2. 薬師

 柔らかなシーツと、こちらを怯えさせるほどの強い金の双眸そうぼう。いつかも嗅いだことのある甘さと辛さが入り混じったような香り。あるいは、自分を見下ろす、穏やかな藍色の眼差し。


 何度、同じ夢を見ただろうか。初めは目覚めるたびに、胸が締め付けられるような思いをして嗚咽を必死に堪えた。やがて、目覚める前にこれは夢だと自分に言い聞かせることを覚えた。目を開ければそこはただの森か、よくても宿屋の一室で、側には誰もいない。あるのはせいぜい自分の温もりだけ。


 そうやって覚悟をしておけば、目覚めても落胆せずにいられるようになった。

 だから、今日ももう大丈夫だ。これは夢だとわかっているから。


 ——だが、目を開けると目の前に金の双眸があった。


 とっさに手をついて起き上がろうとして、激痛でそのままもう一度倒れ込む。

「おいおい、大丈夫か?」

 声は少し離れたところから投げかけられる。それでは目の前のこの金色は……と改めて見れば、そこにいたのは黒い獣だった。そこそこ大きな寝台に、その巨大な身体を悠々と伸ばしている。

「お前、何してるの?」

 尋ねると、その獣はひとつ大きな欠伸をして、それからぺろりとディルの頬を舐めた。それからディルの上にのしかかると、匂いを嗅ぐように首筋に顔を擦りつけてくる。

「くすぐったいよ」

「仲良いな、あんたら」

 呆れたような声に目を向ければ、先日酒場で会ったばかりの男がこちらを見下ろしていた。

「……ロイ?」

「覚えててくれたかい」


 ニヤリと笑うその顔は、明るい日の光の下で見ると、あまり「彼」には似ていなかった。外見は彼よりもいくらか年長だろう。背は高く、がっしりと引き締まった身体は力強い。ほとんど黒に見える暗赤色の髪は短く整えられ、その雰囲気はよく似ているが、その青紫の瞳は柔らかく穏やかで、頬にまばらに残る無精髭を差し引いても遥かに人が良さそうだ。

 それでも飄々とした中にも強い光を浮かべる眼差しと、端正なその顔は、十分に女たちを惹きつけるだろうと思われた。


「俺の顔に何かついてるか?」

 まじまじと見つめていると、昨日と同じような台詞と共に、どこか癖のある笑みを浮かべたまま近づいてくる。

「もしかして、助けてもらったんでしょうか」

「余計なお世話かとは思ったんだが、どうしても気になっちまってな」

 だが、大変だったぜ、と肩を竦めて笑う。

「そいつは俺を見るなり唸りまくってあんたに近寄らせようともしないし、あんたはあんたで完全に意識を失っちまってたしな。包帯と傷薬を見せて、長いこと説得してようやくあんたに近づけたってわけだ」

 それから、腕の傷の応急処置をした上で、背負ってここまで運んでくれたらしい。

「すみません……」

「何、根がお節介な性質でな。気分はどうだ?」

「大丈夫です」


 そう答えたが、ロイはそれでも何かを心配するようにその顔を覗き込む。近づこうとすると、黒い獣が低く唸り声を上げた。その声に、彼はうんざりしたように肩を竦める。


「だーから、何にも悪さする気はねえって言ってんだろ! お前も見てただろ、ディル、あんた三日も眠ってたんだぞ」

「そんなに……?」

 術を使った後、意識を失うことはよくあったが、いつも目覚めた時は一人なので、どれくらい倒れていたかを計るのは難しかった。とはいえ、さすがに三日も倒れていた、ということは今まではなかったように思う。

「まあ、何度か目を覚ましそうになったことはあったがな。その度に、そいつが寄り添ってくれてたぜ」


 ロイも最初はその獣が寝台に乗ることはさすがに拒否したらしいが、目覚めないディルに献身的に寄り添うその姿にほだされたらしい。


「おかげで毛だらけだがな」

 確かに、ディルが寝ている寝台の上も黒い毛があちこちに散らばっている。

「……後で、洗濯を手伝います」

「そうだな。そうしてもらえると助かる」

 気がつけば、いつの間にか服も着替えさせられている。大きな男物の上衣を一枚羽織るだけになっていた。ということは、彼にのだろうか。見上げた視線の意味に気づいたのか、ロイは少し視線を逸らして指で頬をかく。

「あー、その何だ。あんたの服はぼろぼろになっちまった上に、血で汚れてたし、着替えさせてもらった。そいつも見てたから、誓って変なことはしてねえよ」

 黒い獣の方に目を向ければ、当然だとばかりに鼻を鳴らしている。

「まったく、頼もしい護衛だよ」


 からからと笑ってそう言う表情には屈託がなく、ディルはやはりなんだか不思議な気がした。育った街ではこんな風に手を差し伸べてくれる者はいなかった。誰しもが自分が生きることで精一杯か、他者の窮状になど興味がない者ばかりだった。


