6. 困惑
頬に当たる硬い感触で、ふと意識が浮上する。目を閉じたままでも肌に触れる布は心地よかったが、嗅いだことのない香りがする。「祈りの家」には基本的に必要最小限の物しかなく、せいぜいが春先に窓の外から花の香りがするくらいだったのに、少し甘さと辛さが絡み合ったような、香辛料のようなこの香りは何だろうか。
ゆっくりと重い瞼を開くと、目の前に男の顔があった。黒い髪に縁取られた精悍なその造作と、何より印象的な金の双眸には確かに見覚えがあったが、その頬にも額にも新しい傷が増えている。さらに、男は上半身には何も身に着けておらず、気がつけば、頬に触れる硬い感触はその男の逞しく引き締まった腕枕だった。
あまりの情報量の多さに、ディルの頭はそれらを処理することを拒否し、そのままもう一度目を閉じる。
「おい、せっかく起きたのに寝るなよ」
そう言う声は、低くどこか面白そうな響きを宿している。それでも厄介事の予感しかしないこの状況をなんとか先延ばししたくて、ディルは目を閉じたまま男に背を向けた。だが、寝台は思いの外狭かったようで、そのまま転げ落ちそうになる。声を上げる間も無く、力強い腕に引き寄せられた。反射的に目を開くと、間近で鋭い金の瞳がこちらを見つめていた。その眼に浮かぶ光はやはりどこか不穏で、わけもなく腰が引ける。だが、相手はそんな様子には構わず、まじまじとディルの瞳を見つめ、首を傾げた。
「お前の眼、そんな色だったか?」
「……もう朝?」
「明け方くらいだが、それがどうかしたか?」
ならば、今のディルの瞳はその空の色を映して紫紺か、あるいは薔薇色に染まっているはずだ。どちらだろうか、とぼんやり考えていると、男は妙に納得したように一人頷く。
「もしかして、空の色と同じように変わるのか? だからそんな色なんだな。やっぱり面白いな、お前」
そう言って、両手で頬を包むようにして引き寄せられる。不穏なはずの金の瞳は、それでも今までディルが向けられたことのない、不可思議な色の光を浮かべている。見る者が見れば、それは途方もなく甘い眼差しなのだが、ディルはそんなことを知る由もなかった。
ぼんやりしているうちに、その顔がさらに近づき、距離がゼロになった。その意味が理解できず、重ねられた唇から何かが押し入ってくる感覚にぞくりと背筋が震える。しばらくそのままどうしたものかもわからずぼんやりしていると、唇が離れた後、相手の眼差しがさらに一段危険なものに変わった気がした。
「お前……」
「いい加減にしろ、この変態!」
割って入った声は、のしかかっていた男を蹴り飛ばすと、唖然としているディルをそのまま抱き上げた。
「手は出さないんじゃなかったのか⁈」
「出してねえし」
「自分の下半身見てから言え、この変態が」
ディルを抱き上げた青年は、寝台の上の男に険しい眼差しを向けている。状況が掴めないながらも、その腕の中はどこか安心できる気がした。そうして、その名前をようやく思い出す。
「イーヴァル……?」
「気分は?」
尋ねる眼差しはまだ険しかったが、どうやらその険しさ自体は自分に向けられたものではないらしいと理解し、こくりと頷いた。
「……大丈夫……だと、思う。……ここ、どこ?」
「俺の家だ」
「あの人は?」
半裸で寝台に起き上がり、こちらを不機嫌そうに見つめる男を見やってそう尋ねると、イーヴァルはほんのわずか、表情を緩める。
「うちの居候だ。覚えてないのか?」
「ええと、アル?」
「アルヴィード、だ」
寝台の上から低い声が不機嫌さを隠そうともせずに、それでもそう答える。その金の双眸はやはり剣呑な光を浮かべていて、思わずディルはイーヴァルの首に腕を回してしがみついた。それを見て、さらにアルヴィードの表情が険しくなる。
「何でそいつにしがみつくんだ」
「お前が脅すからだろう」
「はあ⁉」
「無自覚かよ」
ため息をつくその青年の腕の中で、ディルはようやく自分が大きなシャツ一枚のみを羽織った姿だと気づいた。
「何で?」
「覚えていないのか?」
問われ、記憶を探る。思い出したのは、目眩がするほどの血の匂いと、全身にまとわりつくその血の海だった。さらに、そこから引き出された自分の不可思議な力を思い出して、ぞくりと背筋が震える。人の命から流れ出たモノを使って行われたそれが、どれほどおぞましいものか、知識がなくとも本能が教えていた。
