Ch.3 - In an unfamiliar world
9. 禁呪
「そうやって一人でこの世界に放り出されて、あんたはずっと一人で生きてきたってわけか」
こちらを見つめる眼差しは、どうやら心なしか潤んでいるように見えた。
「あなたが泣かなくても……」
「な、泣いてなんかいねえよ。ただ、そんな子供が、苦労したよなあ……」
しみじみと、ディルの肩を抱き寄せようとしたが、黒い獣が低く唸り声を上げる。
「お前さんも、本当に健気だな……」
その表情に何か複雑な色が浮かんでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
「まあそんなわけで、私のこれは、
手首の黒い文様を眺めながら、でも、と不思議に思う。
「何で禁呪を使っても『狩人』たちは現れなかったんだろう」
「あんたの場合、最初の一回は、狭間の世界で使ったからだろうな」
「どういうこと……?」
「盟約は、各世界の住人ごとに定められている。『住人』の定義はこの場合、その場所にいる、で間違いないはずだ。だから、狭間の世界ではいくら禁呪を使っても『狩人』たちはやってこない」
「でも……」
「そうだ、それだと説明のつかないことがひとつある。あんたはこっちに来てからも禁呪を使用している。なのに、『狩人』たちは現れなかった」
「ええ」
「考えられることは二つだ。ひとつは、あんたが使用したのが自分の血だから」
「それはどういう……?」
首を傾げたディルに、ロイは暗い表情になって続ける。
「人の身体の一部を使用した術が禁止されたのは、先の大戦で基本的に他者を触媒として大規模な虐殺が行われたからだ」
——材料とされた人々も、殺された人々も。
「そりゃあひどいもんだったと聞いてる。それこそ筆舌に尽くしがたいほどの、な。だが、あんたが使ったのは自分の血だ。だからこそ見逃された」
「もうひとつは?」
「あんたの場合、すでに盟約違反の呪いを受けている。一度呪いを受けた以上、もう一度受けることがない、というのが第二の仮説だな。最初に受けた呪いが『狩人』の目を眩ませている、とでも言えばいいのか」
ただ、とロイは続ける。
「いずれにしても仮説に過ぎないし、次も奴らがこない保証はない」
ロイの言わんとすることは明らかだった。これまで無事だったからと言って、これからも無事に済むとは限らない。
「それに、そもそもその術はあんたの体には負担が大きい。できれば、二度と使わないことをお勧めするね」
「そう、ですね」
「あんた自身、わかってるんだろうとは思うけどな」
言いながら、ちらりと黒い獣に視線を向ける。
「まあ、立派な用心棒も帰ってきたみたいだし、そんな無茶をしなくて済むように祈るばかりだな」
視線を向けると、ぐいとのしかかって、首筋にその顔を押しつけてくる。なんだかその動きが執拗な気がした。
「どうかしたの?」
顔を手で掴んでその金の双眸を見つめたが、獣のそれはやはり感情が読めない。まじまじと見つめるディルをよそに、ロイが深いため息をつくのが聞こえた。
「ディル、その
何か言いかけた彼に、黒い獣は不意に牙を剥き出しにして唸り始める。理由は不明だが、それ以上口を開いたら、噛み付くぞ、と言う意志だけははっきり伝わってきた。ロイは、どちらかというと呆れたような視線を向け、それからまあいいか、と呟いた。
「ま、そのうちわかるだろ」
結局それ以上は、それについては話そうとはしなかった。
「で、あんたのその呪いについてだが、その文様、変化はあるか?」
「そうですね……明らかに、大きくなってますね」
初めは親指の爪ほどの小さなものに過ぎなかったが、この数年で手首の半ばを覆うほどになり、文様自体も蛇が絡まりあったような複雑なものになってきている。
「あの精霊は、この呪いが私を蝕むまで、十年か、百年か、なんて大分ざっくりなことを言っていましたが」
「まあ、精霊の場合は寿命なんてないみたいなもんだしな。だが、あんたは明らかに成長してるみたいだし、それに合わせて呪いも進行しちまってる感じだな」
