7. 転機
目を覚ますと、見慣れない部屋にいた。正確には見たことはあるが、自分の家ではない場所に。
常に雑多な音で満ちていた「祈りの家」とは異なり、わずかに開いた窓から微かな鳥の声と風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。まだ日は高いようだが、深い森の中に差し込む光から時間を推し量るのは難しい。少し身を起こして窓に映る自分の青い瞳を見て、まだ日中なのだとそればかりは把握できた。
どうして、またここにいるのだろう。イーヴァルの言葉に激昂し、この家を飛び出した。それから森の中の泉で黒い獣と出会い、どうしてだかひどく安心してその背に身を預けて眠ってしまったのは覚えている。あの獣が彼に知らせたのだろうか。
彼が連れ帰ってくれたのだとすれば、まだここにいてもいいということだろう。けれど、どんな顔をして会えばいいのかわからない。あの青年のことだから、もしかしたら何事もなかったかのように受け入れてくれるかもしれない。けれど、誰かの庇護がなければ生きられないのなら、世界は牢獄に近い。
生きるなら、たとえ困難だとしても、牢獄よりも荒野の方がいい。
そう決意すると、心のどこかがすっと軽くなった。
寝台の横にある窓をそっと開く。自分がいるこの森がどこに続いているのかはわからなかったが、歩いて街までたどり着けないほどではないだろう。窓枠に手をかけて、乗り越えようとしたまさにその時、襟首を掴まれた。
「やめとけ、あいつの結界の中に突っ込んだって、お前じゃ迷い続けるだけだ」
親猫に咥えられる子猫よろしく吊り下げられる。見上げると、例の金の双眸が相変わらず射抜くような鋭い光を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「気配、しなさすぎ……」
「お前が迂闊なだけだろ」
「……イーヴァルは?」
「まだお前を探してるんじゃねえの?」
「え……? あの人が連れてきてくれたんじゃないの?」
「お前、本当に気づいてないのな」
アルヴィードはディルを寝台の上に下ろすと、その横に座り込んで深いため息をつく。戦いの最中にでもいるかのような、その全身から放たれる殺気にも似た空気は、ぴりぴりと張り詰めてディルを怯えさせるが、それでも端正な横顔とその眼差しはどこか複雑な色を浮かべていて、何かが違う。
「何?」
「まあ、その方が都合がよさそうだな」
「全然意味わかんないんだけど」
「どうせガキなんだから、わからなくていいんだよ」
「何それ?」
「早く育てよ」
ニヤリとくせのある笑みを浮かべて立ち上がろうとする、その服の裾を掴んだ。
「待って」
「何だ?」
「……銃を、貸してくれないか?」
「どうするつもりだ? 扱い方も知らないだろう」
「そんなに難しいものじゃないでしょ?」
「馬鹿言え。下手に使えばてめえの足を撃ち抜くだけだ」
それに、と続ける。
「どうやって、魔力を持つ者の銃の所持を発見するか知っているか?」
「……どういうこと?」
「この世界じゃ、魔力を持つ者の銃の所持は重罪だ。だが、持っているだけじゃ、そうそう罰せられることはない。堂々と振り回してる馬鹿か、よっぽど運の悪いやつくらいだな。だが、使えばまず間違いなく捕まる」
なぜなら、とアルヴィードは懐から黒光りする彼の銃を取り出して、引き金の部分を示した。そこには、小さな透き通った結晶がはめ込まれている。
「
「奴ら?」
「古い精霊たちだ。この世界の盟約とやらを守ることを生業にしてるそうだ。習わなかったか?」
「……知らない」
「そいつらは、『盟約』を破った者を見つけ次第、殺す」
まじまじとその顔を見つめたが、嘘をついている様子はなかった。
「精霊なのに?」
本来、精霊は自然とともに生きる者たちのはずだ。
「暇なんだろ。長い長い生に飽きて、刺激に飢えてる。先の大戦で奴らがどれほどの人間を殺したか、知らないわけじゃないだろう?」
