12. 真意
傷が癒えるのを待つ間、しばらくは穏やかな日々が続いた。黒い獣はディルの側を離れず、必要な時にはいつも的確なタイミングで寄り添ってくる。眠る時には必ず寝台の下か、時には隣に潜り込んできた。ロイはため息をついたが、日に日に明るくなるディルの表情を見ると、それ以上は何も言おうとはしなかった。
そういえば、とディルは思う。その獣が隣で眠るようになってから、夢を見ることが怖くなくなった。時折それでも彼らを夢に見て、目覚める前に歯を食いしばるようなときもあったが、慰めてくれる存在が側にいることで、むしろ素直に泣くことができるようになっていた。かつての自分なら、その弱さに怯えたかもしれないけれど。
その朝も、気づかぬうちに濡れた頬に触れる柔らかい感触で目が覚めた。
「おはよう」
間近にある金の双眸に確かに安堵する自分を自覚して、その首を抱きしめる。先日洗ったばかりのその身体は、獣特有の臭気は薄く、逆にあの甘さの中にわずかに辛さの混じる不可思議な匂いが強く漂っている。
寝転んだまま、その首を抱きしめてその匂いを嗅いでいると、どうにも頭の芯が痺れるような感覚に襲われる。獣も何かを感じたのか、少し身を起こすと、しばらくディルを見下ろし、それから首についた痕にゆっくりと舌を這わせてくる。いつかもされたその行為に、どうしてだか体がびくりと震えた。
いっそう甘い香りが強くなり、思わずディルは目を閉じた。だがすぐに、ふっとのしかかっていた重みが消えたのを感じて目を開けると、黒い獣が部屋を出ていく後ろ姿が見えた。
「おい、大丈夫か?」
入れ替わるように部屋に入ってきたロイが怪訝そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「えっと……」
「なんかえらい気配でアルが出て行ったが……」
「何だろう、首を舐められたら、なんだか変な感じがして、思わず目を閉じたら出ていっちゃった。何か怒らせたのかな?」
首を傾げたディルに、ロイは片手で顔を覆って天を仰いだ。
「天然にもほどがあるだろ」
「どういうこと?」
「こっちの話だ。とりあえずは、あんまりあいつを誘惑してやるなよ」
「何それ?」
ロイは肩を竦めるばかりで、それ以上はその話題については触れようとはしなかった。それより、と続ける。
「腕を診てもいいか?」
頷いて左腕を差し出す。ロイは椅子を引き寄せて寝台の前に座ると、手早く包帯を外していく。あれから十日ほど、かなり深い裂傷は、それでも思ったより綺麗に塞がってきている。
「これなら、あまり痕も目立たないだろう」
「ロイの薬のおかげ?」
「まあな。だが、あんたもできれば二度とやるなよ。綺麗な腕に、こんな傷痕はもったいねえ」
ロイは不意にディルの手首のあたりに口づけながらそう言う。青紫の瞳には、いつもと違う光が浮かんでいるように見えたが、ディルは首を傾げる。
「何で?」
「……滅多にない
「何だかよくわからないけど、呪いの証に口をつけるのは、あんまりおすすめできない気がするよ?」
「確かにな」
何やら深いため息をついて立ち上がると、ロイはそういえば、と改めて続ける。
「傷もぼちぼち塞がったし、俺の方も大体落ち着いた。あんたに異論がなけりゃ、明日には発とうと思うがどうだ?」
「大丈夫だよ。特に荷物もないし」
「あんたは旅慣れてそうだしな」
「むしろ、旅しかしていないからね」
旅ばかりしていたのは、落ち着く場所を持たなかったせいだ。時折、一夜の宿を請うた時に、身寄りのないその身の上に感づいて、しばらく滞在するように声をかけてくれる親切な家族もいなかったわけではない。けれども、ディルにとってこの世界はどこまでも異邦だった。
最初の数週間でこの世界の広さを知って、一度は途方に暮れた。それに、ここは元いた場所に比べれば、人々は暖かく、生きていく道を探すのも容易だった。それでも、そこで安逸な日々を送ろうとは、どうしても思えなかった。
だが、ロイはどうしてだか困ったような、傷ついたような顔をする。
「すまねえな」
「ロイ?」
