第44話 鬼と少年



 色葉を踏みながら紅生が家に戻ると敬翠は帰っていた。紅生はその姿を見てほっとしながらも胸が締め付けられる複雑な気持ちだった。


「いつ戻ったのだ。随分時間が掛かっていたな。欲しかったものは手に入ったのか」


「いえ……結局手に入りませんでした」


「そうか」


 敬翠は縁側に座り、火鉢の灰を箸で突つきながら手入れをしていた。顔を上げずに答えた横顔が少しやつれて見える。


「少し見ぬ間に痩せたような気がするが」


「かも知れません」


「遠くまで足を運んだのか」


「ええ……」


 ゆっくりと動くひつじ雲に陽光が遮られ、二人の影は雲の下で溶けて交わるが陽が照れば影がくっきりと姿を現し離れていく。珍しく無口な敬翠はほうと溜息をつき、紅生は重い口を開いた。


「敬、話がある」


「何ですか」


 緑の瞳はいつもより冷たさを増して見える。


「この家を、出ようと思う」


 弄っていた火箸をカタンと落して狼狽したようだったが、敬翠は動かずに問うた。


「……何故ですか」


「俺がお前を寺から救ったからと言って恩を返す必要はない。お前は自由に生きていいんだ」


「何を仰ってるんですか」


 敬翠は鋭い目をして赤い瞳を見た。


「俺はお前に甘えていたのだ。俺に縛られず、自由になれ」


「どう言う意味ですか」


「好きなやつの所へ行けばいいと言ってるんだ」


「なんの……」


 そう言いかけて敬翠は自嘲するように悲しく笑った。


「ええ、そうですね」


「敬、お前は我が弟同然に愛しい。お前と過ごした時間は……」


「もういい」

  

 立ち上がった敬翠は手入れしていた火鉢を蹴り倒し、縁側の淵から転がり落ちた鉢は真っ二つに割れた。

 

「敬……」


「紅生様がここを出て行く必要はありません。私が出て行きます」


「待て、ちゃんと話を……」


「何を話しても、分かってもらえなかった。これ以上何を話せば私の心が伝わると言うのですか」


「敬、腹を割って話を――」


「私はとうに!とうに全てを貴方に捧げたつもりでした。何をしても愛してもらえない事など分かっておりました。当前だと思っていました。それで良かった。幸せだった。でもいつしか忘れていたのです。どれ程私が穢れているかを。どれ程私が醜いかを」


「お前は穢れてなどいない、お前は美しい……」


「では何故!なぜ私では……私では駄目なのですか……生命童子様!」


 そう叫んだ瞳は鶴と呼ばれた頃と同じく一心に救いを求めていた。


「お達者で……」


「待て」


 言うが早いか敬翠は戸棚から弓矢を入れていた袋を掴むと森の中へと走って行った。


 紅生は引き留めようと腕を伸ばしたが足が動かない。


「敬……」


 罪悪感はずっと消えなかった。性を貪る寺から救った筈が精を貪る鬼へと貶めてしまった。自分さえ鬼にならなければ敬翠は鬼になる事はなかった。精気を吸う為と体を重ねるたびに愛しさが募るのに、大きく羽ばたくはずの翼を汚し、足枷を付けて鬼の世界に閉じ込めて自由を奪っている気がした。だから自分とは違う人の匂いを付けて帰って来た時、悲しみと共に安堵を覚えた。敬翠は鬼として生きて行かなくてもいい。人に紛れて生きていく事が可能なのだ。そう気づいた。村に降りるたびに元気になって戻って来る敬翠。羽を広げてどこへでも行けるのに自分がいるから飛び立てないのだ。青竜に出逢わなければずっと敬翠を縛り付けていたかも知れない。そう思うと自分ながら鬼の所業にぞっとした。


「これで良かったのだ」


 紅生は踵を返し家の中に入った。






 竜王村にいる神の子に願い事をすれば困りごとは何でも解決するという噂はあっという間に広まり、遠くの村からも青竜に会いに来る人たちが出始め、供え物まで家に届けられるようになった。母親の看病に専念すればいいと青竜の田畑は村の者達で世話をするようになり、畑仕事から解放された青竜は付ききりで母親を看た。良質の薬が届けられる事もあり、母親の体調はお陰で随分とよくなった。長い間床に臥せていたせいで体は虚弱なままだったが気分の良い時は外へ出歩けるようにもなった。