「着替えるか?」
震えた理由をどう取ったのか、そう尋ねたイーヴァルに、ただ頷くと彼はディルを抱いたまま部屋を出る。もう一つの寝室らしい部屋に入ると、そっとその寝台の上にディルを下ろした。
「お前に合う丈のものなんてないからな。とりあえずこれを着ておけ」
それは長めの上着だったが、ディルにはちょうどよい長衣になった。手渡された紐で腰のあたりを絞る。柔らかな生地はとても肌触りがよかった。青年を見上げると、藍色の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。その瞳は穏やかで、そんな眼差しを向けられたことのないディルとしては、どうにも居心地が悪い。
「どうして……?」
「何がだ?」
問い返され、どこから訊いたものかと考え込む。あまりにも多くのことが起こった。そのどれもが、現実とは思えないほどに苛酷で、思い出すだけで体が震える。
元々、ディルの生活は穏やかなものからは程遠かった。「祈りの家」と学び舎のおかげで飢えることだけはなかったが、暴力にさらされることは少なくなく、誰もそこから救ってはくれなかった。ディルは常に独りでそれらと対峙するか、逃げるしかなかった。
——自分に向けられる暖かい眼差しなど知らない。
ただ戸惑うディルに、側に立つ青年が何か言おうとしたところで、乱暴に扉が開いた。眼を向ければ、少なくとも上着を着た男がこちらを見下ろしていた。改めて見ると、その長身は鋼のように引き締まり、やや乱れた黒い髪に包まれた顔は精悍で端正だ。その大きな体に見合わず、動きはしなやかで足音をさせない。そのまま寝台に歩み寄ると、ディルの隣に腰を下ろした。その眼差しの強さに、思わず寝台の上で後ずさる。
「何で逃げるんだよ?」
「……怖い」
「何だと⁈」
「それに……何で隣で寝てたんだ?」
「そりゃ、この家には寝台が二つしかないし、お前は三日も寝たままだったからな」
「言わせてもらえば、あの寝台は俺のだし、お前が手は出さないからと誓って、わざわざ俺の寝室を占拠した上で、こいつの隣で寝てただけのはずだがな?」
「だから、手は出してないだろ?」
悪びれずに言う表情には屈託がない。その瞳に浮かぶ強い光はそれでもディルを怯ませるが、それを別にすればこの家に漂う雰囲気は平穏そのものだ。
「どうして、俺はここにいるの?」
ぽつりと呟くと、男たちが顔を見合わせる。意外なことを訊かれた、というように。イーヴァルがアルヴィードに視線を向けたが、彼はただ肩を竦めている。やれやれとため息をついてから、まっすぐにその藍色の瞳をディルに向けた。
「お前が助けてくれと言ったんだろう?」
当然だろうとばかりのその言葉に、心臓を掴まれたような感覚がした。それはずっと欲しかった言葉で、けれども一度も得られたことのなかったものだった。
「でも、今までは誰も助けてなんかくれなかった」
俯いたままそう呟くと、深いため息が落ちてくる。
「今まではお前の人を見る目が無かっただけだ」
見上げると、藍色の瞳も、金の双眸もどちらもディルが今まで見たことがないような光を浮かべていた。その言葉と、それ以上に率直なその眼差しに、どうしてだか唐突に涙が溢れた。あとからあとからとめどなく流れるそれに、アルヴィードがぎょっとしたように眼を見開く。
それを見たイーヴァルがちらりとアルヴィードに視線を向けて、低く呟くのが聞こえた。
「今だぞ?」
「何がだ?」
「鈍感かよ」
それでも動かない相棒に呆れたような眼差しを向けて、イーヴァルは寝台に近づくと、ディルを抱き寄せた。小さな子供にするようにその頭を抱え、背中を撫でる。こんなにも誰かの温もりを近くに感じるのは生まれて初めてだった。その行為は、さらにディルの心を動揺させ、涙を溢れさせる。それを確かに心地よく感じながらも、どこか疑念は拭えない。
この世界はそれほどまでにディルにとっては冷たく、残酷だったはずだった。
そんな想いを感じ取ったのか、見上げると青年は苦笑を浮かべていた。だが、その意味を探る前にぐいと、もう一人の男が割って入る。
