5. Interlude 〜庇護と執着〜
ふと、イーヴァルは誰かに呼ばれたような気がした。伝わってきたのは戸惑いと恐怖。それほどまでに深い絆を結んだつもりはなかったが、それでもはっきりと伝わってくるその叫びにも似た気配にため息をつく。
巻き込まれたのはあの子供の方だ。厄介なことになるのは目に見えていたのに止めなかったのは、相棒のあの眼差しを見てしまったせいだ。彼の相棒はそれでなくとも自由奔放で、他者の助言など意に介さない。
移り気、身勝手、独善的、自分本位、傲岸不遜。
彼を評する言葉ならいくらでも出てくるが、お人好しな面など見たこともない。通りすがりの強盗に誰かが襲われていても、どちらかといえば被害者など気にも留めずに、その強盗から獲物を横取りするようなタイプだ。
だからこそ、
そしてディルを計画に引き込んだことも不可解だった。子供を巻き込んだところで得るものは少ない。だが、本人も無意識だろうが、もし邪魔立てしようものなら、彼にさえ襲いかかりかねないという眼をしていた。長い付き合いで、本気になったその男を相手にするのは彼にとってさえ厄介だと学んでいた。
だから、放っておくつもりだったのに、声なき声は彼を呼んでいるわけでもないのに悲鳴のように届き続ける。
「全く……これだからあいつに関わるのは嫌なんだ」
ぼやきながらもひとつ
そこに足を踏み入れた瞬間、むせ返るような血の匂いに思わず顔を顰めた。一歩足を進めるたびに水音がする。彼の持つわずかな明かりに照らせば、それがただの水ではなく血の海であることが見てとれた。ざっと周囲を見渡しただけでも十人近くが倒れている。その先に、立ち尽くす小さな影があった。
その身に残る魔力の痕跡を見るに、どうやら水に関わる力と、そこから引出された禁忌の術が使われたようだった。おそらくは自分の身を守るために、本能的に発したのだろう。だが、強大な術は使った本人をも疲弊させる。その身の丈に合わないものであれば尚更に。
事実、ディルは今にも意識を失いそうだった。問いかけに答える声も瞳も感情を失ったかのように無機質なのに、それでもその身から発せられる気配は、ただただ心細げに助けを求めていた。
だから言っただろう、と小さく吐き捨てながら、その体を抱き上げる。彼からすればごく細く小さく見えるその体は、氷のように冷え切っていた。そのあまりの頼りなさにどうしてだか怒りが沸いてくる。
「できもしないことに首を突っ込むからこんなことになるんだ」
苛立ちを込めてそう言った彼に、ようやくディルはまっすぐにこちらを見上げ、茫洋としていたその瞳が、確かな感情を浮かべて彼を見つめる。
「イーヴァル」
「何だ」
答えた彼に、初めて切実な声と瞳が向けられる。
「——たすけて」
助けを求めながらも、その瞳はどこか諦めを浮かべていて、だからこそ不意に彼の胸を締め付けた。それは期待をして、何度も裏切られてきた者の眼だ。誰かに助けて欲しくて、けれど誰もこの小さな生き物に手を差し伸べてこなかった。
この細い小さな体に、どれほどの絶望を背負わされてきたというのだろう。
「だから、最初からそう言えと言っただろうが」
そう答えると、少し驚いたように眼を見開いて、それから、どこかが痛むかのように眉を顰めた。そして、その頭を彼の胸に預けてくる。それは、庇護を受け入れた証に見えた。一刻も早くこんなところから抜け出したいという思いに駆られ、その肩を強く抱いてそのまま歩き出すとすぐに腕の中の重みが増えた。見れば、すでに意識を失っている。本当にぎりぎりのところで耐えていたのだろう。
そのまま転移するかと考えて、だがふと覚えのある気配に足を止める。ちょうどディルが立っていた場所から数歩のところに黒い影が見えた。ため息をついて、その影に歩み寄る。それは黒い獣だった。その毛並みは血にまみれて動かない。だが、爪先で軽く蹴ると、わずかに身じろぎした。
「……何やってんだ、お前」