 願い事をされても始めは断っていた青竜だったが、人々が困っている事を知ると放ってもおけず、皆のお陰で母親も快方に向かっており薬もまだ必要であるため、誰にも知られぬように紅生を頼り続けていた。


 紅生は青竜から包み隠さず事の次第を聞いており、青竜が請け負った願いを代わりにかなえてやっていた。妖怪退治や人探しなど難なく成せるものもあれば中には叶えられないものも勿論あったが、大抵の事は解決されていくのでいよいよ本物の生き神様だと村人たちは総出で青竜を祀ろうとしていた。


 遠方から訪ねて来る人達が増えて土地勘のない者が泉の噂を聞いて登って来るので、紅生と逢瀬を重ねている小屋も近い為、青竜は泉の近くへは立ち入らないようにと村人たちに話した。「神に願いをする時に人が居ては願いは届かないようだ」と説明すると無闇に山へ登る者はなくなった。


 村での生活は楽になり母親の調子も良く、美しい鬼との蜜月は味わった事の無い甘さで体と心を溶かし、青竜はおんぼろの小屋の中で心身共に満ち足りた気持ちで横たわっていた。枯葉が風に舞い音を立ててひっきりなしに小屋に当たってうるさいし、隙間風は寒いが体を寄せていれば気にならなかった。


「こんなに幸せでいいのかな」


 紅生の首元の傷跡を指でなぞるのが癖になった青竜はゆっくりと痛々しく見える傷を辿り、上気した顔のまま呟いた。


「いいんだ」


 目を瞑ったまま紅生が応える。青竜は上半身を少し起こし紅生の角に触れた。撫でられても角の表層に神経は通っておらず何も感じる事はないのだが紅生は柔らかい笑みを作る。


「全部紅生のお陰だな」

 

「お前の役に立てて、人の為になって、そして俺の暇つぶしが出来ているのだからいい事づくめだ」


「でも皆を騙しているような気がする」


が願いを叶えているからか?」


「うん、俺の力じゃないのに皆俺を崇めてる。鬼だろうと人だろうと、皆の願いを叶えている事に違いはない。だったら鬼が人の願いを叶えてるんだって教えてやってもいいと思うんだけど。いい鬼もいるんだってわかってくれれば……」


「馬鹿を言うな。そんな事をしたらお前が酷い目に遭うぞ」


「どうして」


「鬼は人を喰らう。俺は半妖だから人であった頃の記憶もそのままだが普通の鬼は人であった時の記憶など失くし、本能のままに人を喰らう。鬼が願いを叶えるなどと噂が広まり、真に受けた人々が人食い鬼に近づこうものなら喰われてしまうのだ。生き神様が願いを叶えている。それでよいではないか」


「だけど、紅生が悪者みたいに見られるの、俺嫌だ」


「青竜……」


 体は成熟であっても心は純粋なまま。真っすぐな気性の青竜を尚更愛しく感じ、紅生は再び青竜を胸の上へと抱き上げた。萩の葉が擦れ、またかさかさと落葉が戸を叩く。


「青竜」


「なんだ」


「ここから少し離れた場所に家を作ろうと思う。今の家からここまで俺の足なら半日あれば十分だがお前の足では三日以上かかる。もっとお前と過ごす時間を増やしたいのだ。人が多く出入りするこの山は気を付けなければ人に見られる可能性もあるし」


「うん、」


「隣山にいい場所を見つけてある。きっと気に入るぞ」


「紅生がそう言うなら間違いないな」


「偉く信頼されているな。そんな簡単に鬼を信じてよいのか」


「良いんだよ、紅生は鬼じゃなくて神様なんだから」


「またそれか。俺は神様ではないと言っただろう」


「俺も神様じゃない。ただの男だ」


「そうだな、麗しく艶やかに鬼を惑わす神の美しさを持つ男。俺の運命だ」


 鬼は少年を壊さぬ様に優しく優しく愛撫して、その腕に抱かれる少年は美しい肢体を懸命に広げ鬼を受け入れていた。耳で囁かれる甘く淫靡な睦言は少年の体を更に赤らめて、蕩けた体を再び弾けさせる。愛しさに迸る少年の汗も涙も何もかもを零さぬ様に舐めとる鬼の舌に感じて、少年はまた体を震わせた。いつまでもこの甘い時間が続けばいい。少年と鬼は互いを求める事に飽きず一晩中抱き合っていた。


 だが蜜月はそう長くは続かなかった。


 淫らで美しい二人の目合いは、小屋を覗いている男には『鬼に取り憑かれた少年が体を開き、悪魔と契りを交わしている』ように見えた――。


 


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