「いや、こっちの話」
それでも、ぽんぽんとディルの頭を撫でた時には、いつも通りの笑みを浮かべていた。
「ロイって、もしかして秘密が多い?」
「その方がイイ男っぽいだろ?」
「それって普通女の人じゃない?」
ロイはやはりただ笑うばかりで、それ以上は話そうとはしなかった。
「俺は最後の往診と道中の諸々の仕入れをしてくる。夜には戻るから、それまでのんびり過ごしておいてくれ」
「わかった」
「じゃあ、また夜にな」
それだけ言うと、ロイは笑って出て行った。
その背を見送って、ディルも着替えて食事を済ませると、外へ出る。春の光は暖かく、あちこちに咲く花は色とりどりで美しい。
歩きながら、この先の旅について考える。ロイは北の果てへ行き、この呪いを解いてもらうと言っていた。だが、具体的にどうやって説得するのかも曖昧なままだ。彼自身は信頼に値するとは思うが、先ほどの会話からしても、嘘はついていないまでも秘密は多そうだった。
「信じてないわけじゃ、ないんだけどね」
ディルはほんのわずか苦笑して、近くの林の中に数日前から隠しておいた荷物を取り出す。
しばらくそのまま歩き、高い丘に出たところでフードを取り、振り返って街を見下ろした。大きな街は旅人が一人が来て、そして去って行っても変わりはない。あの時、あの酒場で彼に出会わなければ、何かが変わっていただろうか。
「自分でも、何でだかよくわからないんだけれどね」
呟きながら振り返ると、そこにはごく当然だというように、黒い獣の大きな姿があった。
「怒って、出て行ったんじゃなかったの?」
何が気に入らなかったのかはわからないけれど。獣は応えず、ただじっとこちらを見つめている。
「何か怒らせたのなら、悪かった。でも、行かないと」
ディルは手首に刻まれた黒い蛇のような文様に目を落とす。いずれにしてもこれをどうにかしなければ、いつまで彼らを待てるかさえもわからない。
不意に黒い獣がその手首に噛み付いた。食い込んだ牙の隙間から、血が溢れ出す。
「アル……?」
金の眼差しはいつになく険しい光を浮かべているように見えた。痛みよりも、驚きの方が強くて、ただその場に跪き、右手でその顔に触れる。
「これのことを怒ってるの?」
金の双眸をまっすぐに見据えると、その気配と顎が緩んだ。
「たぶん、この腕を食いちぎっても、呪いは解けないと思うよ?」
そう言ってもう一度顔を撫でると、ようやく顎が手首から外れる。まさかとは思うが、本当にそんなことを考えていたのだろうか。
「俺も大概だけど、アルもなかなかだよね」
そういうところは、たぶん彼とよく似ている。
「後先考えずに、衝動で行動する」
ぴくりとその耳が跳ねる。それから心外だと言うように睨みつけられた。
「でも、優しい。あの人と同じだ」
両手でその顔を掴んでくしゃくしゃと撫でる。それから額を付き合わせた。
「俺が選んだんだよ。あの人を失いたくなかった。たとえ自分がどうなっても……」
あの時、他に選択肢がないとわかっても、あの場で彼を失うことだけは耐えられないと思った。というよりは、彼を目の前で失うよりは、自分が消えてしまう方が遥かにましだと思った。自分の命など、そもそも大して惜しんだこともなかったから。
「だって、一番最初に俺に手を差し伸べてくれたのは、
もし、最初に会ったあの場にアルヴィードが踏み込まなければ、きっとディルはあの少年たちに容赦無く蹂躙され、そして打ち捨てられていただろう。さすがにそれを受け流して何事もなく生きていけたとは思えない。
「と言っても、面倒事に引き込んだのも彼なんだけど」
だから、と笑って続ける。
「もう一度会えたら、やっぱり恨み言の一つや二つ、言ってやりたいよね。それから」
——抱きしめて欲しい。
どうしてだか、自分でも予想してなかった言葉が口からこぼれた。傍らの獣が驚いたようにびくりと身を震わせた。
「何でだろうね。あの人に抱きしめられると、いつも力が強すぎて痛いのに——それでも」
