魔女のお茶会〜 #4
誰もいなくなった居間で、彼は内心で思いつく限りの罵倒の言葉を並べ立てた。ややして、深呼吸してから一つ頭を振る。いつまでもこうしていては、ディルが起き上がって来かねない。彼女に無理をさせるわけにはいかなかった。
だが、寝室に戻ると、その人は寝台に横たわったままで、その瞳は閉じられていた。やや陰のある目元は以前よりも更に大人びて、それと同時にあの頃の想いをありありと思い出させて彼の胸を灼く。
——どう考えても、無理だろ。
内心でもう一度ため息をつく。こんな想いを抱えたまま、そばにいるなどどう考えても不可能だ。あの女たちが何を考えているのかは明らかだったが、彼がそれほどまでにお人好しだと踏んでいるのだろうか。苛立ちと共に思わず舌打ちすると、ふと、薔薇色の瞳が開いた。
「ロイ……?」
呼びかける声と、こちらを認めて安心するような笑みはあの頃と変わらない。それこそが、余計に彼を動揺させることに、彼女は一生気づかないだろう。諦めと未練とがないまぜになった感情のままに、その頬に触れそうになって、ぎりぎりで額に切り替える。
「熱はないな。気分はどうだ?」
「もうなんともないよ」
そう言って起き上がる。確かにその顔には血の気が戻っていた。寝台を降りようとするその肩を押さえてもう一度横たえさせる。
「もう少し寝てろ。なんか食えるものを持ってきてやるから」
「……まだ、あんまり食欲ないよ?」
「スープか、それくらいなら食えるだろう。とにかく食わねえと。最低二人分だ」
そう告げたが、ただ首を傾げている。何の自覚もないらしいその顔に、やれやれとため息をつきながらもっとわかりやすい言葉で告げる。
「あんた、身篭ってるんだよ」
だが、ディルはその言葉の意味が理解できなかったのか、首を傾げたままの姿勢で固まっている。きょとんと目を丸くしたその顔があまりに可愛く見えて、彼は内心で白旗を上げた。ここまでくれば、自分の想いを
「あんたのここに、新しい命が宿ってる。それも、俺の勘じゃ、双子だ」
そう言った彼の顔を、ディルはまじまじと見つめる。その表情が変わらないのを認めると、薔薇色の瞳が戸惑いの色を浮かべ、それから、一拍おいて大きな声が上がった。
「……えええ⁉︎」
「そんなに驚くことかよ?」
「だ、だって……子供なんて、想像もつかないよ? どうやって育てるの?」
唐突に動揺し始めたその様子に、やれやれとため息をつくより他ない。
「『祈りの家』で世話をしていたんじゃないのか?」
「小さい子たちだけだよ。赤ん坊なんてほとんど見た事もないし」
どうしよう、と心底困ったような表情を浮かべるその顔に、イングリッドが強引に彼をここに寄越した理由を悟った。元々家族というものを持たないディルにとっては、確かに出産も子育ても想像の埒外だろう。男どもだけでは当てにならないと思ったのだろうが、それにしたって人選が酷い。彼の想いを知っていながら、他に選択肢がなかったのだとしても。
「名付け親に、なってやるよ」
それが譲歩の言葉だと、ディルは気づいただろうか。
「とりあえずは、あいつらが戻ってくるまではそばにいてやる」
「本当⁈」
心の底から嬉しそうに顔を輝かせて、そのまま抱きついてきそうなその表情に心臓がおかしな音を立てるのを、なんとかねじ伏せる。
「だが、俺に触れるな、いいな?」
「どうして?」
「
「ロイ、正体が獅子なの?」
きょとんと首を傾げる。身近に狼の姿をしている者がいるせいで、その辺りに違和感はないらしい。気にして欲しかったのは、そこではないのだが。
「ものの例えだろうが……」
その顎に手をかけて間近に顔を近づける。薔薇色の瞳はただ不思議そうにこちらを見つめるだけで、その信頼が却って胸に痛い。やれやれ、ともう一度ため息をついて、その頭に口づける。
「あいつらが帰ってくるまでだ。いいな? それまではとにかく安静にしてしっかり食って、大人しくしてろ」
わかった、と神妙に頷く。それからこちらをじっと見つめた。
「ロイ」
「何だ?」
「ありがとう、大好きだよ」
屈託なく笑うその顔に絶句する。それから、ふざんけんな、と赤面しながら呟いて、男どもの帰還を心の底から願った。そうすれば、この損な役回りから解放されて、さっさと元の隠居生活に戻れるだろうと。
ところが、その一時的な「損な役回り」が想定より遥かに長く続くことになることを、その時の彼は思いもしなかったのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カラヴィスの自邸に戻り、イングリッドはすっきりとした香りのする香草茶を淹れてテーブルに置く。座っていたその人は、彼女にほんのわずか責めるような眼差しを向けてきた。その意味はわかっていたが、あえて肩をすくめてにっこりと笑って見せる。
「あの子ともっとゆっくり話したかった?」
「それはそうだけれど……こんなやり方は、さすがに酷すぎるんじゃないかい?」
そもそも、あのお茶会そのものが彼をあそこに引き寄せるためのものだった。もちろん、全てをきちんと説明して説得する選択肢がなかったわけではない。だが、絶対に彼がそれを受け入れないであろうことは明白だった。
「あの子のお腹に新しい命が宿っているけれど、父親たちが当てにならないから代わりにそばにいて面倒を見て欲しい、って説明した方がよかった?」
「もう少し、言い方っていうものがあるだろう」
「結果は変わらないわ。私たちが人の子供をまともに育てられるとは思えないし、他にあてもないし、なら、多少強引でも押し通すしかないでしょう?」
「彼だって、子供を育てたことなんてないだろう?」
それに、と珍しく歯切れ悪く続ける。
