8. 別離

 まず彼らがやってきたのは、ディルが住んでいた「祈りの家」だった。そこは古くからあり、数人の大人たちと、十数人の子供たちが暮らしている。大人たちは幼い子供たちの世話を中心としており、ある程度の年齢の子供たちには基本的に干渉しない。食事の世話や掃除など家事一般も、年長の子供たちが取りまとめることになっており、揉め事が起きても、よほどひどい事態にならない限りは放置するのが常だった。

 それが故に、育ててもらった恩は感じていても、離れても郷愁や哀惜を感じることもない。ディルにとってはその程度の距離感だった。


「とりあえず俺が話を聞いてこようと思うが、お前も来るか?」

 イーヴァルがそう尋ねる。迷ったが、ディルは首を横に振った。素性については何度も尋ねたが、大人たちは誰一人として手がかりの一つも示そうとはしなかった。ディルが聞くよりは、むしろ他人が聞いた方が良いかもしれない。それに、正直なところ、この家にはもう入りたくなかった。

「わかった。なら、大人しく待ってろ。アル、目を離すなよ」

「赤ん坊じゃあるまいし」

「この街で何をしでかしたかもう忘れたのか?」

 その言葉に、心臓をぎゅっと掴まれたように感じた。件の屋敷はここからは遠く離れてはいるが、同じ街の一角にある。街の人の噂話にも上がっているようだが、とりあえずは、犯人はすべて射殺されたということで、片付いているらしかった。