「おい、代われ」
「……ガキか」
呆れたようなイーヴァルの声にも構わず、アルヴィードはその腕できつくディルを抱き寄せる。鍛えた鋼のような体は逞しく、細いディルの体とは比べるべくもない。その強引だが率直に想いを伝えてくる抱擁に、どこか安心する自分を自覚しながらも、ディルは眉をしかめた。
「痛い」
「イーヴァルの時は文句言わねえのに」
「本当に馬鹿か、お前」
心底不満そうに言った声に、呆れたようなため息が重なった。その声と表情に、ディルは、まだ頬も乾いていないのに、どうしてだか微笑んでいた。
「ま、そんなことはともかく、とりあえず、飯にするか」
アルヴィードのその言葉にふと窓を見れば、いつの間にか夜は明けており、黄金色の朝日が差し込んでいる。ともかくも自分を包み込む腕から抜け出そうと身じろぎしたが、体格の差は如何ともし難く、びくともしない。
「離して」
「何でだよ?」
しかも、同じ言語を話しているはずなのに、意思が全く通じない。
「朝ごはんにするなら、手伝う」
「誰かさんと違って感心だな」
見上げれば、優しげな光を浮かべる藍色の瞳と柔らかい笑みに、どうしてだか心臓が締め付けられるような気がした。「祈りの家」では食事の支度は当然のようにそこで暮らす子供たちの役割であり、特段褒められるようなことではなかった。何かを失敗すれば他の子供たちから小突かれ、むしろ何も問題がなくとも理不尽に食事を抜かれたりした。
また不意に涙が溢れそうになり、そんな自分に驚く。涙など、あまりの痛みに耐えきれずに流すことくらいしかなかったはずなのに。泣くということはそれ自体弱みを見せることであり、弱みを見せるということは、この世界では虐げられることに直結する。
それでも堪えきれず、一筋こぼれたそれをすくうように、自分を抱く大きな手が頬に触れる。
「何で泣くんだ?」
「情緒ゼロかよ」
呆れたような声に、ディルを抱く腕に力がこもる。どうやらイーヴァルのその一言で機嫌を損ねたらしく、視線を向ければ、鋭い眼差しがこちらを睨みつけている。思わずびくりと身を震わせたディルを見て、もう一度、相棒の青年がため息をつく。
「その凶悪な面を何とかしろ。それからいい加減離してやれ」
「けどなあ」
「何か気になることでもあるのか?」
イーヴァルがそう問うと、アルヴィードはしばらく何かを考え込むように黙り込んでから、不意にディルの首筋にその顔を埋めた。
「何やってんだ、この変態が!」
「違ぇよ。なんかこういい匂いがするんだよな、こいつ」
「匂い?」
「なんつーかなあ、いろいろ混ざったような……」
「甘いのと辛いのが混ざった、みたいな?」
思わずそう口を挟むと、ああ、それだ、と手を打つ。
「何でわかったんだ?」
「あなたがつけてる香水じゃないの?」
密着する体から、確かにそんな香りが漂っている。
「こいつが香水なんてつけるとは思えないが。獣だし」
獣とは何のことだろうと首を傾げながらも、腕が緩んだのをこれ幸いと抜け出し、ついでに匂いの元をたどってみる。
首筋のあたりに顔を寄せると、わずかに刺激が混じる甘い香りが鼻をついた。
「このあたり、匂うよ?」
肩に手をかけてさらに唇が触れるほどに顔を近づけると、ぐいと強く手首を掴まれた。見れば、こちらに向けられる眼差しは先ほどの比ではなく、ディルを怯えさせるほどに強い光を浮かべている。そのまま、また抱きすくめられそうになって、だが、イーヴァルがひょいとディルの体を抱え上げた。
「いい加減にしろ、この野獣が」
「邪魔するな、イーヴァル」
ごく低い声で言ったその金の双眸は、凶暴な怒りにも似た色を見せている。だが、イーヴァルは意に介した風もなく、そのまま部屋の端まで歩くと、扉の前でディルを下ろした。それから振り向いて、まっすぐにアルヴィードを見つめる。
「お前だってちゃんとわかっているんだろう、まだ早いって」
その言葉を聞いて、黒い獣のような男は、それでもまだしばらくその眼に強い光を浮かべていたが、やがてふっとその空気が緩んだ。
それを確認したイーヴァルに背を押され、ディルも一緒にそっと部屋の外に出た。