「もし、彼がその気になってしまったらどうするんだい? 彼のあの子に対する想いは本物だ。他に誰もいない家に、二人きりで取り残すなんて、獅子の前に新鮮な生肉を置いておくのと変わらないんじゃないかい?」
「そうねえ」
「それに、獅子のたとえじゃないが、他の雄の子供なんて普通は排除したいものだろう? どう考えても危険だと思うのだけれど」
眉根を寄せるその顔は、心の底から心配しているようだった。それほどに、あの子の身を思うのは、アストリッドなりに彼女を深く愛しているからなのだろう。その想いが、イングリッドにとっては何より嬉しかった。
同じ森で生まれてからずっと、気ままに己の欲望に忠実に生きてきた彼女とは異なり、アストリッドはこの世に執着というものをもっていなかった。彼女は常にそばでそれを見ていたけれど、アストリッドこそ、全てを他者のために容易に捧げてしまう。
以前、たった一度、アストリッドにとっても一つだけ本当に大切なものがあったことを知っている。それは生まれたばかりの小さな妖精だった。銀色の髪と、穏やかな青い瞳を持つその小さな妖精は、どうしてだかアストリッドによく懐き、彼女も可愛がっていた。
だが、その妖精は精霊の長を選ぶ会議の中で、ただ他の精霊が力を誇示するためだけに、その命を握り潰された。アストリッド自身は長になることなど微塵も望んでいなかったというのに。
我を失った彼女が当たり散らすように凄まじい死と破壊を巻き起こしたと聞いた時、感じたのは恐怖や哀れみよりもむしろ安堵だった。ようやく、アストリッドが無関心だった世界に対して、自らの意思を示したのだ、と。
それでも、結局その後に訪れたのはより深い孤独だった。アストリッドは彼女の呼びかけにさえも答えず、竜の呪いを望んでその身に受け、城に引きこもった。
そのアストリッドがあの小さな妖精以来、初めて心動かされたのがロイであり、アルヴィードだった。彼らの純粋で、ある意味幼い想いが、失ってしまったそれを思い起こさせたのだろうと彼女は思っている。
だからこそ、アストリッドがその想いを諦めて、別の人間の男と子を成したと知った時には、その心の闇を把握しきれていなかったことを深く後悔した。そして、その時にイングリッドは決意したのだ。何があっても、今度こそ彼女の心を守り抜くと。
——何があっても
たとえ彼女の意志に反したとしても、その生が幸福であることが、アストリッドの心の安寧につながると、そう信じて疑わなかったから。
アストリッドが祝福と呼ぶ運命は、それでも世界に干渉し、自然の摂理にわずかなりと逆らうものであるが故に、ディルの生涯は安寧とは程遠いことを彼女は感じていた。呪いと運命とが複雑に絡み合い、強大な精霊の力と、連綿と受け継がれた黒狼の血と、それを受け継ぐにはあまりに脆弱な人の身体と。
だからこそ、彼女はなんとかディルをその運命から引き剥がそうと、運命の枠外にあった
「イングリッド?」
アストリッドは知らない。ディルが黒狼との子を成して産み育てることは、その命を削ることになるであろうことを。そして、可能な限り知らなくていい、と彼女は思う。自身の悲嘆さえも自覚できず、涙を流すこともできないその人に、これ以上、絶望を負わせたくはない。
ロイは薬師として、そしてディルを愛する者としてきっと全力を尽くすだろう。その想いをねじ伏せてでも、その幸せのために。彼はそういう男だと、イングリッドは師弟として過ごした時の中で既に知っていた。
それが彼にとって狂おしい思いさえも封じ込めさせるような残酷な仕打ちだとわかっていても、結局のところイングリッドにとってはアストリッド以上に大切なものはないのだ。どれほど彼が苦しんだとしても、ディルの命とアストリッドの心さえ守れればそれでよかった。
その感情を何と呼ぶのか、彼女は知らない。実のところ深く考えた事もないし、歪んだ愛だと言われればその通りね、と答えるだろう。
「だって、世界にたった二人きりの姉妹ですもの」
その体を抱き寄せて、耳元で囁く。
「あなたは何も心配しないで。私がうまくやるわ」
美しく邪悪に微笑んだつもりの彼女に、けれど、アストリッドは困ったように笑って、彼女の頬を両手で包む。彼女よりは随分背の高い相手からそうされると、まるで愛を告げようとでもするように見える。
「悪いけど、信用できないなあ」
その唇から最初にこぼれたのは、愛の言葉とは程遠かったけれど。
「イングリッド、あなただって私の大切な人の一人だよ。だから、あんまり無理しないで」
全てわかっている、とでもいうように微笑んで、彼女の額に口づける。まるで、子供にでもするかのように。
馬鹿だ馬鹿だと言われ続けているのに、時折そうやって見せる本音で、本当のところはきっと全てわかっているのだろうと気づいてしまう。
魔女と呼ばれ、時には人を破滅に追い込んでも良心の呵責など感じたことがなかったというのに、この目の前の相手にそんな風に言われてしまうとそれだけで彼女の心は白旗を上げざるを得ない。
「ごめんなさい」
今度は、心からの謝罪に、アストリッドは晴れやかに笑う。
「じゃあ、また明日、もう一度きちんとしたお茶会を開こうね」
——そして、ちゃんとロイに謝ってから、改めてお願いしよう。
「だって、あの子の子供達なんて、きっと可愛すぎるに決まっているから、関わらないなんてもったいないよ?」
おばあちゃん、て呼んでくれるかなあ、とのほほんと呟くその言葉の違和感は凄まじかったけれど、まあ、この人がそれで幸福ならばいいかしら、と魔女はただ肩をすくめて微笑んだのだった。
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