魔女のお茶会〜 #1

 かしゃん、と指先から銀水晶がすべり落ち、大きな一つの結晶と小さな二つの結晶に割れてテーブルに転がった。石占いをしていたわけではないが、呪物を扱うことに慣れた彼女の手からこぼれ落ちるそれは、どう考えても常ならぬ——率直に言えば不吉なしるしに思えた。

 今すぐ何かが起きるわけではないが、放っておくと取り返しのつかないことが起きてしまう、とでもいうような。


「さて、どうしたものかしら」


 転がった銀水晶からだいぶ離れたところに、黒曜石と藍晶石。やや離れたところに薔薇水晶。それから微妙な距離に、青黄石ブルートパーズ。心当たりのないその色に、頬に人差し指をあてて首を傾げてから、そういえば、と彼女は遠い昔に見たその色を思い出した。

 真冬の空のように透き通る、まっすぐなあの眼差し。当時は傲岸不遜とまで言えるその純粋さをからかいすぎて、師弟として濃密な時を過ごしたはずのに、ことが済んでからは、とんと寄り付かなくなってしまった。

 もう一度、散らばる石たちを眺める。

「順当に考えるのなら、黒と藍色に働きかける、というのが筋というものよねえ」

 一人呟きながらも、やはり視線は青い石に向いてしまう。あれほどの想いをかけながら、踏み込めず結局身を引いてしまったと聞いている。多少煽ったことは認めるが、その想い自体に嘘偽りはなく、彼の優しさと真心をもってすれば、「彼女」もその心を動かされると思っていたのだけれど。

には、敵わないものかしらねえ」

 彼女にしては珍しく物憂げにため息をつく。その先にある、儚い影をなんとか打ち払いたくて試みたそれは、どうやら無駄に終わってしまった。避けようもないその未来がそこにあるとしても、ほんのわずかでもあの愛し子が幸せな時を長く過ごせるように。


 ——それに、やっぱり面白い方がいいものね。


 独りちて、彼女は二つ名となってしまった魔女らしい微笑みを浮かべると、いそいそと身支度を整え、いくつかの土産物とともに鼻歌を歌いながらその場からかき消えた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 その日は朝からどうにも調子がおかしかった。まず朝食の時に割った卵に黄身がなかった。彼の長い人生でも初めてのことだ。さすがに色味のない玉子焼きを食べる気にはなれずもう一つ追加したが、考え事をしていたせいか、完全に黒焦げになった。結局パンだけで済ませることにした。

 往診に行けば、やたらと年寄りの長話に付き合わされ、先日渡した薬でかぶれただの、飲み薬で昏倒しただの、事実なのか他の要因があるのかわからないが、とにかく苦情が多かった。

 せめてもの幸いは、五軒目で昼飯のご相伴に預かったこと、不幸はその後、そこの家の子供に食中酒として供されていた葡萄酒をひっくり返されて、その日は珍しく身につけていた薄い色の服に鮮やかな染みができたことだ。家主は着替えを貸してくれると言ったが、家はさほど遠くもないし、今日はもうそれ以上働く気にもなれなかったから、礼だけ言ってその家を後にした。


 冬が終わり、春が近づく空はどこか霞がかった淡い色をしている。ふと、かつて空を映していたあの瞳を久しぶりに思い出した。共に過ごしたのは、彼の長い生の中ではほんの一瞬とも言えるわずかな時間だ。なのに、いまだにその思い出が、時折こうして胸を灼く。あれからもう二年も経つと言うのに。

「俺もついに耄碌してきたかねえ」

 ため息をついてから、家路に着く。扉の前に立って、取手に手をかけようとして、なぜだかとんでもなく嫌な予感に襲われた。先見視さきみの力を失って久しいはずなのに、それはどう考えてもかつて嫌と言うほど慣れた感覚だった。

 そう言えば、と思い出す。彼がもう「先見視ではなくなっているはずだ」と告げたのは、あの黒狼の青年だ。だがその話の出所は——。

「また嵌められたのか、俺は」

 深いため息をつきながら扉を開けると、予想通りそこには艶やかに微笑む美しい魔女がいた。長椅子で我が家のように優雅にくつろいでいる。

「帰れ」

「あら、古い友人に向けての開口一番のその冷たい物言い、あなたらしいわね」

「鍵のかかった人ん家に勝手に上がり込む友人を持った覚えはねえよ」

「あら、鍵がかかっていたの? 気づかなかったわ」

 悪びれもせずに微笑むその顔に、彼ができたことといえばせめてもうんざりとした表情を隠さず前面に押し出すことくらいだった。魔女の侵入を阻む結界など、今の彼の手に負える代物ではない。

「何の用だ」

 このまま黙っていたところで帰りそうにないその顔に、可能な限り不機嫌な声でそう尋ねる。だが、イングリッドはまるで意に介した風もなく、その赤い唇を艶めかせて微笑む。

「お茶会に誘いに来たの」

「茶会?」

「そう。たまにはゆっくり昔話でもしようかと思って」

「遠慮させてもらう。そういうのは女同士で楽しむもんだろう?」

「そうなの。でも一人くらい素敵な男性がいた方が盛り上がるでしょう?」

「揶揄うネタが要るだけだろう」

「あら、わかっているなら話は早いわね」

「断る」

 即答した彼に、だが魔女は、立ち上がりながら、もう一度艶やかに微笑む。その緑柱石ベリルのような瞳が猫のように細められ、肩をすくめながら呆れたように言う。

「ロイ、こんなに長い付き合いなのに、まだわかっていないのかしら?」


 ——あなたに選択肢なんて、あると思って?


 ふざけるな、とかせめて着替えだけでもさせてくれ、と喉まで出かかった罵倒と懇願は、結局彼の口から出る前に、あたりの風景が一転した。

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