1. 異邦の人

 入り口の扉が開いてその人影が入ってきたとき、彼はふと風が吹いたように感じた。今は春先でまだ夜は冷えるから、窓は開いていない。怪訝に思いながら入ってきた人物を見ると、灰色の外套がいとうを脱いだところだった。その姿を認めて、普段は喧騒けんそうに満ちている酒場内が一瞬静まり返る。


 フードの下から現れたのは、酒場の乏しい灯りにさえも美しく輝く銀髪だった。腰にも届こうかという長さで、肩のあたりで緩く結えられている。背はそれなりに高いが、まだ若くほっそりしたその体つきは、一見して男なのか女なのか、はっきりしない。


 さらに何より人々の目を引いたのは、そのあまりに整った顔の造作だった。高く通った鼻梁と、薄く開かれた薔薇色の唇。烟るような銀の睫毛の奥には、夜空をそのまま映したような、ほとんど黒に近い藍色の瞳が完璧なバランスで配置されている。

 誰もがその顔に見惚れ、言葉を失っている。だが、そんな酒場の雰囲気を気にする風もなく、当の人物はカウンターへと歩み寄ってくる。店主の前に立つと、にこり、と微笑んだ。そうすると、存外、親しみやすい雰囲気になる。


「こんばんは」

「お、おう……あんた、他所よそからきたのかい?」

「はい。先ほど着いたばかりです。もしよければ食事のあと、少し弾かせていただいてもよいでしょうか?」

 そう言って、その人物が示したのは、小さなリュートだった。

「おや、あんた吟遊詩人さんかい?」

「詩人……というほどでは」

 はにかむように笑うその顔は、思いの外、若く見えた。

「まあここいらの連中はがさつな奴らばっかりだから、あんまりいい聞き手じゃあないかもしれないが、あんたがそれでも良いなら構わねえよ」

「ありがとうございます」

 そうしてカウンターの椅子に腰掛ける。店主の勧めるままにいくつかの料理と酒を頼むと、まずは最初に出された酒を静かに飲み始めた。


 一部始終を眺めていた彼は、興味を引かれてその隣に立った。

「ここ、いいかい?」

 尋ねると、少し驚いたように相手は目を丸くする。まじまじと彼を見つめ、それから小さく頷いた。

「どうぞ」

「ありがとよ。俺の顔に何かついてるか?」

「いえ、知り合いに少し似ていたもので」

「それは口説かれてるのか?」

 隣の席に腰を下ろしながら冗談まじりに笑ってそう言うと、相手はもう一度少し目を見開いて、それからふわりと微笑んだ。あまりに美しいその笑みに、彼の心臓が不規則な鼓動を打った。

「そういうところも、よく似ています」

「あんた、そんな笑顔はあんまり振りまかない方がいいぞ。このあたりは治安のいい方じゃない」

 そう言うと、相手は首を傾げる。特に危険など感じたことがないという、そんな顔だった。確かにその服装も旅慣れた様子ではあったから、彼はただ肩をすくめる。

「まあ、夜一人で出歩いたり、森の中に行ったりしなきゃ大丈夫だとは思うけどな」

「お気遣い、ありがとうございます」

 言って、それから視線を外して出された料理に手をつける。ただ料理を口元に運ぶ姿でさえも優雅で美しい。思わずその様子に見惚れていると、相手がもう一度首を傾げた。

「少し召し上がりますか?」

「ああ、いや、別にそういうつもりじゃなかったんだが……」

 どう勘違いしたものか、相手は取り分け用の皿を頼むと本当にこちらに差し出してくる。何となくそのまま受け取って、手をつけた。

「美味いな」

「そうですね」


 ——話が弾まない。


 そういえば、名前も名乗っていなかったことを思い出した。

「俺はロイ、あんたは?」

「ディルです」

「ディル、不躾なことを聞くようだが、あんた、女か?」

 我ながら本当に不躾だとは思ったが、どうにも気になって直裁ストレートにそう尋ねると、相手は少し目を丸くして、それから軽く吹き出した。そうやって笑うと、静謐な雰囲気が和らぎ、少し幼くさえ見えた。思ったより若いのかもしれない。