問いかけたが、その獣は答えない。どうやらこちらも意識を失っているようだった。あたりの血臭が強すぎて、傷ついているかどうかさえも定かではない。だが、生きているなら放置するのもさすがに気が引けた。
「本当に世話の焼ける……」
彼はもうひとつ深いため息をつくしかなかった。
ディルを抱いたまま、その獣も一緒に隠れ家へと移動する。深い森に囲まれているその家は、それだけでなく結界に守られている。黒い獣は意識を失っており、見たところ肩や脇腹のあたりに数発の銃弾を受けてはいるが、致命傷ではなさそうだった。ならばそのうち勝手に目覚めるだろうと、とりあえず放っておくことにする。
ディルも眼を閉じたまま意識がないが、それにしても全身血まみれで、このままどこかに寝かせるのもためらわれた。とりあえず湯船に湯をはり、服のままその中に放り込むと、あっという間にその水が赤く染まった。湯をかけて、全身を洗い流す。
それでも眼を覚まさないのはその眠りがただの眠りではなく、魔力を使い果たしたせいだからだろう。
一通り血を落とした後、服を脱がせた。その胸には森で垣間見たように、わずかなふくらみがある。だが、下半身にも未熟ながらも雄の徴が見えた。両性を持つものはこの世界には珍しくもないが、この様子ではまだ未分化なだけで、いずれどちらかに変わるのかもしれなかった。
そればかりは種族によるが、アルヴィードが問いかけた時には知らないと言っていたので、もしかしたら本人にもわかっていないのかもしれない。一応他に傷はないかと全身を確認すると、肩に大きな火傷のような痕が見えた。古いもののようだが、白い肌に、それはあまりに痛々しく見えた。古傷は、それだけでなく体のあちこちに見える。
じわり、と彼の中に先ほど感じたのと同じような怒りが沸いた。アルヴィードは、あの時、これを見たのだろうか。
いずれにしても、まだ未熟な体には大きな魔力の行使は負担だったのだろう。その体を清潔な布で拭き、シャツだけ軽く羽織らせて寝台に寝かせたが、その間も一度も眼を覚まさなかった。
まじまじとその寝顔を見つめる。肌はやや青ざめているが滑らかで、閉じられた瞳の周りを烟るような銀の睫毛が覆っている。顔立ちもまだ幼いが、数年すれば女性であれば絶世の美女と呼ばれるようになるだろう。だが、これほどに美しければ、却ってそれがこの子供には負担だったことは容易に想像がついた。
子供のうちは、それでもまだいい。しかし、ただの暴力が、今日見たようにそれ以上のものに変わっていくのはもう時間の問題だろう。この世界は、弱い者が穏やかに生きていけるようにはできていない。それは、この子供に限ったことではなく、ごくありふれた現実だった。
どうしたものかとため息をついた時、乱雑に扉が開く音がした。いつになく荒々しい足音と共に駆け込んできた相手を見て、彼は冷ややかな眼差しを向ける。
「うるさい」
「あいつは?」
珍しく血相が変わっているのを見て、思わず彼も眼を丸くする。腰布だけを巻いたほぼ裸のその体には、あちこちに新しい傷が見てとれた。銃創と思われるものも少なくない。もともと頑健な上に異常に回復の早い体の持ち主だから、多少の傷などものともしないが、それでも撃たれれば傷つく。敏捷さが何よりも取り柄のこの男が、そもそも銃弾を受けること自体が珍しかった。
「そこに寝てる。お前、まさかその傷はこいつを庇って受けたものか?」
だが、問いかけには答えもせずに寝台へと歩み寄る。長い付き合いのはずのその横顔には、見たこともないような複雑な表情が浮かんでいた。眠る相手のその頬に、乾いた血で赤黒く染まった手を伸ばそうとしているのに気づいて声を上げる。
「おい、触るなよ」
「何でだ?」
「せっかくきれいにしてやったばかりなのに、また汚すな。さっさと風呂に入ってこい」
「お前が脱がせたのか?」
「他に誰がやるっていうんだ。それに『未分化』の子供の裸になんか興味はねえよ」
「未分化……か」
その金の瞳には何かを迷うような光が浮かんでいる。だが、ふいと浴室に向かっていった。
しばらくして戻ってきたその体を改めて見れば、新しい銃創はそのどれもが体の正面に受けていることから、まともに食らったことがわかる。
