27. 運命
あてがわれた部屋に入ると、アルヴィードは寝台にそっとディルを下ろした。震えはとうに収まっていたが、むしろ触れられていたところがどうしてか熱い。アルヴィードは寝台の端に腰掛けると、こちらを覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
静かな声に目を上げると、強い金の眼差しがこちらにまっすぐに向けられていた。ふと頬を見れば、薄く血が滲んでいる。その傷に手を伸ばすと、その手を掴まれた。
「ごめんなさい」
「何がだ?」
「俺のせいで、また……」
「俺もあの石に気づかなかった。ここいらの装飾品に怪しげな物が多いのは当たり前だったから、もっと注意すべきだったな」
「ごめん……」
「謝るな」
まっすぐにその瞳がディルを捉える。射抜くようなその金の眼差しにどくんと心臓が不規則な鼓動を打った。胸が苦しい。
——怖い、と思うと同時に、何よりも綺麗だと思う。
「綺麗だな」
自分の心の声が漏れ出たのかと思った。こちらを見つめるその頬が、ほんの少し緩む。
「夕暮れの色だ」
頬に触れる手が熱い。そのまま顔が近づいてきて、思わず目を閉じたが、それ以上何も起きない。ややして恐る恐る目を開けると、間近にあるその顔には、ひどく甘い表情が浮かんでいた。
「いい傾向だ」
「な……っ!」
からかうようなその声に、思わず頬が赤くなるのを自覚する。それから、その手を振り払うと顔を背けた。
「何で俺なの?」
腹立ち紛れに、思わずそれまで燻っていた疑問が口からこぼれた。
「世界の半分は女の人だよ。俺みたいな出来損ないじゃなくて、アルヴィードならいくらでも——」
「誰が出来損ないだって?」
不意に、地の底から響いてくるような低いそれに変わった相手の声に、思わずディルは身を震わせる。目を向ければ、その金の双眸ははっきりと怒りを宿していた。
「だって、そんなのみんなに言われた……。魔力も腕力もろくにない、女でも男でもないし、何の役にも立たない——」
そこまで言ったところで、ぐいと腕を引き寄せられた。そして、背中が折れそうなほどに強く抱きしめられる。
「狭間の世界で、お前はそんなことを言われながら育ったのか?」
低く、怒りのこもったその声には、だが別の響きが混じっている。
「誰もお前を守らず、ひとりで、そうやって生きてきたのか?」
「アル——」
「俺がのうのうと、好き勝手に生きている間、お前はずっと……」
耳に届く声は、そんなはずはないのに、泣き出しそうに聞こえた。どちらかというと、泣きたいのはこちらのはずなのに。
見上げた金の双眸はいつかのように揺れていた。ふと、初めて会った時のことを思い出す。少年たちに踏みにじられ、怒りと絶望に塗り込められていたディルを、自信たっぷりの様子であっさりと救い上げてくれた。気まぐれで、傲岸不遜で、少なくともこんな表情をするなんて、想像したこともなかった。
だから、はじめに抱いた感情は、きっと違う。
それでも、ずっとひとりで待ち続けて、再会した時に抱いた
——待ち続けた時間も含めて、きっとずっと。
「あなたのことを、教えて欲しい」
知らなければ、前に進めない。
「俺のこと?」
「どこで生まれたのか、とか、俺と会う前にどんなことをしていたのか、とか——あなたが何者なのか、とか」
そう尋ねると、少し腕を緩めて遠くを見つめるような眼をする。それから、ひとつため息をついてから、ゆっくりと口を開いた。
「俺が生まれた里は、山奥にあった。周囲には他に人里がないからのんびりしたもんだったな。だが、大戦が終わった頃、人間と精霊の最後のいざこざに巻き込まれて、一夜にして灰になった」
静かな口調には、もう激しい感情の色は見えないのに、その眼差しだけは深い。
「ちょっと待って、大戦て……アルヴィードも三百年以上生きてるってこと……? それに灰に……って」
