魔女のお茶会〜 #2
ほんの少し時は遡る。
アストリッドはいつも通り無為に時を過ごしていた。寝ていても起きていても大して変わりはない。けれど、彼女の存在そのものが世界に干渉しているらしいので、仕方なくただだらだらと生を続けていた。せめても「あの子」の願いが叶うように、世界の
朝日が昇れば目を覚ます。気が向けば食事をとって——実のところ、
この地イェネスハイムは冬が長く、深い雪に閉ざされる。白く埋め尽くされている大地に大きな変化はなかったが、枝の先にはもういくつか緑が芽吹いていた。幾つ季節が巡っても、彼女自身に大きな変化は訪れなかったが、それでもこうして周囲が変化していることを実感するのが、彼女は好きだった。
「今年も変わらずに過ぎていくねえ」
独り呟いて、脳裏に浮かぶのは、あっさりとここを二度も去って行った後ろ姿だ。まあ、二度目は自分で送り出してしまったのだけれど。結局、彼はここには戻ってこなかった。それでも、その恋心が叶うことがなかったことは、古い竜の友人から聞いている。
「ままならないものだよねえ、本当に」
ため息をついた時、ふわりと魔力の気配がした。この城は彼女の結界に包まれているから、基本的に招かれざる客は入れない。すぐそばに現れたこと自体が、彼女に近しい者だという証左だった。
「悩ましいため息ね」
彼女の隣にごく自然に現れたイングリッドは、長く会っていなかった時を感じさせない。
「悩み多きお年頃でね」
「悩み事があるうちは、大丈夫ね」
何が、とは言わずただにこりとその緑の瞳を妖しく煌めかせて笑う顔は、どれほど時を経ても変わらない。どころかむしろ艶を増しているようにさえ見える。頬は滑らかに白く、唇は誘うように艷やかに紅い。豪奢な黄金の髪はそれだけで装飾品など不要だとばかりに鮮やかに彼女を
「どうやったら、あなたみたいに生きられるのかな?」
「私のように? あなたにおすすめはしないけれど」
「どうして?」
「だって、欲望に忠実に、なんてあなたには到底無理でしょう?」
言われ、アストリッドは首を傾げる。欲望に忠実に、というその言葉は確かに全くしっくりこなかった。そもそも彼女が望むものとは何だろうか。
「たとえば、彼が欲しいと思って押し倒してみるとか?」
「……まさか……やってみたの?」
「裸で寝台に潜り込んでみたけれど、だめだった」
その言葉に、珍しく——本当に珍しいことに、イングリッドが一瞬完全に絶句した。いつも余裕でこちらを面白がる光を浮かべているその瞳が、驚きで固まるのを見たのは、これが初めてだったかもしれない。ややして、ゆっくりと口を開く。
「……彼は、何て?」
「私じゃ勃たないんだそうだ」
静かに尋ねてきたその問いに率直に答えると、イングリッドの表情が不意に艶やかな笑みに変わった。艶やかなのに、底冷えのするその笑みに、思わずぞくりと背筋が震えた。
「……イングリッド?」
名を呼んだが、笑顔なのにその冷ややかな空気は変わらず、ただ静かに問い返してくる。
「あなたは、どう思ったの?」
「まあ、仕方ないかなって」
目を泳がせてそう答えながらも、ディルが同じように迫ってきたらどう思うか、という問いかけとそれに対する答えは、ここでは告げない方が良いと本能的に悟っていた。何がそうさせるのかは、わからなかったけれど。
「そう……まあ、その話については、あとでゆっくり聞かせてもらうわ。実は、今日はあなたをお茶会に誘いに来たの」
そう言って気持ちを切り替えようとするかのように、にっこりと笑う。イングリッドの行動は基本的に、面白いか、面白くないかで決まる。わざわざ
ほとんどの場合、それは誰かの災難を意味していることを、彼女は長い付き合いで知っていた。
「……他に誰が来るかは、聞かない方がいいのかな?」
「残念ながらそんなに
「まあ、特にすることもないし、ご招待をありがたく受けようかな。でも私が行っても本当に大丈夫なのかい?」
招待客として脳裏に浮かぶいくつかの人影を思い浮かべながら、アストリッドは首を傾げた。彼らが彼女を歓迎してくれるとは、到底思えなかったので。
「それは大丈夫よ。ちゃんと楽しい趣向も用意しておくから」
唇に、美しく整えられた指先を当てながらそう呟く姿は、アストリッドから見ても十分に美しい。
——凶々しいほどに、とはさすがの彼女も口には出せなかったけれど。
イングリッドに連れられて転移した先は、見慣れない森の中の一軒家だった。そこに、すでに覚えのある気配を感じ取って、アストリッドは我知らず微笑んでいた。あれから二年ほどが経っていた。呪いを解いたあの日に別れてから一度も会っていない。イーヴァルは何度か彼女を尋ね、その消息を伝えてくれてはいたが、結局積極的に訪れる気にはなれなかった。
「心配かしら?」
「どうだろうね。私は、あの子を愛しているけれど、あの子がどう思っているかはわからないから」
そう答えた彼女に、イングリッドはほんのわずか、気遣うような、哀れむような眼差しを向ける。それでもすぐにその表情は消え、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫よ、あの子は幸せに過ごしているわ」
「そうだね。アルヴィードもイーヴァルも彼女を大切にしてくれているだろうから」
それでも不安が拭えないのはどうしてだろう、と目を上げて家の方を見て、アストリッドははっと息を呑んだ。美しい銀の光と、小さく明滅する二つの光。どちらも美しいが、それを覆う靄のような影が見えた。それは実際に目に見える物ではなかったが、イングリッドの方を見るとにっこりともう一度微笑んだ。
「……これが、お茶会の理由かい?」
「そうなの」
あっさりと頷いた彼女に、アストリッドは深いため息をつく。
「常々常識がないと言われている私でもわかるけど、ここは彼らを呼び戻すところだと思うよ?」
「だって、それじゃあつまらないじゃない」
「イングリッド」
思わず険しい表情になった彼女に、だが魔女と呼ばれるその人は唇に人差し指を当てて声を潜めるように伝える。
「落ち着いて。私だってふざけているわけじゃないわ。あの子のために必要だからこうしているの。この影を払うためには彼らだけではきっと足りないでしょう? でも、私たちが関わるのも、あの子は望まない」
「もしかして、彼を巻き込むつもりなのかい?」
「医術に詳しくて、いざという時の度胸もある。そして何より彼女を絶対に大切にしてくれる。最適でしょう?」
冬の空のように透き通る青に戻ったあの瞳を思い出す。彼は、あらゆる面から見て確かに最適に思えたが、それでもそれは条件だけを見れば、という話だ。イングリッドの提案は、たった一つの致命的な「
「あなたのその残酷なところは、本当に真似できないよ」
「私はいつだって、自分の大切なものが最優先ですもの」
にこり、と微笑んだその笑みの、見る者が見れば蒼白になるであろう凄絶さに、アストリッドはただもう一度ため息をつくしかなかった。
「これ以上、彼に嫌われたくはないんだけどねえ」
「ごめんなさいね」
言葉とは裏腹に悪びれる風もないその声と笑みに、深い息を吐いてから、アストリッドは諦めて魔女の後ろについてその家へと足を踏み入れた。
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