第3話 噂

 


 

 鬼が出なくなったと同時に各地では妙な噂が立ち始めた。「弁財天は神と言えども女の神であるから嫉妬をしやすく夫婦である信仰者は嫉妬されて別離する」、「弁財天以外の女を想う男には酷い仕打ちがされる」、と根拠のない話があちこちから聞こえるようになった。仕える童子達の耳にも勿論その噂は届いた。始めは戯言と気にも留めなかった噂だったが人々がそれをにわかに信じ始めると童子達の心は揺らぎ始めた。信仰する人が減り、神社に参る人が減り、暴れていた鬼達が影を潜めれば最早人々が恐れるものもなく、頼るべき童子達も無用の長物。弁財天を信仰して酷い目に合うのなら、童子達に関わる事はとんだ貰い火を受ける事になるのではないか。童子達は寧ろ疫病神だと人々は態度を急変させた。


 童子達は戸惑った。鬼が出なくなったとは言え、命を懸けて人々と国を守ってきた筈なのに、噂一つで忌み嫌われる対象となり果て、自分たちの守ってきたものは一体何だったのだと嘆き悲しんだ。神は人々の信仰によりその存在を保持しており、人々が信じる事を辞めてしまえば忽ちその姿は薄くなり消えゆく儚いものであった。神の力が弱まれば童子の力も弱まり、力をも失い人々から冷ややかな目で見られるようになった彼らは次第に村や町から追いやられていった。


 状況を危惧した生命童子は仲が良かった酒泉童子の家を訪れた。何度も闘いの後に労いの酒を交わし、ずっとあの方を支え人々を護っていこうぞと約束した絆の強い童子だ。十六童子の中では一番歳上で豪傑な男である。酒蔵を備えた大きな屋敷に住んでいたのだが訪ねた時に出迎えたのは屋敷の所有者である商人だった。酒泉童子はどこへ行ったのかと聞くと新しい家に引っ越したという。山の麓にあるからと言われて足を運んだ生命童子はその家のあまりの侘しさに絶句した。己の命など二の次ぞと巨大な薙刀を振り回して鬼と戦っていたあの勇ましい男に似つかわぬこじんまりとした寂れた小さな藁ぶき屋根の民家だ。昼間なのに縁側で赤い鼻をして酒を呑んでいる酒泉童子がそこに居た。


「酒泉……どうした、このような場所に越して」


「なに、鬼の出ぬようになった今、人々が安心して酒を沢山呑むそうでな。酒造に多くの人手を雇ったから住まわすところが必要で、もう鬼も出ぬことだし屋敷は明け渡してくれと言われたのだ」


「そんな……酒を盗む鬼や物の怪が後を絶たぬからお主は頼まれてあそこに棲んでいたのではないのか」


「ああ、だがもう用無しなのだそうだ。持ち主の娘が最近結納を済ましたばかりでな。弁財天様の祟りが怖いのだそうだ。そんなものありはしないというのに……。いやぁ、住む処など構わぬ。構わぬのだが、もう以前の様に呑めぬのが儂にとっては最も堪える事でな。力も前の様にうまく出せんし、参った参った、ははは」


 そう空笑いしながら話す酒泉童子だったが目は愁いを帯びていた。生命童子はなんと声を掛ければよいのか躊躇った。生命童子の住む場所が田舎である所為か、はたまた噂がそこまでは届かぬからか、村人は変わらず食べ物を届けてくれるし以前と変わらぬ暮らしを続けている。中には冷ややかな態度を取るようになった者も居るが、愛敬童子の様に村から出ていけなどと罵声を浴びせる人は居なかった。村から追いやられた愛敬童子は行く宛てもなく今は生命童子の家に棲んでいる。それに生命童子だけは力を失っていなかった。変わらず山の木々を一振りでなぎ倒せる。村人が変わらず生命童子を崇めるのはその力を目の当たりにしているからかもしれない。自分だけが力を失わない理由が分からなかったがその事は他言無用。これ以上他の童子達を動揺させるような事があってはならないと口を噤んだ。


「酒泉……」


「いやはや、人の心の移り変わりとは怖いものよ。そう宣う我らも最早唯の人」


 胡坐をかいていた酒泉童子は器を置いて袴をぎゅっと握りしめた。怒りを抑えるのがやっとなのだろう、肩が震えていた。誰よりも力強く、誰よりも豪快に笑い、いつも皆の背中を押していた前向きな男の背中が今はこんなにも苦しそうに哀愁に染まっている。生命童子は心が痛んでならなかった。そして自分だけが変わらぬ暮らしをして、力を失うことも無く居る事に後ろめたさを感じた。自分に神の御加護がついて他の童子達に御加護が付かぬのは道理に合わない。きっと何か別の理由があるのだろうと思うのだが心当たりもない。


