10. 沐浴
思ったより腕の傷が深かったことと、失った血が多かったせいか、その日は食事を終えると気がつけばいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。目を覚ますと、相変わらず隣に大きな黒い塊が寝そべっていた。
「おはよう」
声をかけると、挨拶代わりなのか頬を舐めてから、首筋に顔を擦り付けてくる。どうやら匂いを嗅いでいるらしいと気づいて、そういえばこの獣からもほのかに甘い香りがすることに気づいた。
耳の後ろから首筋のあたりに顔を寄せると、獣の体臭にまじって、わずかではあったが、いつかアルヴィードに感じたのと同じ、ほんのりと辛いような甘いような複雑な香りが確かに漂っていた。
「何だろうね。洗ってあげたらもっとはっきりわかるようになるかな?」
獣の毛並みは相変わらず美しいが、よく見れば埃と泥が見え隠れしている。ロイがはじめに寝台に上がるのを拒否したのも当然だろう。
「むしろあの人、優しすぎるくらいだよね」
その身体をあらためながらそう告げると、だが獣は不満げに鼻を鳴らす。
「まあ、親切すぎる気も、しないでもないけどね」
とはいえ、そのことについては、いったん信用すると決めた以上、疑っても仕方がない。それよりは、今はこの目の前の相手だ。
「おいで、お風呂入ろう」
そう声をかけると、ぴくりとその耳がはねた。
「どうしたの?」
何かを迷うように視線を彷徨わせている獣を、いったんそのままにして、部屋を出ると、ロイが食堂のテーブルについてお茶を飲んでいるところだった。
「ロイ」
「おお、よく眠れたか?」
相変わらずその笑顔は屈託がない。
「どれくらい寝てた?」
「まるっと一昼夜だな。まだ術で疲弊した体が回復しきってないみたいだな」
「そんなに……寝台、借りてしまったけど、大丈夫?」
「幸いうちにも寝室はもうひとつあってな」
「誰か前に住んでた?」
「客用だ。一緒に住むならでかい寝台がひとつあれば済む。あんたたちが寝てるような、な」
意味ありげな視線に、なるほど、と頷く。ディル自身はそういう行為を誰かとしたことはなかったが、人間や男女の区別のある人に近い生き物がそういう営みをすることは知識としては知っていた。
「あんたも興味があるなら、俺が手取り足取り優しく教えてやるが——」
どこまで本気なのかわからない顔でそう言った瞬間、悲鳴が上がった。いつの間に寝室から出てきたのやら、アルが噛み付いている。
それにしても、あれほど大きな身体なのに、不思議と気配のしない生き物だ。
「今のところは、まだいいみたい」
「……みたいだな」
噛まれた足を検分しながら、ロイはやれやれとため息をつく。それから奥の部屋を指し示した。
「風呂、沸かしといたから入れそうなら身体を流してきたらどうだ?」
「ああ、ありがとう。ちょうどアルを洗ってあげようと思ってたところだから、一緒に入ってくるよ」
「一緒に?」
「うん」
なぜだかロイは微妙な顔をして、黒い獣を見つめている。
「どうかした?」
「ま、本人がいいなら俺は止めないが……助けが必要なら呼んでくれ」
「そうだね、こいつ大きいし、洗うのも結構大変そうだから、困ったら頼むよ」
それでもどこか微妙な表情をしたままのロイに見送られ、何だか動きの鈍い黒い獣を連れて浴室に入る。服を脱いで身体を流し、浴槽につかると凝っていた何かが溶けていくような気がした。
獣は少し離れたところに座り込んでいる。
「こっちおいで、洗ってあげるから」
声をかけたが、寄ってこない。そういえば野生の獣で風呂好きなものはいないかもしれないとようやく思い当たった。しばらく浴槽からそのまま眺めていたが、動く気配がないのを見てとって、浴槽から上がるとその側に歩み寄った。
「ほら、こっちおいで」
両手で顔を包み込んでそう告げると、不承不承というように立ち上がり、浴槽の脇に立つ。桶に湯をすくい、全身にゆっくりとかけていく。思ったより汚れが流れ出て、その旅の長さを思わせた。
「お前も大変だった?」
石鹸で丁寧に耳の後ろから背中を泡立てて洗ってやると、気持ちよさそうに目を閉じている。だが、腹の辺りに触れようとすると身じろぎして拒否された。
「お腹も汚れてるよ。寝台に上がりたいなら、洗っておかなきゃ」
無理やり腹回りにも手を伸ばすと、腰のあたりに何やら硬い感触がある。それに触れると、獣の前脚が急に伸びてきて、ディルは気がつけば床に組み敷かれていた。その眼差しは鋭い。
「ええと、これが雄の証っていうやつかな?」
尋ねると、獣は呆れたように鼻を鳴らした。
「ごめん、触られたくないよね」
伝説にしか棲まない生き物だと、ロイは言っていた。もしかしたら、彼を残してほとんどが滅んでしまっているのかもしれない。だとしたら、その孤独はディルが抱えているものよりも遥かに深い。
とはいえ、ディル自身は自分が何の種族なのかも未だに知らないのだけれど。
「俺が黒狼の雌だったら、お前の相手をしてあげられたかもしれないけど」
そう言うと、獣はぴくりと耳を立てて、それからディルの喉元に横から喰らい付いた。ほんのわずか、薄く痕がつくほどに。それから、ふいとディルの上から下りてその身を解放する。
「悪かったよ。もうしないから」
身を起こして冷えた身体を温めるために、もう一度浴槽につかる。泡だらけの獣も呼び込むと、今度は遠慮なく入ってきた。盛大に跳ねた湯と泡に、ディルはあとで掃除しないとな、などとのんびりとしたことを考えていた。
