28. Interlude 〜分化〜 (*)
その瞳が閉じられたのを確認して、ゆっくりと唇を重ねる。無意識にか、逃げようとするその体をそっと抱きしめて、さらに深く口づけた。
触れるたびに素直な反応を返す体に、どうしようもなく愛しさがこみ上げる。潤んだ眼差しも、乱れる呼吸も、すべてがこの手の中にあることに、目が眩むほどの幸福感を感じた。
本当にいいのか、と最後に問うたときには、どちらかと言えば怒りに似た眼差しを向けられた。今さら何を言うのかと。これほどまでに快楽を与えておきながら。
言葉よりも遥かに素直なその態度に、最後に残っていた理性の欠片も粉々に砕かれた。せめても傷つけぬようにと自分に言い聞かせながらも、遠慮なく穿ち、あとはただひたすらにその白く美しい肢体に溺れた。
焦って傷つけるつもりはなかった。本人が受け入れるまで、待つつもりだった。
だが、同時に決して他の誰にも渡したくなかった。彼と同じくらい、この相手に心惹かれる男がいることを知っていたからこそ。
結局、何としても手に入れることにした。あの「狩人」に襲われたことが最後のきっかけだった。いつ失うかもしれないのであれば、自分の想いを刻み付けておきたい。それは彼の身勝手な想いにすぎなかったが、それでも自分を「出来損ない」などと言わせるのは許し難かった。そうさせたのが、自分の運命に巻き込まれたせいだというのなら、尚更に。
腕の中で眠るその顔はわずかに青ざめている。それでも、眠るディルは、無意識にか彼の腕を探り、胸にその顔をすりよせてくる。そういうところが危ないんだ、と内心でため息をつく。彼の不在の間に、
「無防備すぎるんだよ、お前」
一度心を許した相手には、自分が思っている以上にあっさりと委ねてくる。特に、眠っている間などの無意識なときほど。ただでさえ容姿の美しい相手だ。無防備にその体を預け、甘えるような仕草を見せられて動揺しない男がいるわけがない。もともと好意を抱いている者ならなおさらだ。
彼の声が聞こえたのか、不意にその目が開いた。どこかぼんやりしているその眼差しを見つめながら、唇を重ねる。わずかに開いた隙間から、さらに深く口づけると、甘い声が漏れた。
「アル……?」
「どっちを呼んでるんだ? 獣か、俺か?」
「……どっちも」
子供のような言葉は、寝ぼけているせいだろうか。そんな様子ですら愛しくて、強く抱きしめる。いまだその瞳は夜を映して、深い紺色をしている。抱きしめた体から香る、その甘い香りに目眩がした。首筋に口づけると、びくりと体が震える。
「アルヴィード」
「何だ?」
「俺のこと好き?」
「ああ」
そう答えると、だがディルは目を丸くする。
「何だよ?」
「素直だからびっくりした」
驚いて目が覚めた、と冗談でもなく本気で言っているらしいその顔に、思わずため息が漏れる。
「あのなあ……」
雰囲気がないと怒って部屋を飛び出したのは誰だったか。それでもその反応が面白くて、もう一押ししてみることにする。
「お前を愛してる」
言いながら、首筋に唇を這わせると、あの匂いが強くなり、肌がほんのりと朱を帯びる。そんな様子に、自身の熱も高まるのを自覚する。
「誘ってるのか?」
目を上げてそう尋ねれば、耳まで真っ赤に染まっている。すでに全てを奪い取った後だというのに、その初々しい反応に、どうしようもなく愛しさがこみ上げる。
「もう一度、抱いてもいいか?」
直裁に問うと、真っ赤になった顔を背けられる。それでもその顎を捉えて口づけようとした時、異変に気づいた。
ふわり、と強く魔力が働く匂いがする。自身は魔力を持たないが、だからこそか、外部のその手の気配にはむしろ敏感だった。
その気配はディルを包み込む——というよりは、むしろディルを中心にして巻き起こっているように見えた。だが、その気配はやがて、淡く緑がかった白い蔦のような形を取ると、ディルを包み込んでいく。
「ディル……⁈」
「……少しだけ、待ってて」
ふわり、と微笑んだその顔は、どうしてだか儚く見えたが、それでも幸せそうだった。
そうして、白い蔦は大きく揺らめきながら幾重にも絡まり、繭のように丸くディルを包み込むと、その姿は完全に見えなくなった。
しばらく呆然としていたが、扉を叩く音で我に返る。その音はしつこく続き、止む気配がない。苛立ちながらも手早く衣服を整えてから扉を開けると、イングリッドがそこに立っていた。
「わざわざノックしてから入るなんて、珍しいじゃねえか」
「あら、真っ最中にお邪魔しちゃいけないかと思って」
あまりにあからさまな言葉にため息をつく。それでも身を引いて寝台の上を示すと、魔女は艶やかに微笑んだ。
「あら、早かったわね。もう少しかかるかと思ったのだけれど」
「……これは、あれか?」
「そう、分化のための蛹のようなものよ」
「どれくらいかかるんだ?」
「七日から十日と言ったところね。間違っても無理やり開けようとしないでね」
「どうなるんだ?」
「蝶の蛹が中でどうなっているか知っている? 人でない形で失われるのを見たくなければ、絶対に触れないことをお勧めするわ」
「随分原始的なんだな」
「本当のところは、秘密よ」
そう言って、繭の端を愛おしそうに一撫ですると、部屋から出て行ってしまう。にわかには信じがたいが、この繭が性の確定に必要だと言うのなら、見守るより他ないのだろう。
その繭を眺めながら自身の中にまだはっきりと残る熱に、ため息をつくより他なかった。
「まだか?」