事も無げに言う。確かに、精霊と人間たちの戦いの歴史については学び舎で習った。だが——。
「知ってて、俺に銃を渡したの?」
引き金を引けば、ディルが殺されると。
「お前が欲しいと言ったんだろう?」
向けられる表情は悪びれる風もないが、その瞳はやはり複雑な色を浮かべている。
「後悔した?」
「まさか。そもそも使わせる気なんてなかったさ。もしお前が引き金を引いて、奴らが現れちまったらそれこそ面倒だ」
「じゃあ何で連れていったの?」
「面白そうだからに決まってんだろ」
やっぱり最低だ。内心でそう呟きながらも、だが、イーヴァルがあれほどに反対した理由がようやくわかった。そもそも魔力を持つ者は、まともな者なら銃火器など手に入れようとしないから、そんな事実を知らずに済んでいるのだろう。
「じゃあ、アルヴィードは本当に魔力がないんだ」
「ああ」
「あなたは人間……じゃないよね?」
尋ねると、面白そうに笑う。
「何でそう思う?」
「わかんない……けど、なんか変な匂いもするし」
ただの人間にしては身のこなしに隙がなさすぎるし、普通はあれほど無茶な戦い方をしようとは思わないだろう。
「変な……ってお前だって同じだろう」
そう言って、おもむろに首筋に顔を寄せる。思ったより柔らかな黒髪がディルの肌をくすぐる。びくりと体を震わせたディルに、アルヴィードの気配が変わった。
「どうしたもんかな」
低くかすれた声でそう呟く。だが、その瞬間。
「お前ら、何やってるんだ?」
地の底から響いてくるような低い声に目を向ければ、わずかに髪を乱れさせたイーヴァルが扉の前に立っていた。
「見ての通りだ。邪魔すんなよ」
「見つけたなら、知らせろ!」
そのままずかずかと部屋に入り込み、ディルから男を引き剥がす。怒りを滲ませるイーヴァルに、アルヴィードは首を傾げる。
「そんなに心配しなくたって、お前の結界の中だし、何かあれば気づくだろ?」
「そういう問題じゃないだろう」
それから、ディルの腕を掴んだまま、じっと見つめてくる。その顔には明らかな安堵が浮かんでいたが、同時に何かを迷う風だった。
「……ごめんなさい」
そう呟くと、青年が目を見開く。
「アルヴィードから聞いた。どうして俺が銃を持ってはいけないのか」
「そうか」
青年はほっとしたように微笑を浮かべる。その笑みを見ながら、それでもディルは言葉を続ける。
「でも、俺はここにはいられない」
「何?」
上がった声は二人分だった。
「なぜだ?」
まっすぐに見つめてくる藍色の瞳は、静かだが有無を言わさず答えを求める。誤魔化しを許してくれそうにないその眼差しに、ディルは言葉を探す。
「俺たちが信用できないか?」
「そうじゃない」
イーヴァルは静かにディルの言葉を待っている。
「信用できないのは、自分自身だ」
その言葉に、二人ともが目を見開く。どういうことか、と目線で先を促され、ディルはさらに言葉を探した。
「ずっと独りだった。『祈りの家』でも学び舎でも、誰かを心の底から信用することなんてできなかった。あなたたちがどれほど心を砕いてくれたとしても、俺はきっとそれでも疑い続ける」
——不意に失うことの方が恐ろしいから。
「ここにいても、俺はずっと怯え続ける。自分が何なのかもわからないまま、いつかこの暖かい場所が失われるんじゃないかって。本当に、一人で立つことができるようになるまで。だから、ここでずっとただ守られているわけにはいかないんだ」
俯いたディルに、ややして降ってきた呆れたようなため息は二人分。
「ガキってのはめんどくせえな」
「まったくだ」
それから、イーヴァルが歩み寄ってくる。不意にぎゅっと両頬をつねられた。
「いいか、力のないガキが一人で生きていけるわけがないだろう。信用なんてしなくていいから、生きていくために何でもいいから利用しろ。俺もこいつもお前に利用されたくらいで減るものは何もない」