ロイがあらかじめ用意してくれていたらしい衣服に着替えて振り返ると、すでに獣は身震いしてほとんどの水気を払っていた。ついでに、唯一ディルが自由に使える水の術を使って残りの露も払っておく。
「さっぱりしたね」
その首筋に顔を寄せると、石鹸の香りに紛れて、やはりほのかに刺激のある甘い匂いが漂っていた。
「本当に、何の匂いなんだろう」
ずっと嗅いでいると頭の芯が痺れるような感覚がある。何度かアルヴィードがディルの匂いを嗅いだときに、急に気配を変えていたことを思い出した。
「まあ、また会えればわかるかな」
そう言って立ち上がる。それがいつになるかはわからなかったけれど。
浴室を出ると、テーブルの上には食事が用意されていた。干し肉と何かのスープに、パンとチーズ。それから果物がいくつか。
「大丈夫だったか?」
開口一番そう問われ、何のことかと首を傾げると、目敏く首の痕を見つけたロイが深いため息をついた。
「まあ、助けが必要なほどの事態にはならなかったってことだな」
「大丈夫だよ、私が少し怒らせてしまっただけだから」
「怒らせた……ねえ?」
ロイはなおも何か言いたげだったが、アルにひと睨みされると両手を上げて首を横に振った。
「あー、はいはい。余計なことは言わねえよ。ディル、とりあえずあんたはしっかり食え。あれだけ血を失ったんだ、食わねえとまた倒れるぞ」
促されるままに椅子に座る。温かいスープは野菜のいい香りがしていた。食べ始めると同時に、ロイは空いた左手を取ってまた傷をあらためる。
「しかしあんた思い切ってやったもんだな。毎回こんなに深い傷をつけてたのか?」
「いや、今回はちょっと……」
口籠ったディルに、ロイは何かに気づいたかのように、わずかに顔をしかめる。痛ましいものでも見るようなその眼差しに、心のどこかが痛いような、それでも暖かいような気がした。
「今は、アルがいてくれるから」
何とかそれだけ言うと、少し離れていたところに座り込んでいた獣が身を寄せてくる。
「本当に、仲の良いこって」
どうしてだか呆れたようにため息をつきながら、手早く薬を塗り、包帯を巻き直す。それから自分もテーブルについて食事をとり始めた。
「食ったら、あっちの寝室で大人しくしてな。その間にあんたらの寝台も掃除しておいてやるから」
「それくらいやるよ。寝てばかりだと、体が萎えてしまいそうだし」
「しかしな……」
「大丈夫だよ」
「無理はするなよ?」
青紫の瞳は、心底気づかうような光を浮かべている。どこまでお人好しなのかと思わず笑みが漏れた。それを見て、ロイは惚けたようにぽかんと口を開ける。
「どうかした?」
「あんた、本当によく……」
そう何かを言いかけたところで、低く唸る声に目を向ければアルが例の如く牙を剥き出しにして威嚇していた。
「相性悪いの?」
「……本当に大概だな」
もはや何度目かのため息をつくロイに首を傾げながらも、食事を終えるとディルは立ち上がる。寝室に向かうと、シーツを剥がしにかかった。確かにそこは細かな黒い毛と、泥と埃でかなり汚れていた。後ろからついてきたアルに、思わずため息をつく。
「次からは風呂入る前に寝台に上がるの禁止だね」
獣は意に介した風もなく、大きな欠伸をしていた。
洗濯物を抱えて近くの川まで歩く。水の気配を探るのはディルにとっては容易いことだったから、まだ朝の気配の残る日の下を迷いなく進んでいく。
川に着くと、あたりに人気がないことを確認して、シーツを川に放り込んだ。それから、一度引き上げて、ロイに渡された何かの粉をふりかけるとごしごしと擦り洗いをしていく。驚くほど汚れが落ちて真っ白になったシーツを見ると、妙な達成感に満たされた。
「こんな生活感にあふれたことするの、どれくらいぶりだろう……」
それから自分の着替えやその他、ロイから預けられたものも洗っていく。「祈りの家」にいた頃とは違って、特に急ぐ必要もないから、のんびりと丁寧に作業に没頭していると、いつの間にか日は高く上っていた。
ふと後ろを振り返ると、いつの間にやってきたものか、黒い獣が身体を伸ばして寝そべっていた。こちらの視線に気づくと、ようやく気づいたのか、とばかりにぱたりと尻尾をひとつ振る。
「いつからいたの?」
尋ねても詮無い問いだとはわかっていたが、その黒い身体は緑の野原に寝そべっていると、いつもと違ってどこか牧歌的な雰囲気を醸し出している。穏やかで、平和なこんな光景は、あの頃は夢にさえ見たことがなかった。
洗い終えた洗濯物をかごに放り込み、しゃがんで軽く水を払う。それまで考えたこともなかったが、思いついてみれば意外と便利な力だと思わず笑みがこぼれた。そんなディルに、黒い獣が歩み寄ってくる。
「どうしたの?」
問いかけると、じっとこちらを探るように見つめてから、首についた痕に舌を這わせた。いつもの労るようなそれとはどこか異なる、ゆっくりとしたその動きに、どうしてだか背筋がぞくりと震えた。
思わずその傷痕を手で覆ったディルを満足げに見やると、黒い獣はどこか機嫌よさげに歩み去っていった。
「何なんだ……?」
首を傾げながらも、その頬が赤く染まっているのを知っているのは、歩み去った獣だけだった。
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