「もう御朔日参おついたちまいりには来ぬのか」


「行きたくても俺にはもう馬がない。馬小屋もなくてな。家が小さくて馬を中へ入れられなかった。仕方なしに外へ繋ぎ留めておいたのだが、ここへ越して来たその日の夜半に盗まれた。情けないだろう。珍しく酔っておってな……ははは」


 酒泉はどれ程飲んでも酔えない特異な体質だった筈。そんな体質でさえも変わってしまっている事に生命童子は驚きを隠せなかった。生命の心配を悟った様に酒泉は笑顔を作った。


「なに、馬がなくとも生きていけるぞ、案ずるな」


「酒泉、気を落とすな、力は必ず戻る。俺が請け負う」


「……本当にそう思うか?儂にはもうわからんのだ。命を削って傷塗れになろうとも、鬼がいなくなればお祓い箱。神は我らにもはや力を与えては下さらん。儂らを救っても下さらん」


「そのような事はない。必ず力は戻る。人々はきっとまた弁財天神様を信じる。さすれば弁財天様もまた力を下さる筈。今は妙な噂に惑わされているだけだ。それに鬼がいつまで影をひそめて居るのか分からぬではないか。鬼が出てくればまた我らは出陣せねばならんのだぞ」


「ああ……全くその通りだな。そうなればきっと人は儂らにした仕打ちを忘れて命を捧げてまた守れというのであろう?儂らが命を懸けて守った事も忘れて儂らを追いやりながら、危機が迫ればまた人の為に命を削り戦えというだろう。そんな不条理を我らは受け入れねばならんのか?人はそれほど尊ぶべき生き物であろうか?儂にはもうわからんのだ。力を取り戻したとしても、もう人々の為に闘う事が出来るのか、儂にはわからん……」


 誰より献身的に闘ってきた者の言葉とは思えず生命童子はそれ以上掛ける言葉を見失った。もう帰ってくれと言われて生命童子は自分の村へ戻った。今は何を言っても気休めにしかならないだろうがきっと元に戻るとそう信じて別の日に他の童子達を訪ねてみたが、誰にも会う事が出来なかった。住処を追われ行方知れずの者ばかりだった。生命童子の中に沸々と怒りが蓄積していった。


 次の御朔日参の日がやってきたが、お堂に参じて壇上を見つめるのは生命童子と愛敬童子の二人だけだった。雨が降り月明りのないその日はお堂の中に蝋燭が立てられていた。屋根を打つ雨音だけが響き、吹いていた風が凪ぐと御簾の裏にうっすらと影らしきものが現れた。音もなく御簾が上がり姿が見えたと思ったのにそこには誰も居なかった。ただぼんやりと人の形のような靄が見えるだけ。


 生命童子は目を凝らしてよく見た。そして愕然とした。弁財天は確かにそこに居た。居たのだがまるで氷で出来たように透き通ってしまっていたのだ。朧に輪郭が見えるだけ。人々から信仰されなくなった弁財天の姿は向こうを見透かせる程薄くなってしまっていた。


「よもやお前達だけとなってしまったか……」


 美音天とも呼ばれ、琴を弾くように煌めいて聞こえる筈の弁財天の声音は弱々しく、今にも消えてしまいそうに儚い。生命童子の心臓は千切れてしまいそうに暴れた。体中から冷や汗が噴き出す。神様が居なくなってしまう、居なくなってしまう、と恐怖の気持ちに駆られ声を出すのに暫く掛かった。


「弁財天様、なんと御痛わしいお姿に……」


「人が信じぬものはこの世に於いて無に等しい。この様に疎まれるものになり果てれば力も持てぬ。其方たちには苦しい想いをさせた」


「滅相もございませぬ。弁財天様、きっとお力は戻ります。どうかお気を強く……」


「人々が私を忘れようとも平穏に暮らしているならば構わない。ただ童子達が不憫でならん。我のせいで辛いだろう」


「いえ決してその様な事は……」


「強がらずとも良い。皆がどのように暮らしているかぐらい知る事は出来る。何とかしてやりたいのだが童子達に分け与える力が無い」


「ですが兄様にはまだ依然と変わらぬ力があります。兄様だけに力を分け与えているという訳では無いのですか」


 その言葉を聞いて生命童子は愛敬童子を見た。力の事は愛敬童子にも秘密にしてあった。一緒に暮らしているのだから隠すことは難しいだろうが全く変わらない事まで見抜かれていた。


「今の生命童子の力は元来持ち合わせた力」


「俺も弁財天様の御加護を受けていたのではないのですか」


「与えていたとも。他の童子とは違う加護をお前には与えていた」


「どういう事ですか?」


「お前は私の加護を受けてその力を持ち合わせているのではない」


「どういう意味でしょうか」


「お前の存在は鬼に近いのだ」


 不穏な言葉のどこかに腑に落ちる感覚を覚えて生命童子は神に問うた。


「俺は鬼、なのですか……」







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