け入れを二人に増やす事は出来ないと言われた。そうして悩んでいる間に時間は過ぎていった。


 一通り話を聴いた鶴は、柚果が自分を嫌っている訳では無かった事に心底安堵した。柚果には未来がある。世界は違うけれど、この寺から抜け出て自由に生きる道が出来たのだ。柚果を邪魔してはならない。鶴は笑顔を作った。


「ねぇ、柚果。僕ならもう一人で大丈夫だよ。心配しなくていいんだ。柚果が元気で居てくれるなら僕はそれが一番嬉しい。鴉天狗さんたちの世界にいけるならそうして欲しい。僕は平気。柚果のしたいようにしていいんだよ。柚果には幸せになって欲しいんだ」


 それは鶴の本音だった。生きている事が辛くて堪らなかった。この寺での暮らしは身心を削る。今すぐにでも逃げ出したかった。心の支えにしていた柚果とも話せなくなって悲しみに暮れていたがそれは生きているからこその苦しみ。柚果が昔の様な笑顔に戻れる世界へ行けるならそうして欲しかった。自分よりも沢山の苦しみを受けてきただろう柚果。年上だからといつも甘えてばかりで彼の後ろ髪を引っ張っていた。柚果だけでも救われて欲しい。


「ほら、こいつもそう言っている。早く未練を絶て。お前の未練が消えぬ限り第二の条件は満たされず契りも果たせぬ」


「鶴は……残していけないんだ。俺の、大切な弟だから」


 鶴の視界は浮びあがって来る涙でぼやけた。いつも何でも教えてくれた柚果。家族は柚果だけだった。何もかも柚果が教えてくれた。厳しい舞や花や唄の練習も、全部柚果とだから頑張れた。柚果が耐えているのだからと、夜伽の修練も耐えた。柚果を支えに生きて来れた。だから他人の様に扱われた時は泣けて仕方なかった。自分には最早生きる意味もないと絶望した。だが柚果は自分を弟だと言ってくれた。大切な、家族だと。


「大丈夫。柚果が僕の事忘れても、僕は柚果の事忘れない。それでいいんだよ。僕ね、鬼に食べられている人を見て死にたくないって思った。ここの暮らしは辛いけど、どうやったって自分の出来る事をして生きるしかないんだって思ったんだ。ここを出て行っても今の僕には出来る事がない。字も読めないし寺の世話になるしかないんだ。でも柚果には違う世界が開けているんだよ。遠慮なんかせずに行って。僕は、柚果が、僕の事、家族だって、そう思ってくれただけで……その思い出だけでちゃんと生きていけるよ」


 今は涙を流しちゃだめだ。柚果の足を引っ張っちゃだめだ。鶴は精一杯笑顔を保った。


「鶴……お前……少し大人になったな」


「へへへ」


「けどな、俺はお前を残して行けない。カルラ、頼む。こいつを連れていきたい」


「駄目だ。俺の世界にも規律はある。今回の事は俺がお前に惚れているからこそ周りは受け入れたんだ。芋づる式にそいつを連れていく事は出来ない」


「柚果だけでいいんです、彼を連れて行ってください」


 鶴は正座をしてカルラの前に手をついた。


「柚果を、お願いします」


「お前を置いて行くつもりはないって言ってるだろう」


「でもそんな押し問答いつまでもしてられない。そうやって柚果は何年我慢したんだよ。何年カルラさんを待たせたの。もう駄目だって諦められたらどうするの」


「そうなったら、そうなったで……」


「そんな事させない」


「ちょっと、いいか……」


 三人のやり取りを見ていた生命童子は割って入った。


「その、鶴殿が嫌じゃなければの話なんだが」


『お前は関係ないだろう』


 柚果とカルラが声を合わせて抗議する。だが躊躇いがちでも生命童子は続けた。


「俺が鶴殿を預かるのはダメだろうか」


『え!?』


 酒泉童子と鶴と柚果は揃って生命童子の顔を見た。






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