「目立つなよ。その辺で飯でも食ってろ」

「わかったよ」

 素直に頷いたアルヴィードに、それでも心配そうな眼差しを向けてから青年は祈りの家へと入って行った。

「じゃあ、何か食うか?」

「別にいい」

 俯いたままそう答える。

「この街が嫌いか?」

 顔を上げると、アルヴィードは面白そうにこちらを見下ろしている。

「そんなに嫌いなら、さっさと出て行っちまえばよかったのに」

「誰でもあなたみたいに強いわけじゃない」

 それが言い訳に過ぎないことはわかっていたけれど。

「ディル?」

 不意にかけられた声に、思わず身が強張る。振り返ると、ルドウィグが唖然とした顔でこちらを見つめていた。

「お前、無事だったのか……」

 言いながら近づいてくる。腕を掴もうと伸ばしてきた手は、アルヴィードに払われた。

「まだ懲りないのか、坊ちゃん?」

「お前……あの時の」

 それからディルに向き直る。だが、どうしてか声を潜める。

「おい、お前こんな奴と一緒にいるのか? 強盗の仲間だろう?」

 周囲を気にするように小声で話す。

「黒装束の男たちが、エドヴァルドの館を襲ったけど、ほとんどが殺されたって。お前もあの日から姿が見えないから、巻き込まれたのかと……」

 どこかほっとしたようなその表情は、まるでディルを気遣っているようだった。

「とりあえず、こんなところにいない方がいい。あいつらの生き残りが、お前とその男のことを探してたぞ」

「生き残り?」

「一人だけ生き残った奴がいたらしい。何人か引き連れて、『祈りの家』にも来てたぞ」

「何で……」

「……エイリークの奴が話したらしい」

「本当にいいお友達を持ったな」

 皮肉げに言うその眼差しは、すでに鋭さを増している。そして、どこか楽しげにルドウィグに尋ねる。

「で、そいつらはどこに行った?」

「し、知らない……!」

「へえ。ならそいつらにまた会ったら、俺はこの間の森にいると伝えておいてくれ」

「アル……?」

 名前を呼びかけて、だがルドウィグには知られない方がよいかと途中で止める。

「仕留め損ねた獲物は厄介だ。確実に息の根を止めておかないとな」

 獰猛な笑みを浮かべるその姿に、背筋が冷えた。だが、思わず震えそうになる体を叱咤して、その腕を掴む。

「約束」

「ああ? そんなこと言ってる場合か。あいつらは俺たちを殺す気だぞ?」

「そういうのを身から出た錆って言うんだ」

「よく回る口だな……塞いでやろうか?」

 冗談でもなさそうに、ディルの顎をすくい上げて顔を寄せてくる。間近に迫ったその瞳に浮かぶ光が、それでも少し和らいだのを見てほっと息をつく。

「それで気が済むなら、別にいいよ」

 そう言うと、アルヴィードは、それこそ今まで見たことがないくらいに目を見開いて固まった。わずかに口を開いて何かを言いかけたが、また閉じてしまう。

「どうしたの?」

「お前って、本当にガキ」

 ため息をついて、手を離す。ふと横に目をやると、どうしてだかルドウィグが真っ赤な顔をしていた。


 ともかくも、ディルを離すとアルヴィードはどこへともなく歩き出してしまう。

「どこ行くの?」

「その辺りを見てくる。お前はここであいつを待ってろ」

 その身に纏う空気はやはり不穏さを増していて、だからこそ一人で行かせてはならないと何故か思った。その腕を掴む。

「俺も一緒に行く」

「足手まといだ」

「それでも行く」

「あのなあ……」

「やめとけよ、ディル」

 急に割り込んだ声に、ディルだけでなくアルヴィードも足を止めた。振り向くと、ルドウィグがどこか思い詰めた顔でこちらを見つめていた。

「そんな奴と一緒にいても危険なだけだ」

 先ほどからまるでディルを気遣うような口調に苛立ちが募った。自分がしてきたことを忘れたとでも言うのだろうか。

「お前たちの方がましだとでも?」

 ディルの肩には、ルドウィグの火器で焼かれた痕が今もはっきりと残っている。その傷はさすがに「祈りの家」の大人たちでさえ眉を顰めるもので、ディルはその痛みと引き起こされた熱のために一週間寝込むことになったのだ。


 無意識にか傷痕を押さえてそう呟いたディルに、ルドウィグは顔を歪めたが、それでも表情を改めてまっすぐに見つめてくる。

「あれは、本当に悪かった。謝って許されることじゃないのはわかってる。でも、そいつと一緒にいると本当に危険だ。行くところがないなら、僕が守ってやるから。従者が嫌なら、ただ家にいるだけでいい。家族には僕から話す。それで、いつか僕の……」

 ほのかに頬を染めてそう言うルドウィグに、ディルが口を開く前に、アルヴィードが一歩前に出た。そして、いつの間にか取り出した銃をその額に突きつける。

「——黙れ。そして今すぐ俺の目の前から消えろ」

 その指はすでに引き金にかかっている。一瞬でも遅れれば、命を失いかねない。そう悟ったのか、ルドウィグは真っ青になり、ちらりとディルに目を向けたが一目散にどこかへ駆け出して行った。


 残されたディルは、自分の前に立ったその男の背中をそっと窺う。その身に纏う空気は、触れれば今にも爆発しそうに張り詰めている。いつもはディルをひどく怯えさせるその気配は、だが今は不思議とそれほど恐ろしく感じなかった。

 その大きな背中にそっと腕を回して抱きついた。鍛え上げた身体はしなやかで硬く、力強い。

「……ありがとう」

 そう呟くと、しばらくしてからふっと空気が緩んだ。大きな手がディルの頭をぽんぽんと軽く叩く。

「何、あいつのにやけた顔に我慢がならなかったんでな」

 肩を竦めて苦笑した彼に、ディルもまた自然と微笑んでいた。


 アルヴィードは今度こそ歩き出したが、ディルがついて行っても拒む様子はなかった。諦めたのだろう。しばらく街中をあちこち歩き回る。何人か、ディルの知り合いの少年たちがディルの姿を見つけて寄ってこようとしたが、その隣りを歩く長身の影に気がつくと、皆一様に怯えたように去って行った。

「魔除けみたい」

「せめてお守りって言えよ」

 呆れたような口調に、思わず吹き出す。この街に住む者たちは力に敏感だ。相手が弱いか、強いか——それを正しく判断できなければ、自分の身に危険が迫る。アルヴィードに関していえば、その容姿だけでなく、身に纏う雰囲気が明らかに常人とは異なることを、誰もが感じずにはいられないのだろう。