「何やってんだ、お前?」
この台詞は今日だけでも何度目だろうか。
「しょうがねえだろ、いくら訳の分からねえ魔法を使ってるって言っても、銃弾が当たるか当たらねえかは、わからなかったんだからよ」
「だからって庇うか、普通? 一緒に避けるだろ?」
「知るかよ、守ったことなんてねえし」
照れるでもなく、あっさりとそう言う相棒を彼は思わず不気味なものでも見るかのように見つめる。この男が何かに執着するのを見たことはあるが、それにしても身を挺してまで相手を守ろうとするなど。
「頭でも打ったのか?」
「殺すぞ?」
剣呑なその眼差しと、軽口はいつも通りだった。
「だが、本当に一体何があったんだ?」
「わからん。撃たれたすぐ後に、こいつが何か術を使ったのが見えた。そっから先の記憶がない」
「血の禁呪で眠らされたか……。お前にさえ影響するとは大した力だが、眠るだけで済んでよかったな」
「何なんだ、それ?」
「古い呪術の一つだな。人の体の一部を使って魔力を増幅させるんだ」
「そんな大層な術が使えるのに、なんであんなガキ共に……」
「こいつの魔力は水に関わるものらしいが、基本的に大したことはできなそうだ。たまたま、あの大量の血を浴びて無意識に目覚めちまったんだろう」
「へぇ……」
「だが、二度と使わせるな」
硬い声でそう言った彼に、アルヴィードは首を傾げる。
「何でだ?」
純粋に理解しがたい、という顔に深いため息をつく。
「何で俺が、わざわざあそこまで出向いたと思う?」
「そりゃあ……お宝目当てとか?」
「馬鹿か……そういえば、手に入ったのか?」
「まあな。あとで見せてやるよ。それより何でだよ」
「叫んでたんだよ……助けて欲しいってな。本人も無意識だろうが、その声が俺のところまで届いた。あんな術、まともな奴なら望んだりしない」
「優しいな、相変わらず」
皮肉げな笑みを浮かべながらも、その金の双眸にはわずかに複雑な色が浮かんでいるように見えた。
「……お前、まさか……」
「何だ?」
怪訝そうな表情に嘘は見えない。無自覚にもほどがあるが、本人も気づいていないであろうその感情を明らかにするほど、彼は野暮でもなかった。
着替えを済ませて一息つくと、アルヴィードはまたディルの眠る寝台に近づいた。その枕元に座り込み、じっとその寝顔を見つめている。
「なあ、イーヴァル」
「何だ?」
「こいつ、何だと思う?」
「わからん。一見すれば、人間の子供に見えなくもないが、あれだけの力を使えるんだ、精霊の眷属かもしれないな」
「だとしたら、何でこんなとこにいるんだ?」
「俺が知るか」
「種族も知らないって言ってたな……」
それは、きっと親の顔も知らないということだろう。
「これからどうするんだ?」
「本人に聞いてみるしかないだろう。行くあても特になさそうだが。お前こそどうするつもりだ?」
問うと、深く眠るその寝顔をもう一度じっと見つめる。
「そうだなあ……とりあえず、抱いたらまずいよな?」
「はあ⁈」
思わず声を上げて見返したが、冗談でもなさそうに、頬をかきながら首を傾げている。
「何かこう手を出したくなるというか、欲情するっつーか」
「馬鹿言え変態」
「だよなあ……」
とりあえず適当に女のところに行ってくるわ、と言い置いて、本当にそのまま立ち去ってしまう。軽い口調ではあったが、ある意味切実だったのかもしれない、とは後で気づいた。
そんなことは露とも知らず、寝台に眠るディルはいまだ目を覚ます気配もない。際立って美しいことを除けば、人間と変わらぬその容姿からは素性を探るのは難しそうだ。だが、アルヴィードの本質は獣だ。この子供に、理性では理解していながらも、あれほど惹かれるのだとすれば、それはその素性に何か関係があるのかもしれない。
今はただ深く眠るその子供の多難そうな前途を思い、彼はもう一度深くため息をついたのだった。
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