水を汲み、湯を沸かしている間に食材を切り、炒めてから沸いた湯に投入してスープを作る。戸棚にあったパンを軽く火で炙って食卓に並べ、それから最後に柔らかく戻した干し肉と卵を炒めて葉物と一緒に皿に盛ると、それらしい朝食が出来上がった。
「手際がいいな」
イーヴァルが感心したように言って、頭を撫でる。その優しい眼差しも手つきも、ディルからするとやはり何だか居心地が悪い。
「普通、だと思う」
「普通の基準が高いのはいいことだ」
言って椅子に座る。ちらりと先ほど出てきた寝室の方に目をやると、その視線に気づいたのか、片眉を上げた。
「気になるか?」
「あの人、いつもあんな感じなの?」
「あんな感じ?」
「……怖いのとか、くっついてくるのとか」
どうにも言葉が出てこないのは、昏睡が続いた影響だろうか。小さな子供のような言い草に自分でも呆れたが、イーヴァルも盛大に吹き出した。とりあえず座れ、とディルを促してから、食事に手をつける。
「『怖い』のはまあ普段通りだが、あんな風に誰かに執着するのは、ほとんど見たことがないな」
「そうなの?」
促されるままにディルも食事に手をつけながら首を傾げると、イーヴァルは肩を竦めてこちらを見つめる。
「あいつほど自分本位な奴は見たことがない。やりたいようにやるし、他人への関心も薄い。それに、お前も見たはずだ」
——あの男がどれほどたやすく人を殺すか。
暖かいはずの部屋の中が、急激に冷えたような気がした。あの惨状は夢ではない。
「あそこにいた人たちは……?」
「俺たちの仲間として入った連中は全員死んでたな。あいつが始末したんだろう」
平然と言われたその言葉は、けれどディルの胸に鉛のような塊を落とす。
「どう……して……」
「警備の連中に見つかった時点で全員が無事に逃げるのは不可能だったろう。一人でも捕まれば足がつく。ならば、始末した方が安全だ」
「そんな……」
蒼ざめたディルに、青年は冷ややかな眼差しを向ける。
「だから、やめておけと言っただろう。銃も、お前が使った血の禁呪も、他者を傷つけ、殺すためのものだ。その覚悟がないなら手を出すな」
言って、食事を再開する。だが、ディルは到底続ける気にはなれなかった。
——覚悟とは一体何だろう。
人を殺す覚悟があったかと言われれば、否だ。だが、だからと言ってディルには銃を受け取る資格もない、身を守る術を手に入れることさえ許されないというのなら、それは無為に虐げられること受け容れろというのと同義だ。
暖かく見えた家が急に灰色の檻のように見える。目の前の青年は確かにディルを助けてくれたが、それが気まぐれでないと誰が言えるだろうか——親にさえ生まれてすぐに遺棄されたというのに。
自ら身を守る術を持たないままなら、結局それはルドウィグの従者となることと、そう変わりはないようにさえ思える。
それでも、誰かに自分の運命を支配されるのは、絶対に嫌だと心が叫ぶ。気がつけば、勝手に言葉が口から溢れていた。
「イーヴァルには絶対にわからない。俺にとって、それがどんなに必要だったかなんて!」
叫んで部屋を飛び出した。後ろから青年の慌てたような声が聞こえたが、ディルは振り返らず、森の中へと駆け込んだ。
どれくらい走ったのか、見慣れぬ森は深く、そして異様なほどに静かだった。ついにはもう走れないほどに息が上がって、ふと目を上げれば、すぐそばに渾々と湧く泉があった。清らかなその水を眺めているうちに、頭に上っていた血が静かに引いていく。
泉の脇にぺたりと座り込むと、もうそれ以上動けなくなった。泉の周囲は高い木々に囲まれ、空は遠い。静寂につつまれてとても美しく、そして孤独な場所だった。
愚かなことをした、という自覚はある。イーヴァルは、そもそもの初めからディルを気遣い、あの惨状の中からさえ救い出してくれた。何の縁もない子供に、何の見返りも求めず。ディルを思うからこその突き放すような言葉だと、頭ではわかっている。
——これは運命なのだと、自分は救われたのだと、そんな風に単純に信じることができればいいのに。
小さな子供のように膝を抱えて俯き、何とか堪えようとしたが、どうしても堪えきれず嗚咽が洩れた。信じることができない自分も、信じなかったくせに失われたかもしれないという後悔も、あらゆる感情がないまぜになって、嵐のようにディルを襲う。