「な、何だよ……」

「そんな風に聞かれることは少ないので。難しいところですが、女性かと言われれば、いいえ、ですね」

 その言葉は、曖昧ながらも引っかかる言い方だった。

「だが、男でもない?」

「まあ、そんなところです」

 この世界には性の区別を持たない者や、両方の特徴を持つものも少なくはない。彼自身は紛れもなくオスの方だが、種族を超えてしまえば性別自体意味を持たないことも多い。いずれにしても、この相手の場合は、性別は関係なく危険を招きそうな気がした。

「その、俺に似てる知り合いってのはあんたの恋人か何か?」

 そう尋ねると、相手は虚をつかれたとでも言うように少し目を見開いた。それから何かを言い淀むように口を開いては閉じ、ややして目を伏せて首を横に振った。

「いいえ。最後に彼に会ったとき、私はまだ子供だったので」

 完全に対象外だったのか、子供だったからそういう対象にならなかっただけのなのかは曖昧な返事だった。

「長いこと会ってないのか?」

「そうですね。かれこれもう三年になるでしょうか」

 わずかにその表情に切ない色が浮かぶ。女にしか興味がないはずの彼でさえ、胸がざわつくのを感じるほどに。

「あんた、よく世間を渡ってこれたな」

 思わず呆れたようにそう言った彼に、その若者は苦笑しながら軽く肩を竦める。

「普段は、あまり人と関わらないようにしているので」

 つまりは、他人と関わることで、いくつもの厄介事を経験してきたということだろう。

「俺は例外か?」

 軽口のようにそう言った彼の問いには答えず、相手は微笑しながらリュートを手に取った。足を組むと、ぽろんと弦を爪弾く。派手ではないが、柔らかい、弾き手によく似合った音だった。それからゆっくりと歌い出す。高く、低く、その曲自体はこの辺りでもよく歌われる故郷を懐かしむ歌だったが、その唇から紡がれる歌声は静かで一際美しい。


 何曲か歌った後、まだその余韻に浸っている周囲の客たちから袋に幾ばくかの銀貨を受け取ると、若者は立ち上がった。それから彼の方に視線を向ける。

「声をかけてくださって、ありがとうございました」

「もう行くのか?」

「ええ」

「明日も来るか?」

「……どうでしょう」

「風の向くまま……ってか?」

「そんなところです」


 微笑むと、優雅に一礼して去って行く。引き止めたい気持ちはあったが、どうにもその背中はそれを許してくれそうにないように思えた。ため息をついて杯に口をつけると、だが、店主が珍しく声をかけてくる。

「ロイ」

「何だ?」

「あいつら、まずいんじゃないか」

 顎で示された方を見ると、二人の男たちが外へと出ていこうとしているところだった。

「あいつら、ずっとあの兄ちゃんだか嬢ちゃんだかを見てたぜ」

「だから言わんこっちゃない」

 ため息をつくと、酒代を置いて男たちを追うように席を立って外へ出た。見れば、少し先に別れたばかりの若者のものと思われる灰色の外套の後ろ姿が見えた。今夜は月が明るい。その姿は月明かりに照らされて、はっきりと浮かび上がっていた。だが、どういうわけか、その影は森の中へと進んでいく。男たちもその後を追って行った。

 やれやれと、ため息をつきながら彼もその後を追う。


 ディル、と名乗ったあの若者は、不思議と迷いなく森の中を歩いていく。男たちはさすがに不審に思ったのか、少し迷うようだったが、それでも数を頼みにその後を追い続けた。やがて泉が見えてきたとき、その脇に立つ影を見て、男たちが下卑た声を上げる。