あれから七日、薬師の男が早朝から部屋を訪れるなりそう尋ねてくる。ディルがその繭に包まれた日から、毎日こうして様子を見に来ている。その瞳は穏やかで、イングリッドからは、どちらかというとその男の落ち着いた様子と比べて、むしろ彼の方が冬眠前の熊のようだと不本意な評価をされるくらいだった。
「変わりはねえよ」
その答えには明らかに興味がなさそうに、ふうん、と呟きながらそっとその繭に触れる。その手つきは壊れ物を扱うかのように丁寧で、その男がディルにどんな思いを抱いているのかを容易に想像させる。
ややして、こちらの視線に気づいた男が苦笑する。
「そんな顔で睨まなくたって、手を出したりしねえよ」
「すっぱり諦めたっていうのか?」
あえてそう問えば、男はその苦い笑みをさらに深くする。
「もともと、大して望みがあったわけじゃないさ。こっちは十分に年寄りだからな」
「そうやって逃げるのか」
初めは確かにただの親切心だったのだろう。だが、彼はその男がどれほどにディルに心を砕き、世話をしてきたかを知っている。そして、ディルという存在は、その容姿よりも、その内面を知れば知るほど惹かれずにはいられないのだとも。
ほんのわずか、ロイは苛立った気配を見せる。それでも挑発には乗ってこなかった。
「お前さんが何を考えているのかは知らないがな、少なくともこいつが幸せならそれでいい。もうこいつは十分に運命とやらに翻弄されてきた。思い切り甘やかして、大事にしてやれ」
それとも、と不意に不敵に笑う。
「受け止め切れる自信がないなら、俺がいつでも引き取ってやるさ」
笑っていながらも、決してディルには見せないであろう、その切ない眼差しに、そちらの方が本音だろうに、と内心でため息をついた。
だが、その時、不意にまた何か強い力を感じた。
目を向ければ、白い繭がゆっくりとその色を変え、端から崩れ始める。ほろほろと糸が解けるように、中にいるその姿を顕にした。
流れるような銀の髪は、遥かに長く伸び、その体全てを覆っている。立てば、くるぶしほどの長さだろうか。膝を抱えて眠っているようなその姿に、思わず目を奪われている間に、ロイが近づいていた。慌ててその隣に駆け寄ると、だが、男は目をいっぱいに見開いて、唖然としていた。
「どうしたんだよ……?」
言いながら、繭の中から現れたその姿に改めて目を向けて、彼もまたその理由に気づいた。
「アルヴィード……と、ロイ?」
ほんのわずか、質の変わった声が彼らの名を呼ぶ。開いた瞳は、すでに夜は明けきっていると言うのに、誰かを彷彿とさせる薔薇色をしていた。
名を呼ばれても、傍らの男は動かない。彼は寝台に上がり、その体を抱き寄せた。白く美しい体は、確かに柔らかい女性へと変わっていた。
「ようやくお目覚めか」
「……どれくらい、寝てた?」
「七日だ」
「そんなに……?」
「まあ、これだけ変わるためには、それくらい必要だったってことだな」
胸元のふくらみに目を向けながらそう言えば、その頬が朱に染まる。それから流れる自分の髪にようやく気づいたようだった。
「何でこんなに伸びてるんだろう……」
「分化は、ある意味一気に体を進化させるようなものだからよ。本来なら長い時をかけて変わっていくはずのものを、その身の内に宿る魔力で急激に変化させるの。人間で言うなら、十年分くらいの変化をね」
目を向ければ、イングリッドが扉の前で、いつもの艶やかな笑みを浮かべていた。それでもその笑みには、ほんのわずか陰があるように見えた。
「……そのせいか」
低く、絞り出すような声は、ロイのものだ。
「そのせい……って何? この髪のこと?」
「違う。お前のこの腕だ」
言いながら、左腕を取る。ディル自身も、ようやくその変化に気づいて目を見開いた。
本人が自分で切り裂いた傷も、彼がつけた噛み痕も、灰色狼に傷つけられたものも、全て綺麗になくなっている。
だが、その代わりに、あの黒い蛇のようだった文様が、今や絡みつく蔦のように手首から肩まで、左腕全体を覆っていた。
「何……これ?」
戸惑う声に、ようやくロイが一歩踏み出して、その腕を取る。何かを堪えるような表情で、ゆっくりと口を開いた。
「この呪いは、ゆっくりと進行して盟約を違えた者を殺す。短くて十年、長くて百年くらいだな。あんたの場合、分化のために費やした七日が、十年に相当するくらいの変化だった……ということだろう」
「ええと、つまり……私はもうすぐ死ぬ、ってこと?」
ロイは答えず目を逸らす。それを見てもなお、ただ不思議そうに首を傾げるディルの背に上着をかけてもう一度抱き寄せる。顔色や全体の様子に変化はなさそうだった。空の色を映さなくなった瞳は、それでも穏やかで美しい。
覚悟を決めて、ロイに視線を向ける。
「ロイ」
その名を呼んだのは、そう言えば初めてかも知れなかった。男はややしてゆっくりとこちらに目を向ける。その青紫に浮かぶ光は見たことがないほど昏い。それは容易に事態の深刻さを知らしめる。
「この呪いは、この後どうなるんだ?」
「文様が広がって、心臓に届くと呪いを受けた者の息の根を止める」
「あと、どれくらいもつ?」
まっすぐに尋ねた彼に、ロイは深くため息をついた。
「文様が大きくなればなるほど、その進行は早くなる。本人が絶望するより早くにその呪いが発動するように、な」
「悪趣味だな」
顔をしかめて言った彼に、ロイはただ何かに堪えるように眉をしかめた。それから、ディルに向き直ると、絞り出すような声で言った。
「——その様子からすると、ディル、あんたの命は、もってあと一月だ」
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