 ふと、アルヴィードが足を止めた。だが、周囲を見回すでもなく、またすぐに歩き出す。

「どうかした?」

「別に」

 言いながらも街から離れ、森の中へと歩みを進めていく。その森は、木々が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い。ほとんど人の踏み入れぬその場所は、ディルにとっては、だからこそ格好の隠れ家だった。


 アルヴィードは何か目的でもあるかのように、迷いなく歩みを進める。そうして、たどり着いたそこは、かつてディルが初めてアルヴィードとイーヴァルに会った場所だった。そこで足を止めると、ディルに向き直り、その頬を両手で包んでニヤリと笑う。どうしてだか不穏な気配を感じ取って、ディルは逃れようとしたが、アルヴィードは許さず、その顔を近づける。

「それで気が済むなら、別にいい、なんて他の奴には絶対に言うなよ」

 その眼差しは面白そうだが、確かに熱を宿している。わずかに開いた唇がディルのそれに触れる寸前、だが銃声が響き、二人の頬を掠めた。

「真っ昼間からお熱いこったな」

 視線を向けると、顔に大きな傷のある男がこちらを睨み付けていた。その手には銃が握られている。さらに後ろに同じように柄の悪そうな男が二人、控えていた。

「俺たちを裏切ってお宝を独り占めした上に、ガキに手を出すとは外道にもほどがあるな」

「別に裏切ってなんかいないさ。お前たちが勝手にしくじっただけだろう?」

 ディルを離し、男たちに向き直るその顔はいつか見たのと同じように獰猛な笑みを浮かべている。それこそ獲物を見つけた獣のように。

「うるせえ。俺は見たんだ。警備の奴らが入ってきた後、お前が俺たちに向かって銃を向けるのをな」

「仕方ねえだろう、お前らが捕まったら、俺たちまで迷惑を蒙っちまう」

「貴様……!」

 男が引き金に手をかけたが、アルヴィードの方が早かった。懐から銃を抜き出し、躊躇いなく撃つ。その銃弾は狙いを過たず男の右肩を貫く。続けて、その男だけでなく後ろの男たちも両腕と両脚を撃ち抜かれ、その場に倒れた。突然の事態にただ立ち尽くしていたディルはだが、自分の後ろに他の影が近づいていることに気付けなかった。

「そこまでだ」

 もう一人、木の影から現れた男が、ディルの頭に銃を突きつけていた。その男にも見覚えがあった。アルヴィードは振り向かないまま、ため息をつく。

「なんだ、もう一人生きてやがったか。警備の奴らの腕を信じたのが間違いだな」

「おしゃべりはいい。このガキの命が惜しかったら銃をこっちに寄越せ」

 男の腕はがっちりとディルの肩を抱いており、頭ひとつ動かせない。アルヴィードはゆっくりと振り向くと、こちらを静かに見つめた。その眼には何かを迷うような光がある。それが何か、ディルは気づいた。

「アル……!」

 彼の腕を持ってすれば、一撃でこの男の額を貫けるはずだ。だが、彼はそれを躊躇っているように見えた。


 ——きっとディルとの約束のために。


「早くしろ。こないだ受けた傷のせいで手が震えちまってな。うっかり引き金を引いちまうかもしれねえぞ?」

 男は愉しげに言う。アルヴィードは、しばらく黙ったまま男とディルを見つめていたが、やがて銃を男とディルの前に放り投げた。男が笑う気配が伝わってくる。

「おい小僧、お前こないだ変な術を使ってたよな?ってことは魔力持ちだな?」

「だったら何」

「なら、その銃を拾え。お前には使えないだろうからな」

 この男も、罰について知っているのだろう。ふと、視界の外で何かが動いた気がしたが、それより先に男の銃が火を吹いた。アルヴィードの肩から鮮血が溢れ出す。

「動くなよ。次は心臓だ。それにその前にこのガキの頭を撃ち抜いてやる」

 アルヴィードの眼は、静かだが怒りに燃えている。足手まといになった事を悔やんでも遅い。この男は、間違いなくアルヴィードを殺すだろう。ディルが余計なことをしたばかりに。男は視線を感じたのか、下卑た笑みを浮かべる。