「よう、お嬢ちゃん。俺たちを待っててくれたのかい?」

「何の用ですか?」

「なあに、少し一緒に楽しまねえかと思ってよ」

 吐き気がするほどわかりやすい。相手も同様に感じたのか、低く笑った。

「俺は、女じゃないよ」

「まあ、それはそれで構わねえさ」

 懐から短剣を取り出してちらつかせながら、舌舐めずりせんばかりにそう言った声に、若者が深いため息をつくのが聞こえた。

「街になんて、寄るものじゃないな」

 抵抗を示さないその様子に、男の一人がその腕を掴み、その場に押し倒した。びり、と布の裂ける音と共に白い胸元が顕になる。

「何だ、やっぱり女じゃないか」

 乱雑に胸元に手を差し入れ、舌舐めずりせんばかりの声を上げる。どうしてだか、若者は抵抗しようとしない。

「兄貴、俺はこっちな」

 言いながら、もう一人の男が下肢に手を伸ばした。だが、下履に手を突っ込んだ男が、驚いたように声を上げる。

「兄貴、こいつ、女じゃない……?」

 それでも、もう一人の男は欲望も露に白く細い首にむしゃぶりついたまま、下卑た声を上げる。

「別に珍しいことじゃねえ。その先を触ってみな、

 さすがに止めようと踏み込みかけた時、若者がきらりと光る何かを手にするのが見えた。それは、男の一人が取り落としていた短剣だった。


 あんなもので戦うつもりだろうか。同じことを思ったのだろう、男たちが嘲るように笑う。

「そんなもので俺たちとやり合うつもりか? やめとけよ。大人しくしてりゃ、優しくしてやるからよ」

 その言葉に、若者がため息をつくのが聞こえた。うんざりしたように眉根を寄せて、自分を襲う男たちにもさほど関心がないように見える。まるで、全てを諦めているかのように。

「本当に、独創性のない」

 どうするつもりかと見守っていると、若者は意外な行動に出た。その短剣で、自分の左腕を斬りつけたのだ。闇の中でさえ白く浮かび上がるその細い手首よりやや上のあたりから、鮮血が流れ出す。

「お前、何して……」

 驚いて身を起こし、怪訝そうな声を上げた男たちには構わず、そのまま側の泉にその腕を浸けた。血が泉に広がる。

「もう、ちょっと疲れたな」


 小さな呟きがその口から漏れた瞬間、泉の水が何かの生き物のように持ち上がった。それは複数の頭を持つ蛇のような形を取り、唖然としている男たちの首を締め上げる。水の蛇はぐるりとその身をよじらせると、その首を掴んだまま宙吊りにして、容赦無く締め上げた。男たちはバタバタと身動きをするが、なす術もない。その顔色はどんどんどす黒く変わっていく。


 あまりの光景に、彼は漏れそうになる声を必死に堪えた。だが、若者は呻き声を上げる男たちを静かな眼で見つめている。

 やがて、わずかに赤く染まった水の蛇は男たちを泉へと引きずり込み、そして、何も聞こえなくなった。


 引きずり込まれた男たちは浮いてくる気配もない。背筋が冷えたが、あまりに静謐な若者の姿にどうしてだかその場を動けなかった。若者は腕を泉から引き上げると、その場に崩れ落ちた。無残に裂かれた服から、白い胸元が露になっている。その白さとは対照的に、左腕からは鮮やかな鮮血が流れ続けている。

「もう、疲れたよ」

 誰にともなく呟く声が聞こえる。

「迎えにきてくれるって言ったのに」

 弱々しくなっていく声に、彼はようやく覚悟を決めて足を踏み出した。だが、突然、大きな黒い影が飛び出し、彼を押し倒す。

「な……っ」

 その声に、若者もこちらに視線を向ける。

「あなたは……」

 だが、彼はそれどころではない。自分の上にのしかかっているそれを見て、背筋が凍る思いがした。大きな身体に漆黒の毛並み、尖った耳。鋭い牙と黄金に燃える炎のような瞳。

黒狼こくろう……!」

 もはやこの世界でさえ、伝説にしか棲まないと言われる獣だ。魔力は持たないが、その牙と爪は鋭く、俊敏さはどんな獣も敵わない。一度狙いを定められたら、獣人でさえ逃れられぬというその獣は、今は彼の胸をその足で押さえつけ、睨みつけている。

