11. Interlude 〜独占欲〜
食事を半ば終えたところで、ディルはまた椅子に座ったまま、ゆらゆらと船を漕ぎ始めた。香草茶の効果もあるのだろうが、そもそもまだ体が眠りを欲しているのだろう。
ロイは、ちらりと足元の獣に視線を送ってから、その身体を抱き上げる。大きな黒い獣はこちらに目を向けて立ち上がったが、牙を剥き出したり唸ったりはしなかった。いちいち機嫌を伺うのは彼の流儀に反したが、何しろ相手が相手だ。信条を貫き通して喉元を喰いちぎられては割に合わない。
内心でため息をつきながら、ディルを抱えたまま主寝室へと向かう。その寝台は今日は本人が手入れをしたお陰でシーツは真っ白、床も磨き上げられている。家事の才能があるとは知らなかったが、軽口を叩く前にその生い立ちを思い出して、口をつぐんだのは正解だったと後から考えた。
寝台にその身を横たわらせたが、目覚める気配はない。顔色は悪くないが、眠りは随分と深そうだった。その寝顔を眺めていると、黒い獣は当然とでも言うように、その隣に潜り込んでいく。
一応抗議の視線を向けたが、当の獣は意に介した風もない。まあ、ディルにきれいに磨き上げてもらっていたから、もはやそれほど反対する理由もなかったのだが。それでも、ディルの首に残る浅い傷痕を見て、何とも言えない気分になる。
目の前の獣は、黒狼というそれはそれは珍しい獣だ。しなやかで強く、精霊さえも打ち倒す力を持っている。だが、彼がディルに話していないもうひとつ大きな性質があった。
「なあ、アル」
話しかけると、黒い獣はいかにも面倒くさそうにこちらに目を向ける。明らかに人語を解し、そのやたらと人間臭い態度に、どうしてディルは疑問を抱かないのだろう。
——黒狼は二形を持つ。狼の姿と、人の姿と。
そして、どちらかと言えば、普段は人の姿をとるのが常だったはずだ。それを思えば、この黒狼の正体は明らかだ。
「お前さん、いつまでそうやってるつもりだ?」
ぴくり、とその耳がはねた。それから、先ほどとは明らかに質の異なる眼差しを向けてくる。それは、ディルが語っていた「こちらを怯えさせるほどの射抜くような眼差し」そのものだ。
「俺が言うのも何だが、ディルはお前を心の底から信頼している。だが、『彼』にもっと会いたがってる」
獣はじっとこちらの話に耳を傾けているように見えた。
治療に際して——
いわゆる「未分化」の状態から、どちらかの性へと分化する種族はそれなりに多いが、永続的に変化するものと、一定期間——いわゆる発情期の間——変化するものと様々だが、いまのところディルの容姿やその他からはどちらなのかは判別できなかった。
だが、分化はおおよそ好意を持つ対象の異性に変化する。本人が意識しているかどうかは別にして、薬師としての視点からみれば、抱き上げると柔らかいその身体と全体的な傾向から、ディルは明らかに女性に傾いている。
「俺は恋愛の
十四歳の、ほとんど愛されたことのない子供が、見知らぬ土地へと一人きりで放り出されて生きていくことは容易ではなかったに違いない。本人は元いたところに比べればだいぶましだと笑って言っていたが、むしろその言葉でロイ自身は胸を締め付けられるような思いがした。
狭間の世界はそれほどに、その子供にとって苛酷な場所だった。そして、ほんのわずかなぬくもりを得たからこそ、その後の孤独な日々がどれほどに辛いものだったかは想像に難くない。
だからこそ、なぜこの黒狼がいつまでもその姿でいるのかが疑問だった。
「何か考えがあってのことなのかもしれんが、人には何よりぬくもりが必要な時がある。お前はその姿でいいと思ってる——わけじゃないだろう?」
ディルの首に残る傷痕は明らかな所有——あるいは独占欲の証だ。
「そこまで執着するのに、人の姿をとらないのは——とらないんじゃない、戻れない、んだな?」
まっすぐに見つめた金の双眸がさらに鋭さを増す。肯定も否定もないが、おそらくはそれが答えだ。
「転移の影響か、あるいは『狩人』の追手を撒くための術なのか、理由はわからんが、お前は人の姿に戻れない。だから、その姿でディルを探し求め、ようやく見つけてここにいる」
ディルがこの世界に飛ばされたのは、イーヴァルという青年が使った転移術だろうが、おそらくは追手を撒くために、術者本人でさえどこに飛ばしたかわからなくしてあったのだろう。そして、この黒い獣も同時に飛ばされた——本来の姿を封じられて。
黒狼は魔力を持たない。この広い世界で、魔力に頼らずたったひとりを見つけるのは砂の中から一粒の金を探し出すようなものだ。だが、この獣はそれをやってのけた。
「愛の力ってやつかねえ……」
感心したように呟いた彼に、だが黒い獣はげんなりしたようにふいと視線を逸らせた。あるいは照れているのかもしれない。
「まあ、何にせよ、早く戻れる術を探すことだな。でないと、ディルが俺に惚れちまうかもしれないぞ?」
半ば冗談だが、半ばはまんざらでもない。日々甲斐甲斐しく世話をしていることについては下心はないつもりだが、それでもあれほど美しい相手に平常心でいられるほど、生憎と彼も枯れてはいないのである。
だが、黒い獣は今度こそ明らかに鼻で笑う気配を見せた。それほど自信があるのだろうか。だが、改めて見れば、その眼差しは、ごく酷薄な光を浮かべている。
「……冗談だよ」
暖かいはずの室内で、どうしてだか背筋が凍る思いをしながら両手を上げて降参する。
——手を出そうとしたら、殺す。
その眼差しの意味するところを、解さないほど、ロイは鈍感ではなかったのである。
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