魔女のお茶会〜 #3
「やあ、いらっしゃい」
屈託のない笑顔で、食卓についたまま彼を迎えた淡い金の髪とその薔薇色の一対を見て、彼が最初に抱いた感情は、率直に言えば安堵だった。「彼女」に会うよりは、まだましだ、という。アストリッドは、ふとそんな彼の腹のあたりを見てぎょっとしたような顔になる。まじまじと彼を見つめ、それからほっとしたように息を吐いた。
「びっくりさせないで欲しいな。てっきりイングリッドが君をここまで連れてくるために、そこまで荒っぽい手段を取ったのかと思ってしまったじゃないか」
呆れまじりのその言葉に、視線を自分の腹へと向ければ、確かに薄い色のシャツに広がるその赤黒い染みは不吉な血痕に見えなくもなかった。
「あら失礼ね。いくらなんでもそこまではしないわよ」
どうだかな、と彼は内心で毒づく。懐に入れた者たちを別とすれば、この魔女は他者の命など路傍の石程度に思っている節がある。彼は実際そのような事例をいくつも見てきた。その内心の呟きを感じ取ったのか、魔女は肩をすくめたが、それ以上は何かを言おうとはしなかった。
アストリッドはそんな彼らを見遣ってから、指をすいと動かす。瞬間、大きく広がっていた赤い染みが綺麗に消えて、思わず彼は目を丸くした。
「便利な魔法だな、おい」
「水を操るのが一番得意だと、そう言っただろう?」
どんな染みも元を正せば水の仲間だからねえ、とにこにこと何の衒いもなくそう言う姿は、初めて会った頃から変わらない。彼女の想いを知った今、こもごも思うところはあれど、今気にしたところで始まらないと割り切って、ひとつ息を吐くと肩をすくめた。
「洗濯屋でも始めたら、儲かるんじゃねえか?」
「そうだねえ、必要に迫られたら試してみるよ」
「日銭を稼ぐ必要もないご身分は羨ましいこって」
「君さえよければいつでも養ってあげるよ?」
どうしてだか嬉しげに言うその顔に、深々とため息をつく。それから、改めて部屋の中を見回した。そこは木造りの大きくはないがそれなりに立派な一軒家のようだった。落ち着いた藍色と黒を基調とした織物であちこちが彩られ、きちんと片付けられた生活感のある部屋だ。
そうして彼は、ようやくその異質さに気づく。魔女と奇矯な精霊に迎えられるにしては、このお茶会の会場は、あまりに普通すぎた。今すぐ逃げなければ、と彼の先見視の力が今さらのように警告したが、どうやら手遅れだった。
「イングリッド、このお茶、この淹れ方で合ってる? 何だか普通じゃない匂いがするんだけど」
聞き覚えのあるその声に、彼の全身がびくりと震えた。扉の位置を確認し、そこから逃げ出そうとしたが、その一歩を踏み出す前にその姿が隣の部屋から現れた。
流れるような銀の髪に鮮やかな薔薇色の瞳と、全体の雰囲気は変わらない。それでも、しばらく会わなかった間に、その顔と身体ははっきりと大人の女性へと変わり、率直に言えばさらに美しくなっていた。
「ロイ……? 来てたの」
驚きに目を見開き、次いで花がほころぶように笑う。純粋な喜びに溢れたその表情に、心臓が例の如く不規則な鼓動を打つ。鎮まれ、と内心で全身全霊をかけて呟く。
「……よう。久しぶりだな」
「あなたもこの『お茶会』に呼ばれてきたの?」
「まあ、そんなところだ」
「久しぶりに会えて嬉しいよ」
茶器の載った銀盆をテーブルに置くと、突っ立ったままの彼のそばに歩み寄ってくる。間近に見上げる瞳に動揺を見せないよう、なんとか口元に笑みを浮かべる。
「元気そうだな?」
「まあね、あなたは全然変わらないね」
「そうか?」
それ以上言葉の出ない彼に、ディルが首を傾げる。彼女にしてみれば、旧い知己が訪ねてきてくれたとその程度のことのはずだ。自分の意志の弱さと、何としても逃げ出さなかった間の悪さを恨んでも手遅れだった。
「まあ、そろったことだし、そろそろ席について始めましょう?」
屈託なく言うその魔女の言葉が、彼には死刑宣告のように聞こえた。
だが、その「お茶会」は思ったより和やかに進んだ。イングリッドはこの二年の間に起きたことをにこやかに話し、アストリッドも庭の手入れの話などをしている。それから、ディルの問いに答えて、彼らが大戦の間、どのような時を過ごしたかについても当たり障りのないところを話した。
「そういえば、あの紫色の薬は、何だったの?」
ずっと気になっていたのだろう。ほんのわずか、その瞳に影を落としながらこちらを見つめてそう尋ねてくる。彼は一度イングリッドに視線を向け、彼女がただ肩をすくめたのを見て、一つため息をついた。
「あれは
「へえ……じゃあ、私が飲んだら、もう少しいろいろできるようになるのかな?」
「まあ、理論上はそうだ。だがあんたは紫に変わった俺の瞳と、その時に何が起きたかを覚えているだろう?」
あの闇の中、「狩人」たちを殲滅するためにあの薬を使い、そうして彼は死にかけた。その時のことを思い出したのか、ディルはほんのわずか肩を震わせた。それを見て、彼もまた、あの時の光景を鮮やかに思い出す。ついでに、これで最後だからと触れたその唇のやわらかさも思い出してしまい、深く後悔する。
結局のところ、格好をつけただけで死に切れず、だいぶ恥ずかしい思いをする羽目になったわけだが。