「抵抗しなきゃ、お前は生かしておいてやる。綺麗な顔をしているからな、高く売れるだろうさ。その前にたっぷり俺が可愛がってやるさ」

「まだ子供だぞ」

「生憎、俺はこういうのが好みでな。無抵抗なガキを犯るのはそりゃあ愉しいのさ」

 アルヴィードの殺気がさらに強まる。だが、男の銃口はまっすぐにアルヴィードの額を狙っている。

「早く拾え」

 促され、ディルはゆっくりとその重い銃を拾った。引き金には白い結晶が輝いている。このままではどちらにしても二人とも身の破滅だ。アルヴィードは殺され、ディルは囚われる。


 もう一度、銃を見つめる。それは、ディルをあの少年たちから救ってくれたものだった。そうして、ディルに初めて手を差し伸べてくれたのは、他の誰でもなく、アルヴィードだったと改めて思い出す。

 顔を上げ、アルヴィードを見つめると驚いたような顔をした。それで、自分が微笑んでいるのに気づいた。

「馬鹿、よせ!」

 アルヴィードが声を上げるのと同時に、ディルは男に振り向くと、もう躊躇わずその心臓に向けて引き金を引いた。



 大きな銃の反動は大きく、ディルはその場に膝をつく。だが、その威力は確実で男の心臓から血が溢れ出し、その場に倒れる。その返り血がディルの頬を濡らした。

「この馬鹿‼︎」

 叫んでアルヴィードが駆け寄ってくる。

「なんで撃った⁉」

 ディルの手から銃を取り上げながらその肩を掴む。その顔はかつて見たことがないほどの焦燥を浮かべていた。

 答える間も無く、不意に森の中に何か不穏な歌声が響いてきた。それは空気を震わせ、やがて、何もないはずの木々の間に、闇が生まれた。

「な、なんだあれ……!」

 奥で倒れていた男たちが唖然とした声を上げる。まともに動かない脚を引きずり、それでも必死にその場から逃げ出していく。


 その闇から現れたのは、二人の精霊だった。その手には美しい三日月のような大きな鎌を持っている。一人は淡い金の髪に、紫水晶のような瞳。もう一人は、濃い金の髪に、水色の瞳。いずれも美しいが、どちらの眼差しも背筋が冷えるほどに酷薄な光を浮かべている。


「おやおや、久しぶりに呼ばれたと思って来てみれば」

「随分可愛らしいこと」


 近づいてくる二人の精霊に向けて、アルヴィードが銃を構える。だが、精霊たちは意に介した風もなくひらひらと手を振る。

「そなたには関係のないこと。死にたくなければ下がっておれ」

「これは我ら魔力を持つものの古き盟約。盟約を破ったものには罰を与えねば」

 にこりと微笑みながら、銃口をものともせずに近づいてくる。

「知るか。お前たちが精霊でも、この銃は黒鋼の弾が込められてる。俺は、お前たちを殺せる」

「ふむ……興味深い。誰にも懐かぬ孤高の獣が、盟約を破った者を庇うかえ」

 面白そうに二人の精霊はまじまじとディルとアルヴィードを見つめる。水色の瞳の方が少し驚いたように声を上げた。

「そなた、天の瞳の持ち主か。これは珍しい。しかしその命を狩らねばならぬとは、惜しいことよの」

 言いながらその鎌をディルに向かって振り下ろそうとする。その瞬間、アルヴィードの銃が火を吹いた。銃弾は、精霊の頬をかすめる。すかさず、もう一人の精霊の鎌がアルヴィードの頬を切り裂いた。さらにもう一人がその背に斬りつける。

「アルヴィード!」

「いかな黒狼とて、我ら二人を相手にするのは分が悪かろう」

「ふむ、しかももう一人惹かれて来たようだ」

 その声に呼ばれるように、闇からもう一人似たような精霊が現れる。

「久しぶりの狩りだ。私にも交ぜてもらおう」

 酷薄な笑みを浮かべるその顔は、どこか狂気を感じさせるが、それでも美しい。その鎌がディルに向かって振り上げられた。それを防ごうと動いたアルヴィードに別の精霊の鎌が迫る。あれ以上斬りつけられたら——。