あまりのことに戸惑ったディルに、アルヴィードはほんのわずか苦笑する。銀の髪をそっと撫で、それから話を続けた。
「その辺はあとで説明する。とにかく、その日、俺はたまたま一人で野山を駆け回っていた。里に戻ったときには、いろんな色の炎が里中を焼き尽くしていて、俺の家族も仲間も一瞬で焼け焦げて、後には影しか残らなかった」
「そんな……」
「俺も信じられなかった。そのまま生き延びる気力もなく、ただ呆然としていたところをアストリッドという精霊と——イーヴァルに拾われたんだ」
「イーヴァルに?」
「そうだ。あいつらは大戦後の世界を見て回って、償いをしていると言っていた。すでに大戦は終わっていたのに、俺の里は焼き払われた。その代償として、俺に望みはないかと聞いてきた」
「望み?」
「俺はそんなものはないと答えた。家族も仲間も全て失って、何を望むというのかってな」
最初から家族というものを持たなかったディルからすれば、多くの暖かいそれを一瞬で失ったアルヴィードの思いは計りかねた。それでも、その絶望が深かったことだけは理解できる。
だが、アルヴィードは何かを思い出したのか、ふと呆れたように笑う。
「アストリッドってのはおかしな奴で、この世でもっとも力のある精霊の一人だと言っていたが——実際その力は破格だったが——、あいつは絶望している俺に向かってなんだかよくわからないこと言うと、俺を眠らせたんだ」
「眠らせた?」
子供のようにただ聞き返すディルに、アルヴィードは頷いてなぜか楽しげに笑う。
「三百年もな」
「……え?」
「あいつに眠らされて、目が覚めると三百年が経っていた。最初は俺も何の冗談かと思ったが、事実だった。家族も知り合いも全て失った俺にとってはまあ、大して困ることもなかったんだが」
「そうなの……?」
疑わしげな声になったディルに、アルヴィードは肩を竦める。
「何しろ俺に選択権はなかったからな。あいつは目覚めた俺に祝福を用意した、と言った。そうして、狭間の世界へ行けと」
「祝福?」
「ああ、だが俺は運命を誰かに操られるのなんてまっぴらごめんだった。そう言った俺に、あいつはそれでも自信ありげに、それならあいつに関わる記憶を全て封じてやると言った。俺が本当に望まないなら、出会うこともないだろう、と。だが、出会えばきっとわかる、とな」
そして、確かに自分は出会ったのだ、と言った。
それから、ディルの体を離すと、寝台から離れる。どうしたのかと見つめていると、不意にその姿が揺らいだ。陽炎のようにその姿が溶け、そして、瞬きをした後にはそこに、黒い獣の姿があった。その獣はまとわりつく衣服を体を振って払いのけると、ゆっくりと寝台に近づいてくる。
眼を見開いたまま、 呆然としているディルに、その獣は身軽に寝台に上がると、その頬を舐め、それからいつかつけられた首筋の噛み跡にも舌を這わせた。ぞくり、と背筋が震える。それで、ようやくその事実を受け入れた。
「……アル……なの?」
その黒い首に腕を回すと、頬に顔をこすりつけてくる。ほんの数日離れていただけなのに、その柔らかな毛並みの感触がひどく懐かしい気がした。
イーヴァルの言葉に勝手に傷ついて、泉で泣いていたディルを慰めてそばにいてくれた。
長い間、一人で待ち続け、絶望して命を投げ出しかけた時に駆けつけ、ロイとともにずっと見守ってくれていた。
その優しい
思えば全てが符合する。それでも認めたくなくて、ずっとその可能性から目を逸らし続けていた気がする。
もう一度、その姿が陽炎に包まれたように揺らぐ。そうして、気がつけば目の前には、アルヴィードがいた。黒い髪も、金の双眸も、確かに同じ色をしている。
「気づくの遅すぎだろ?」
掛布をはぎ、シーツとその間にディルを抱いて共に滑り込んで、真上から見下ろす。右手の指に、アルヴィードの左手が絡められる。反対の手はディルの頬に触れていた。
「運命なんてくそくらえだ」