「これ……最終的にどうなるんですかね?全身に広がる……とか?」
「多分、その前に死ぬな」
「……気軽に言いますね」
「隠してもしょうがないだろ、特にあんたの場合」
「まあ、それはそうですが……」
ああ、そうだ、とロイは急に表情を変えて続ける。
「その口調、そんなにかしこまらなくていいぞ。あんたとその黒狼のやりとり見てたら、却ってなんかむず痒くなってくるわ」
「そうかな」
「そうそう。澄ましたあんたも悪くないけどな。素直なのが一番だ」
ぽんぽんとその頭を叩かれる。そんな仕草が懐かしくて、胸の奥がふとざわついた。
「また、会えるのかな」
ぽつりと呟いたその言葉に、ロイはちらりと黒狼をまた見やって、どうしてだか面白そうに笑う。
「会えるさ」
「なんでそんなに確信ありげ?」
「年の功ってやつかな」
そういえば、ロイは外見はアルヴィードの少し上くらいだが、この世界では必ずしも外見が生きてきた年月と合致しないことはよくあることだった。
「ロイって何歳? っていうかそもそも何?」
「あー、もうどれくらいだったかな。二百を過ぎたあたりから数えるのをやめちまったからな」
事もなげに言う。驚いて声も出ないディルに、だが彼はからからと笑った。
「だからな、十七のお前さんが気を使う必要なんてねえんだよ。若いもんの世話するのは年寄りの楽しみみたいなもんだからな」
「さすがにそれは言い過ぎじゃ……。ロイは恋人とかいないの?」
「いたことはあるが、まあ長続きはしなかったな」
「そうなの? 優しいし、面倒見も良さそうだから、女の人からは好かれそうだけど」
「誰にでもってわけでもないんでね」
ニヤリと笑って見せたその表情に、どうしてだか黒い獣がぴくりと毛を逆立てている。その様子に、ロイが肩を笑って竦める。
「過保護だな、本当……。まあ、わからんでもないが」
やれやれ、とため息をついてから、改めてディルに向き直る。
「大見得切っといて悪いんだが、その呪いは、俺の手には負えない」
「そっか……」
「だが、あんたの場合は、自分とあんたの大切なものを守るための止むを得ない緊急の措置だったといえなくもない」
「……だから?」
「情状酌量を求めたい」
「何それ?」
「盟約は次なる大戦から世界を守るためのルールだ。それ以上でもそれ以下でもない。あんたの生きてきた世界は十分すぎるくらい苛酷だった。だから、俺から言わせれば、あんたは許されてもいいと思う」
長い時を生きてきたらしいその男の目に浮かぶ光は深い。それからぼそりと呟くのが聞こえた。
「俺にも責任の一端はあるしな」
「ロイ?」
「なに、こっちの話だ。ともあれ」
とりあえず飯にするか、とどこかで聞いたような台詞を続ける。
「わかった、手伝うよ」
昨夜の残り物らしいシチューを温め、パンを炙り食卓に並べる。それからロイは、複雑な香りのする茶を淹れてくれた。
「これは?」
「ああ、月光花と宵闇草の香草茶だ。鎮静作用があるから先に飲んでおくといい」
少し眠気がでるかもしれないけどな、と付け足す。すると足元に座り込んだ獣が怪訝そうな眼差しを向けてきた。
「腕の傷用だ。どんだけ過保護なんだ、お前さんも。だいたい悪さをするつもりなら、事前に教えたりしないさ」
癖のある笑みを浮かべる男に、獣はそれでも威嚇するように牙を見せて、それからもう一度目を閉じた。
一人と一匹のそんなやりとりを眺めながら、カップに口をつける。少し刺激のある甘い香りは、どこか懐かしい気がした。
「美味しい」
「そうか、よかった」
食事をしながら、ディルはいくつか気になっていたこと尋ねる。
「情状酌量を求める、って具体的に何をするの?」
「まあ、とりあえずは、あいつらに会わなけりゃならないだろうな」
「あいつら?」
「『狩人』たちの元締めみたいな連中だな」
「元締め……」
「大戦後の和平条約の締結に関わった連中でもある。盟約不履行の呪いについちゃ、ある精霊が構成したものだから、解けるのも基本的にはあいつだけだろうな。理由を説明して解いてもらう」