いつだって無茶苦茶だったその行動が、いまはただ懐かしい。同時にいつも冷静だが、それでも暖かく見守ってくれていた藍色の瞳と、優しい抱擁をも思い出して、こみ上げてくる何かをぐっと堪える。そうして、何とか黒い獣に笑って見せる。
「今は、でもお前がいてくれるから」
噛まれた傷はそれほど深くなかったので、水で流して清潔な布で止血して巻いておく。黒い獣は詫びの印なのか、少しきまりが悪そうにその身をすり寄せてくる。
「いきなり食いちぎられなくてよかったよ」
きっと、この獣ならきっとそれも可能だったろうから。
ともかくもその頭を撫でて歩き出す。急ぐ旅ではないし、この連れと一緒だから街にも寄れそうにない。のんびりと人気のない道を選んで、野宿をしながら進んでいくことになる。それでも一人の旅よりは、よほど心穏やかに進めるだろう。
「さあ、行こうか」
ひとまずは、彼らを待つためにも——北へ。
だが、丘を越えて、次の森に入り、日が傾き始めた頃に泉の気配を感じて休息を取ろうとそこにたどり着いた時、泉の脇で石に座り込んでいる人影を見て、ディルは比喩でなくあんぐりと口を開けた。
「よう」
旅装束に身を包み、こちらを見上げている顔は、いたずらに成功した子供のように面白そうに笑っている。
「ロイ……どうしてここに?」
「俺を撒けると思ったか?」
ニヤリと笑ってから、よっこらせ、とやけに年寄じみた台詞と共に立ち上がり、近づいてくる。隣の獣が低く唸り声を上げた。
「そんなに威嚇するなよ。邪魔しにきたわけじゃない」
それから目敏くディルの左手首に新しく巻かれた包帯に目を止める。
「もう傷が増えたのか?」
その言葉に、黒い獣がふいと視線を逸らせた。ロイはその様子に首を傾げながらもディルの正面に立つ。そうして近くに改めて立つと、背が高い。その眼は、さすがにいつもよりはやや複雑な色を浮かべている。
「俺が、信用できなかったか?」
「そうじゃない」
「なら、何で置いて行こうとした?」
まっすぐに見据えてくる眼差しは、いつになく強い。隣でアルが唸っていなければ、肩をつかんで詰め寄られているところだろう。だが、それこそが、ディルが彼を置いて行こうとした理由のひとつだ。
ため息をついて、ディルは口を開く。
「あなたのことは信用してる。でも人は、私のこの容姿に惹かれるみたいだ——私にそんな気がなくても。人は勝手に好意を寄せて、そして拒絶すると不機嫌に去っていくか、ひどい時は襲いかかってくる」
姿が子供から大人に近づいた頃から、ほぼそんなことを繰り返している。元いた場所に比べれば、治安はだいぶ良いが、それでも人に関わると、年を経るにつれ厄介事はますます増える一方だった。
「……あー」
それを聞いて、ロイは複雑な表情で額を押さえた。それから、きまり悪げに頭をかいてため息をつく。急にまるまった背中が叱られた子供のようで、ディルは思わず口元を緩めたが、それでも言葉を続ける。
「今朝、私の手首に口づけたのも、あれは、そういう意味だろう?」
「気づいてたのか……まあ、そりゃそうだよな。悪かった」
「謝ってもらうようなことじゃない。ロイには本当に世話になったから。でも、だからこそ、そのまま別れた方がいいと思ったんだ。そんな風に求められても、私は応えられない」
「なぜ、と訊いてもいいか?」
「だって、私は男でも女でもない」
当然のことだと、そう言ったが、ロイは納得しかねるというように首を振る。
「今はまだ、な。だが、俺の見立てじゃあんたが分化するのはそう遠い先じゃない。それに、未分化の時期を持つ種族は、むしろ分化する前に相手を選ぶ方が多い」
「そう……なの?」
「そりゃそうだ。相手に合わせて変化する方が効率がいいだろう?」
「効率って」
何とも色気のない話だ。
「突き詰めればな。だがまあ、あんたの場合は、どっちかっていうともう——」
言いながら、ちらりと黒い獣の方に視線を向ける。向けられた方はどうしてだかふいと視線を逸らせている。それを見て、ロイはもう一度深いため息をついた。
「まあ、あんたの言いたいことはわかった。俺の人柄は信用してくれているが、男としての俺は信用できない、ってそういうことだな?」