それでも、と続ける。
「俺が惹かれるのはお前だけだ。お前のその瞳と、甘ったれな性格と、この匂いが俺を惑わせ、捕らえる」
乱雑な言葉より、絡められた指と、触れる肌から伝わる熱の方が素直だ、と思った。何を求められているのかは明らかで、それに戸惑っている自分を自覚しているのに、まっすぐに自分を見据える強いその眼差しから目が離せない。
ゆっくりと、その顔が近づいてくる。初めて会った時よりも、精悍さを増したその端正なその顔も、力強い腕も、自分を求める強い想いも。
一度だけ、唇が軽く触れて、すぐに離れる。それから最後通牒のように、静かな眼差しを向けてくる。
「止めて欲しいなら、今言え」
「嫌だと言ったら、やめてくれるの?」
震えそうになる声を何とか制してそう尋ねると、太い笑みがこちらを見下ろす。
「今はな。だが、俺は諦めないぜ。お前が俺を受け入れるまで、待ち続けるし、口説き続けてやる」
「もしかして、脅されてる?」
「馬鹿言え、口説いてるんだよ」
そうして、にやりと笑いながら、諦めろ、と言う。
「今でも後でも変わらねえよ」
「そういう言い方……」
相変わらず雰囲気も何もないその言葉に、ディルがため息をつくと、アルヴィードは笑ってから、わかったよ、と言いながらさらに言い募る。
「お前が欲しい。誰にも渡したくない」
見たこともないほど蕩けるように甘い表情と、まっすぐな言葉は、確かに熱を持っている。
「もちろん、あいつにもな」
漏れた呟きに、脳裏をよぎるのは、青紫の瞳だ。それに気づいたのか、相手が顔をしかめる。
「こんなときに俺以外の男のことなんて考えるんじゃねえよ」
「あなたが言い出したんじゃないか」
「本当に減らない口だな」
言いながら、こちらを見つめるその眼差しは、とどめを刺そうとでもするように鋭い。
「こんな台詞、到底似合わないとわかってるけどな」
ため息をつきながら、苦笑して、言葉を続ける。
「俺は、俺の中に渦巻くこの激しい想いを表す言葉を、一つしか知らない」
間近に、その金の瞳に今まで見たこともないほど、強く甘い光を浮かべて。
「ディル、お前を愛してる」
切ない光を浮かべる瞳と、そのまっすぐな言葉に、ディルはそれ以上、拒む理由も力も持たなかった。それでも、最後の抵抗を試みる。
「そんなこと言ったって、他の女の人とそういう関係になったことあるんでしょう?」
その声に混じった複雑な想いに気づかれただろうか。アルヴィードは、ただ苦笑めいた笑みを浮かべる。
「そりゃな。だが、言っただろう、こんなに激しい想いを他の誰かに抱いたことはない。今、俺が欲しいと望むのはお前だけだ」
「今だけ? それとも、これからずっと?」
「ずっと、だ」
躊躇いのない答えに、心臓が不規則な鼓動を打つ。
「でも俺、すぐ死んじゃうかもしれないよ?」
盟約を破り、呪われた身であれば。
「させねえよ」
アルヴィードは不敵に笑う。それに、と続ける。
「もしお前がその呪いで命を落とすなら、俺も一緒に逝ってやる」
切なく笑いながら告げられた、あまりに重いその言葉に、ディルはアルヴィードの孤独の深さをも知る。
けれど、ただの同情や憐みでもなく、目の前の眼差しは、はっきりとした熱を浮かべ、その欲望を伝えてくる。だからこそ、ディルも未来を見据える。
「それは、嫌だ。そんな関係になるなら、ずっと一緒にいたい」
「そうだな」
ひどくやさしく微笑んだその頬に、震える左手で触れる。覚悟の代わりに、ほんのわずか身を起こして、唇を重ねると、相手の目が大きく見開かれた。
「でもまだ、女に
「すぐに変えてやるさ」
その瞳には嵐のような激しさが浮かんでいる。どこか怯える己を自覚したが、それでも、もう後には引けないとわかっていた。
——何より、自分がそれを望んでいたから。
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