随分楽観的な考えに思えた。どちらかというと、見つかった時点で殺されるのが落ちのような気がする。ディルの胸の内を読んだように、ロイは苦笑する。
「そんなことはさせねえし、まああいつなら大丈夫だろう。どっちかっていうとあいつ自身は雑な性格だからな」
「雑……?」
「ついでにいえば、精霊の中では、もっともおかしな奴だ」
「『狩人』たちは?」
「あれは……もはやなれの果て、だな」
何の、とは聞けなかった。
「その人たちにはどこに行けば会えるの?」
「この世界の北の果ての街に、その精霊の城がある。そこまで行く必要があるな」
「魔法でこう、ぱっと?」
「生憎、俺の魔力はもうちっと繊細な方に向いててな」
肩を竦めたロイに、足元の獣が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。魔力を持たない獣に言われたくはないだろうが。
「なんならお前さんが運んでくれてもいいんだぞ」
言われた獣は余計なお世話だとでも言うように、ディルに寄り添う。共に来てくれる、という意思表示なのだろう。
「……ありがとう」
ロイはそんな二人の様子を眺めた後、食事を終えると棚から地図を取り出してきた。
「いいか、大分ざっくりだがこれが世界地図だ」
広げられた地図には、大きな大陸が二つと、それに挟まれるように、大きな島が描かれていた。ロイは右側の大陸を指差しながら話し始める。
「こっちが俺たちが今いる第一の大陸。呼び名はいろいろあるが、アルフヘイムと俺は呼んでいるな。で、こっちがミズガルズ、人間たちが暮らしている。どちらも古い神話から取られた名だと聞いてるな。そして、最後があんたが住んでいた第三の世界。ここは特に呼び名がなく、ただ『狭間の世界』とそう呼ばれている」
世界地図を見たことはあったが、こうしてじっくりと見るのは初めてかもしれない。
「ここが俺たちが今いる、ロムソの街だ。で、行かなきゃならないのがこの北の果てのイェネスハイムだ」
「随分遠いね」
「まあな。だが、のんびり歩いてもまあ、二月もあれば着くはずだ。どんなに遅くても秋になる前にはたどり着けるだろうさ」
「気の長い話だね」
「まあ、まだ時間はありそうだし、そう旅を急ぐ必要もないだろうからな」
「急がなくてもいいのかな」
「その呪いに関しちゃ、まあ大丈夫だろう。少なくとも心臓に届くほど広がるまでは、おしゃれな
「ちょっと思ってたけど、ロイは割とふざけてるよね」
「お前さんも大概だと思うがな」
そう言われても、首を傾げる。もともと人とあまり深く関わったことがないから、他人から自分がどう見えているのかもよくわからないのが正直なところだった。
「とりあえずは、せめてその傷が塞がるまでは休んで、それから出発だな。俺もいくつか野暮用を片付けなきゃならんし」
当然のようにそう言う顔を思わずまじまじと見つめる。
「あなたもついてくるの?」
「迷惑か?」
問い返すその顔は何をいまさら、というような表情が浮かんでいる。
「いや……私は助かるけれど、あなたにも生活があるだろう?それにこの街から薬師がいなくなったらみんな困るだろうし」
「薬師は俺だけじゃないし、まあ随分この街にも長く居たからな。久しぶりに旅をするのも悪くない」
ぽかんとしているディルをよそに、黒い獣が低く唸る。視線を向けると、ふいと逸らされた。
「お前は気に入らないの?」
「あんたに近づく奴は誰だって気に入らないんだろうさ、なあ——って呼び名がないのは不便だな。なんかつけてやったらどうだ?」
「そうだね……じゃあ、アル、かな」
本人が聞いたら怒るだろうか、と思わず微笑んだディルに、だが黒い獣は当然だとでも言うように、その身を寄せてきた。
「気に入ったのかな」
「あんた、分かっててやってるわけじゃないんだよな?」
「何のこと?」
ディルと黒い獣を交互に見つめ、何やら感慨深そうな目を向けてくるロイに尋ねたが、彼はやはりそれ以上話そうとはしなかった。
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