「まさか、お前、あの時の?」

 驚いたような声が上がる。黒い獣は彼をその足で押さえつけたまま、声の方を見やる。そろりと彼もそちらに視線を向けると、若者は大きく目を見開いていた。それから、ひとつため息をついて、黒いその獣に向かって話しかける。

「その人は大丈夫だ。離してあげて」

 黒い獣は若者と彼を交互に見つめたのち、ゆっくりと彼の上から降りた。それから牙を剥いて唸って見せる。

「ロイ」

 離れた場所から彼を呼ぶ声に目を向ければ、ひどく穏やかな表情が見えた。

「私は大丈夫なので、もう行ってください」

「だけど、あんた、その腕……」

「大丈夫です」

 その腕からは少なくない量の血が流れている。それでも、若者はどうしてか幸せそうに微笑んでいる。死ぬつもりか、と喉元まで出かかった言葉は、だが、獣の唸り声でかき消された。さっさと消えろと言わんばかりのその声に、それでも躊躇っていると、銀の髪の若者は静かに頷く。

「今日はありがとうございました。久しぶりに人とゆっくり話せて楽しかったです」

 言いながらもそれ以上の干渉をはっきりと拒む様子に、彼はただ、ため息をついて立ち去るしかなかった。



 男が立ち去ったのを見て、ディルは改めてその黒い獣を見つめた。その獣は「彼ら」と出会った短い期間に一度だけ出会ったことがあった。

 視線に応えて、獣はゆっくりと近づいてくる。腕の傷に気づくと、その傷口に顔を寄せ、舐め始めた。少なくない量の血が流れていたが、黒い獣はなんとかそれを止めようとでもするように何度も繰り返し舐めた。


「お前、きてくれたの?」


 視線を合わせてそう言うと、黒い獣は何かをためらうように少し視線を逸らせた。

「いいよ、お前だけでも」

 今は、と呟く。少なくともこの世界にたった一人で過ごしたこの年月よりは、遥かに。無事な方の腕を広げると、しばらくじっとこちらを見つめていたが、やがてその頭を寄せてきた。

 わずかに乱れている呼吸は、長い距離を走ってきたせいだろうか。

「探してくれてたの?」

 獣はただディルの首に顔を擦りつける。かつて、たった一度触れただけの、その感触がどうしようもなく懐かしくて、ディルは深く息を吐く。

「お前は変わらないね」

 以前出会った時も、泣いていたディルのそばにただ静かに寄り添ってくれていた。だが、黒い獣はいまだ流れ続ける血を危惧するように、じっとディルを見つめる。

「大丈夫だよ、これが初めてじゃない。前にも、こうやって何人か殺した。あいつには、殺さないって約束して、なんて言ったくせにね」

 だって、と続ける。


 ——何があっても生き延びろって、言ってたから。


「三年、だよ」

 呟くと、黒い獣がいたわるようにその頬を舐める。

「本当は、ずっと寂しかった」

 誰にも言えなかった本音がようやく口からこぼれる。この世界は、以前住んでいた場所よりは遥かにましだったけれど、ディルには失われたものの方が大きかった。

「少し、眠ってもいい?」

 いつかと同じように問いかけると、黒い獣は静かに身を寄せる。

「ありがとう」

 その毛並みを汚さないように、右手だけでその背を抱きしめる。その温度は、血を失って冷えてゆくディルの身体には、ひどく暖かく感じられた。


 もし、このまま目覚めないとしても、ずっと独りでいるよりは遥かにいい。

 そんなことを思いながら、ディルは意識を手放した。

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