そのせいだろうか、その大きな生き物の忍び寄る気配に気づけなかったのは。
ふと、頬に何かが触れた。湿ったそれは、けれど暖かく、流れ落ちるディルの涙を優しく舐めとっていく。驚いて顔を上げると、大きな黒い獣がこちらを静かに見つめていた。その毛並みは朝露に濡れ、木漏れ日を受けて、しっとりと輝いている。
驚きに目を見張ったまま動けないディルを、獣は襲うでもなく、今度は反対側の頬を舐める。その顎の奥には鋭い牙が見えたが、不思議と恐ろしいとは感じなかった。その瞳が、昨日から何度も見た男のそれによく似た色なのに、そこに浮かぶ光がひどく穏やかに見えるせいかもしれない。
「アルヴィード……? なわけないか」
呟くと、ぴくりとその耳が動いた。けれど、それ以上は特に反応せず、ディルの脇に身を寄せて座り込む。尖った耳に、鋭い爪。胴回りはディルが両手でも抱えられぬほどに大きい。
静かなその眼差しと、美しい毛並みに惹かれて、しばらくじっとその眼を見つめる。それでも動く気配がないのを見てとって、ディルはその背中にそっと手を伸ばした。撫でてみると、その手触りは思ったよりも柔らかい。獣は嫌がるそぶりも見せず、ただされるがままになっている。どうやら危害を加える気はなさそうだとわかると、その暖かな毛並みにもっと触れたいと思った。
「もう少し触ってもいい?」
言葉がわかるとも思えなかったが、そう尋ねると、獣はふいと身をおこしてその距離を近づけた。その背中から首に腕を回して抱きつくと、ただただ暖かく柔らかい。獣が驚いたように少し身をよじったが、視線を合わせると、ややしてそのまま身を伏せた。共寝するように寄り添うと、泣いて疲れた体にその温もりはとても心地よかった。
「俺にも、お前みたいな牙や爪があればいいのに」
そう呟くと、獣はわずかに頭を上げてこちらを見やる。
「そうしたら、誰かに守ってもらわなくても、一人で生きていける。一人じゃなくても、誰かに捨てられることに怯えなくて済むのに」
その毛並みに頬を預けたまま、ぽつりぽつりと続ける。
「俺、生まれてすぐに捨てられてたんだって。『祈りの家』は孤児や育てられなくなった子供を預かるための場所だけど、俺みたいに完全に何の手がかりもなく捨てられてる子供は珍しいって言ってた」
それは、明らかに遺棄だったとしか思えない。ならば生まなければよかったのに。そう詰る相手さえわからぬままだ。
何の手がかりもなく捨て置かれたから、ディルは自分の種族が何なのかも知らない。性別さえ曖昧なままで、わかっているのは、わずかながらも魔力があること、そしてほんの少しだけ水を操ることができること。身体的な特徴だけなら、限りなく人間に近いが、空の色と合わせるかのように次々と色を変える瞳が、ただの人間ではないことを示していた。とはいえ、自然に干渉することのできる種族はそれこそごまんといる。それだけでは何の手掛かりにもならないと誰もが言った。
結局のところ、ディルは自分が何者なのかさえ知らず、先の未来も期待が持てない。
「いくら鍛えてもろくに筋肉もつかないし、
容姿ばかりは美しいと、それだけは揶揄するように常に言われ続けてきた。だが、そう言ったとたんに、黒い獣が抗議するように低い唸り声を上げた。
「反対なの?」
問いかけると、獣はまたぺろりとディルの頬を舐める。それから首筋にその顔をこすりつけた。
「お前は優しいね」
相手が獣なればこそ、警戒することもなくそんな言葉が洩れた。人は怖い。甘えて期待してしまうから。けれど、この黒い獣になら少しくらい甘えてもいい気がした。ぺたりとそのまま獣の柔らかな首に頭を預けると、とろとろとした眠気が襲ってくる。
「少しだけ……眠ってもいい?」
すでに半ば意識を手放しながらそう尋ねると、まるで肩をすくめるように少し身じろぎし、それから黒い尾がごく優しくディルの足に触れた。
「ありがとう」
そうして眠りに引き込まれて行った後、どうしてだか大きな暖かい手が髪を撫でたような気がしたが、夢なのか現実なのか、もうわからなかった。
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