「そうだね……。そううまい話はないんだね」
「そういうこった」
答えた彼に、ディルは少し残念そうな顔をする。
「使いたい魔法でもあるのか?」
「そういうわけじゃないけど……まあでもイングリッドみたいにどこへでも好きなように行けたらいいよね」
その意味を考える。そういえば、アルヴィードの姿が見えないことにようやく気づいた。
「そういえばあいつはどこに行ってるんだ?」
「ああ、しばらく出かけてるんだよ、イーヴァルと一緒に」
「しばらく?」
「うん、もう半月くらいかな。一月くらいで戻るとは言っていたけれど」
「……よくあることなのか?」
「そうだね。それが彼らの仕事だから」
「仕事?」
「
そう言った彼女に、ああ、とアストリッドが何かに思い当たったように声を上げた。
「イーヴァルの宝のことだね」
「竜の?」
「そう。彼はずっとアルヴィードと一緒にこちらの世界に来てくれていてね。ただ、その間に彼の巣が荒らされて、あれこれ持ち出されてしまったらしいんだよね」
「つまり、竜の宝物が盗まれて、それを探している?」
「そのようだね。中には街一つくらいなら容易に破壊し尽くしてしまうようなものもあるから、早めに回収するようには伝えておいたけれど」
「もの凄く危ないじゃねえか」
そうなんだよねえ、と相変わらず緊迫感のない声が答える。それはそれとして、彼が気になったのはディルの方だった。
「あんたはあいつらがそうやって出かけている間、ずっとここで留守番してるのか?」
「うん」
「一人で?」
「うん」
事もなげに頷くその顔に、どうしてだか心がざわついた。それは、彼女がかつて、ひどく寂しがり屋だったことを知っているせいかもしれない。夜を一人で過ごすことさえできないほどに。
「この森の中からも出ずに?」
「たまには買い物にでかけるよ。ただまあ、あんまり人と会うのは好きじゃないし」
呆気にとられた彼に、二つの視線が向けられる。薔薇色と緑のそれぞれのその意味を悟って、彼は断固拒否する意志を固める。だが、彼が何か言うより先にディルが不意に立ち上がった。
「ああ、そろそろ鶏の丸焼きが焼き上がる頃だね。待ってて」
そう言ってそのまま隣の部屋へ消えていく。その姿を見送ってから、彼は魔女と精霊に目を向けた。
「断る」
「あら、まだ何も言ってないじゃない」
「うるせえ、混乱と混沌の申し子みたいなあんたの魂胆は見え見えだ。無理に決まってんだろ」
「どうして?」
「襲わない自信がねえ」
率直に言えば、アストリッドがため息をつき、イングリッドは愉しげに笑う。
「まだまだ元気そうで何よりね」
彼女には反応しなかったのに、という言葉にアストリッドに目を向ければただ肩をすくめている。どこまで話したんだこの馬鹿、と目線だけで伝える。
「そこまでだよ」
やれやれと二人でなぜかため息をつく羽目になっている。その時、不意に嫌な予感が脳裏をよぎった。一瞬二人を見つめたが、彼女たちは動かない。内心で舌打ちをしながら予感に従ってディルが消えた部屋の方へと足早に入ると、ちょうどその身体がぐらりと傾いで倒れる直前だった。なんとかぎりぎりで抱きとめる。
その顔色は真っ青で、意識を失っていた。
とりあえず脈を測り、呼吸を確認したが大きな異常は見られなかった。だが、よく見ればその頬はわずかにやつれていて、その不調が一日や二日でないことを窺わせた。
その身体を抱き上げ、開いている扉から当たりをつけて寝室へと運ぶ。そっと寝台に下ろすと、すぐにその目が開いた。
「あれ……?」
身を起こそうとするその肩を押さえる。
「寝てろ、あんた倒れたんだぞ」
「ええ……?!」
「いつからだ?」
「何が……?」
「その様子じゃここ数日って感じじゃないだろう。いつから具合が悪かった? 飯はちゃんと食ってるのか?」
矢継ぎ早に尋ねた彼に、ディルは叱られた子供のように肩を縮める。その様子を見て、彼はひとつ息を吐く。
「怒ってるわけじゃねえ。だが、こんな森の奥の家でそんな状態で倒れたら、誰もあんたを助けてやれねえ。わかってんのか?」
「ご、ごめんなさい」
「俺に謝ってもしょうがねえだろうが」
「ええと……別にそんなに大したことじゃないんだよ。本当に」
ただ、十日ほど前から吐き気と目眩がするようになって、ほとんど食事をとれていないこと。それ以外は熱や咳などの症状も特になく、食あたりの心当たりなどもないと語った。その手が無意識なのか、腹のあたりに当てられているのに気づいて、彼はその可能性にようやく思い当たった。
——そうして、イングリッドが、彼をここに呼び出した本当の理由にも。
内心で毒づいてから、それでもそれを表には出さず、そっとディルの腹部に触れる。今のところ兆候は外からではわからないが、その様子から見れば、ほぼ間違いないだろう。彼の勘もそう告げている。あれから二年、当時のあの男の溺愛ぶりを思い返せば、むしろ遅いくらいだ。
「ロイ……?」
ひとつため息をついてから、どこか不安げに揺れるその瞳に、大丈夫だと告げていったん部屋を出る。
だが彼が既に予想していた通り、戻った居間は、もうもぬけの殻だった。
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