身も蓋もない言い方だ。
「男か女かは、あんまり関係ないけどね」
どちらかといえば、人の執着心が怖い、というのが本音だった。
「とりあえず、いっぺん思い切って俺に抱かれてみるってのはどうだ?」
ロイがそう言った瞬間、黒い獣が完全に殺気を放ったのを感じて慌ててその首を抱きしめる。
「……アル?」
黒い獣はディルの腕の中で、ぴくりとも身動きしないが、じっとロイを睨み据えている。静かな分、逆に恐ろしい。どこかで覚えのあるその気配に、どうしてだかふと笑みがもれた。
「お前がいれば、この人がいても安心だね」
その言葉に、ロイが片眉を上げて意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「だって、そのつもりで来てくれたんだろう?」
その姿はどう見ても旅装束だし、荷も整えてあるように見えた。それにしても、いつどうして気づいたのだろう。その疑問に気づいたのか、ロイは事もなげに言う。
「言っただろう、俺の力はもう少し繊細な方に向いてるって。
「厄介事に巻き込まれるって見えなかった?」
「見えたな」
ディルの問いに、どうしてだかロイは不敵に笑う。
「だが、あんたについてくのは、俺にも俺なりの理由があるんだよ。だからまあ、一緒に連れて行ってもらえないか?」
「その理由っていうのを話す気はない?」
「今のところはな」
そればかりはどうにも譲らない気らしい。
「なあ、ディル」
そう言ってこちらを見下ろしてくる眼差しには真剣な光が浮かんでいる。
「ひとつだけ今言えることがあるとすれば、あんたが受けたその呪いの責任の一端は、俺にある。だから、俺はその負債を返しに行く必要がある」
「負債?」
思わずまじまじとその顔を見つめていると、不意に両手で顔を捉えられた。そのままロイの顔が間近に迫り、わずかに開いた唇が重なる。その隙間から入り込んでくる、生暖かい感触はどちらかといえば不快なのに、ぞくりと背中が震えて足から力が抜けていく。
崩れ落ちそうになった腰に手を回され、抱きしめられるとどうしてだか目眩がした。
「本当に、隙だらけだな、あんた」
低い声で囁くその表情は、先ほどまでのお人好しの顔からは想像もつかないほど、危険な匂いがした。そして、黒い獣の殺気が近づいたと思った瞬間、ロイは左手でディルを抱いたまま、右手で腰に帯びていた剣を抜いて一閃する。
獣はとっさに飛び退ったが、その黒い毛が何本か宙に舞った。
「お前さんもな、本気で守る気ならいい加減さっさと己を取り戻せ。さもないと、俺がもらっちまうぞ」
その眼差しに浮かぶ光は面白そうな、どこか冷酷さを含むそれで、なぜだかアルヴィードを思い起こさせた。
「……やっぱり似てる、かも」
「惚れたか?」
「絶対ない」
即答すると、ロイは意外そうに眉を上げた。
「あんたはそういうのが好みなのかと思ったが」
「嘘つきは嫌いだ」
そう言うと、ロイは目を丸くして、それからごく楽しそうに笑い始めた。子供扱いされたようで、なんだか面白くない。ディルが身じろぎすると、だが、思いの外力強い腕に阻まれる。
「嘘じゃないさ。長く生きてるとな、使い分けられるようになるだけだ」
「どっちが素?」
「さて、どっちだろうな」
「どっちでもいいから、離して」
まっすぐにその青紫の瞳を睨み据えてそう言うと、今度はあっさりと腕を解いた。すかさず黒い獣が二人の間に立ちはだかる。
「健気だな」
面白がるような声に、アルの気配がさらに尖ったが、やはり相手は気にした風もない。
「やっぱりさっきのなし。アルと二人で行く」
「好きにするといいさ。俺も好きにさせてもらう」
その眼差しはどう見てもお人好しからは程遠いほどに鋭く、面白がる表情を浮かべていた。
どうにも厄介な相手に引っかかってしまったらしいと後悔しても、どうやらもう手遅れだった。珍しくげんなりした顔をしている黒い獣の首に腕を回して、ディルは深いため息をついたのだった。
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