イーヴァルの表情には嘘や衒いは見えず、アルヴィードは笑みさえ浮かべていた。
「むしろ、俺たちを出し抜いて楽しませてみろよ?」
その言葉よりも遥かに伝わるその想いを、どう受け止めればいいのだろうか。迷いを読み取ったように、イーヴァルが、珍しく人の悪い笑みを浮かべる。
「まずはお前のルーツを探さないとな」
「俺の?どうして……?」
「お前のその匂いとやらの原因を突き止めないことには、お前が成長する前にこいつの理性が焼き切れそうだからな」
見れば、アルヴィードは肩を竦めている。
「別に俺はどっちでもいいんだけどな。どうにもそいつが許してくれなそうだ」
「当たり前だ、変態」
冷たく言い放つ相棒に、男はニヤリと笑う。
「まあ、何にせよ退屈はしないだろうさ」
「でも、探すって言っても、どうやって……」
「まずはお前を引き取った『祈りの家』で話を聞く必要があるだろうな。いつ、どこで拾ったのかくらいは覚えている奴がいるだろう。そのとき身につけていたものとか」
誰もディルの素性など気にしなかった。けれど、何か手がかりが本当に見つかるのなら。そして自分が何者なのかが本当にわかるとしたら。
「知りたい」
呟いたディルに、アルヴィードがぽんぽんとその頭に手を載せて、珍しく屈託なく笑う。
「ああ。見つけてやるよ」
「でも、アルヴィードと同じってことは?」
同じ匂いがするのならば、それもありそうなものだが。
「それはないな。俺たちは必ず性の区別を持って生まれてくる。それに人間よりはだいぶ長生きな方だが、魔力を持つ者はいない」
「アルヴィードって何なの?」
尋ねたディルに、イーヴァルが面白そうに笑う。
「何だ、話していないのか?」
「うるせえ、黙っとけ」
男はどうしてだかそっぽを向く。どうやら話す気はないらしい。
「じゃあ、イーヴァルは? アルヴィードとは、違うよね?」
「そうだな。まあそいつが話さないなら、俺も今は黙っておこう。お前の正体がわかったときのお楽しみだ」
「別に楽しくないけど」
呟いたディルに、イーヴァルもアルヴィードもただ楽しげに笑ったのだった。
翌日、旅支度を整えた三人は森の家を後にした。
「本当によかったの?」
「別にあそこが本当に家ってわけでもない。俺もこいつも元々流れ者だ」
「そうなの?」
そういえば、どうして強盗などに及んだのか、その理由も聞いていない。あの日を思い出すと、今でさえ体が震えるほど恐ろしいが、それすらもディル自身が選んだ罪だ。直接ディルが奪ったわけでもないが、それでも失われた命は戻らない。
それを思い出し、もう一つの決意を固める。
「アルヴィード」
「何だ?」
「一緒に行くなら、一つ約束して欲しい」
「何だ?」
その身体はしなやかで、強い。どんな敵でも軽々と打ち倒してしまうだろう。だからこそ——。
「もう人を殺さないで」
そう言ったディルに、男は面白そうな表情を浮かべる。
「俺たちが殺されそうになってもか?」
その問いに、首を横に振る。
「あなたたちの命が関わることは、二人の自由だ。でもそれ以外は、嫌だ」
「……お前の命が危険にさらされていてもか?」
イーヴァルの問いに、静かに頷く。
「もう、俺は誰かの命が失われるのは見たくない」
だから、と告げる。
「どうしても、誰かを殺さなければならないなら、先に俺を殺して」
その言葉にイーヴァルが息を呑む。だがアルヴィードはその金の瞳に苛烈な光を浮かべた。
「ふざけるな」
体が震えるほどの怒りを正面から受け止めて、それでも言葉を続ける。
「それが嫌なら、全部守って。誰も殺さなくて済むように」
まっすぐにそう告げたディルに、今度こそアルヴィードが息を呑んだ。
それから、ため息をつくと呆れたように笑ってディルの顎をすくい上げる。
「わかった」
契約の証とでも言うように、ひとつ口づけを落として。
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