「やめて!」

 叫ぶと、精霊たちが動きを止めて一斉にこちらに目を向ける。その冷ややかな視線を感じながらも、声が震えないよう、拳を固く握る。

「アルヴィードは関係ない——俺を殺して。それでいいんでしょう?」

 まっすぐに告げたディルに、精霊たちが、どうしてだか柔らかく微笑む。

「ふむ、潔い子供は好きだよ」

「その心根に免じて、苦しまぬように逝かせてやろう」

 まるで労るように、精霊たちは穏やかにそう言った。

「その代わり、アルヴィードには手を出さないで」

「我らの目的は盟約を破った者のみ、その他の者は邪魔せぬ限りは関わらぬ」

 ふわりとディルの周りに降り立った精霊たちは、一様に鎌を構える。

「ふざけるな!」

 叫ぶ声が聞こえたが、そちらを向く勇気は持てなかった。鎌が振り下ろされようとした瞬間、だが、強い風が吹く。


「何をやってるんだ、お前たちは!」


 風の中から忽然と現れたイーヴァルが、ディルを抱きすくめる。精霊たちは一様に驚いたように眼を見張った。

「そなた、なぜこんなところに」

「俺の勝手だ。お前らこそこんなことをしてただで済むと思っているのか?」

 その声は低く、ごく静かだったが、精霊たちを睨みつける眼差しは、かつて見たことがないほどに苛烈だった。精霊たちはやや怯みながらも抗議の声を上げる。

「盟約を破ったのはその子供の方。そなたといえど、手出しはできぬ。その腕を見るがいい」

 言われて、示された自分の左の手首を見ると、その内側に黒い何かの小さな文様が浮かび上がっていた。

「それは盟約を破った呪いの証。すぐにというわけではないが、ゆっくりとその者を蝕んでいく」

「どれくらいだ?」

「さて、十年か百年か。いずれにしても、寿命なき精霊には、瞬く間よの」

「随分気の長い話だな」

 イーヴァルが呆れたように言う。正直なところ、ディルも同感だった。

「まあ、なら話は早い」

 そう言って、腕の中のディルと、少し離れた場所でこちらを睨みつけるアルヴィードに目を向ける。

「少し目を離しただけで、どれだけ厄介ごとを引き起こすんだ、お前たちは」

「ごめんなさい」

 俯いてそう呟いたディルとは対照的に、アルヴィードはむしろ噛み付くように毒づいた。

「遅ぇんだよ」

「そもそも呼べよ」

「うるせえな、それどころじゃなかったんだよ!」

 叫ぶアルヴィードに、青年は深いため息をつく。それから精霊たちを見やって、肩を竦めると、もう一度ディルに視線を向ける。

「ディル」

「何?」

「俺たちはあいつらとちょっとした因縁があってな。今、お前を抱えたまま逃げるのはおそらく不可能だ」

 その言葉に、心臓を掴まれたような気がした。それに気づいたのか、イーヴァルはディルを抱きしめてその頭を撫でる。

「見捨てるわけじゃない。だが、今は、これしか方法がないんだ」

 ふわりと風が吹く。ディルの耳元に口を寄せ、イーヴァルはごく小さく囁いた。

「俺の名にかけて誓う。俺が——俺たちが必ず迎えに行ってやるから」


 ——何があっても生き延びろ。


「イーヴァル、何をするつもりだ⁈」

 アルヴィードが叫ぶ。イーヴァルは、その問いかけに対して、どうしてだか、ほんのわずかに楽しげな光をその眼に浮かべた。

「元々はお前が蒔いた種だ。覚悟を決めろ」

 精霊たちが一斉に何やら抗議の声を上げるのが聞こえたが、イーヴァルは構わず何か一連の言葉を呟く。その瞬間、風とともに光が湧き上がった。風が強くなり、ディルは思わず目を閉じる。体ごとどこかに攫われるような感覚に包まれ、一瞬の後に全てが止んだ。


 目を開けると、一面の緑の野原に立っていた。アルヴィードも、イーヴァルも、そして精霊たちの気配もない。


 ディルは、再び独りになっていた。

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