「どうしてここまで?」

 おずおずと尋ねたディルに、だがロイはふと表情を改めた。それからディルと黒い獣を交互に見比べる。

「まあ、正直に言えば、あんたたちに興味があったんだ」

「興味……?」

「お前さん、その獣が何だか知っているのか?」

「何、と言われても」

 相変わらず首筋と言わず胸と言わず顔を擦りつけてくる獣の頭を撫でながら、首を傾げると、ロイは深いため息をついた。

「いいか、そいつはただのでかい犬じゃない。黒狼こくろうだ」

「黒狼?」

 それはただの黒い狼では、という思いがありありと顔に出たのか、ロイは両肩を竦めて笑う。

「そもそも黒い狼なんて普通はいないだろう。それにでかい」

「まあ、確かに大きいですね」

 だが、大きな獣など珍しいものでもない。魔力を持つものなら尚更だった。そう言ったディルに、だがロイは首を横に振る。

「どっこいそいつは魔力を一切もたねえ。恐ろしいのは、そのくせ圧倒的に強いんだ」

「強い?」

「銃弾よりも速く動き、その顎と牙はなんでも噛み砕いちまう。普通、魔力を持たない生き物は、獣人や精霊相手には不利なもんだが、黒狼に限っては精霊たちでさえ道を開けると言われている。なぜなら、ほとんどの魔法が効かないからだ」

「魔法が効かない?」

「ああ。普通精霊たちは、魔力を使って敵対するものに攻撃する。風だったり火だったり、まあそんなものだな。ところが黒狼はそういった一切の魔法を寄せつけないんだそうだ」

「へえ」

 そう言われても、魔法をほとんど目にしたことのないディルからすると、それがどうすごいのかはあまり実感がわかなかった。気のない返事をどうとったのか、ロイはひとつため息をつく。

「張り合いのねえ聞き手だなあ」

「……すみません」

「特にこの世界じゃ、魔力の強さが基本的にものを言う。それを寄せつけない黒狼は例外中の例外ってわけだ」

「例外中の例外?」

 思わずまじまじとその黒い獣を見つめると、確かに金の双眸は鋭く、そのしなやかな身体は俊敏に動くだろうと想像はつく。そんな様子はやはり「彼」を彷彿とさせるが、ぱたりと尻尾を振っている姿を見れば、それでも恐ろしげな話はやはりどうにもしっくりこなかった。

「まあ、特別に強力な魔法なら、話は別かもしれないがな」

「特別……ですか」

「例えば、あんたが使った『血の禁呪』とかな」


 その眼差しはこちらを探るように深い色を浮かべている。しばらく迷ったのち、ディルはひとつため息をついてから、黒い獣を撫でて、その身を自分の上から離れさせると、ゆっくりと寝台から下りる。ふらつきそうになった身体を黒い獣が支えてくれた。


「お世話になりました」

 言って、すぐそばに落ちていた自分の荷物から銀貨の入った袋を取り出すと、寝台の上に放り投げる。そのまま背を向けて扉に向かって歩き出そうとしたが、呆れたような声が追ってくる。

「おーい、待てって。薄々気づいてたけど、あんた見かけによらず気が短いな」

 無視して外を出ようとしたが、肩を掴まれた。だが、すぐに悲鳴が上がる。

「痛ぇっ!」

 見れば、黒い獣がロイの足に噛み付いていた。さすがに本気ではないだろうが、あの顎と鋭い牙で噛みつかれれば、無傷では済まないだろう。少し迷ったが、その場に膝をついて、獣の顎を開かせ、金の瞳を見つめながらその顔をじっと見つめる。

「お腹壊すよ?」

「他に言うことないのかよ?」


 深くため息をついたロイをひとまず椅子に座らせてその足を見ると、くっきりと歯形がついていたが、傷は浅いようだった。傷口を洗い流し、清潔な布と包帯で巻いておく。

「手際がいいな」

「慣れているので」

 そう答えるとロイは微妙な顔をする。おそらくその理由に思い当たったのだろう。

「……苦労してるんだな」

「さあ、どうでしょうね」

「ああ、そういえばあんたの腕は大丈夫か?ちょっと見せてみろ」


 今度は答える間も無く左腕を取られる。獣が低く唸ったが、顔だけ向けて頷くと、不満げに鼻を慣らしながらもその場に身を伏せた。その様子を見て、もうひとつため息をついてから、ロイはディルの腕に巻かれた包帯をゆっくりと優しい手つきで剥がし、傷口を確認する。

 その視線が大きく切り裂かれた傷の先にある、手首の中ほどまでを覆う黒い蛇のような文様で止まった。


 ——その意味に気づいただろうか?


 だがロイは何も言わず、傷口に何かの塗り薬を塗り込むと、新しい包帯を巻いてくれる。

「しばらく動かすなよ」

「ありがとうございます。あなたこそ、手慣れていますね」

「これが仕事だからな」

「仕事?」

薬師くすしだ」

 事もなげに言うその顔を思わずまじまじと見つめる。どちらかというと、もっと荒事方面の職についていそうに見えたのだが。

「あーはいはい、似合わないって言いたいんだろ?だが、材料も自給自足だ。意外と効率がいいんだぞ」

「そうですか」

「興味ないにもほどがあるだろ?」

「話がそれだけなら、そろそろ失礼します」

「あーもう待てって」


 ロイは頭をかきながら、何やら考え込む風だったが、顔を上げるともう一度ディルの左腕をつかんだ。そして、左手首の内側に浮かび上がる黒い文様を示す。


「あんたのこれ、『盟約』をたがえた呪いの証だろう?」

 ぴくりと黒い獣が耳をそば立てて身を起こした。鋭い眼差しでロイを睨みつける。

「そんなに睨むなよ。言っただろう、俺は薬師だって。仕事柄、古い書物に当たる事も多いし、何より呪いや術についても知っておかなきゃならないんだよ。いざって言う時に癒せるようにな」

「なぜ、これが呪いの証だと?」

 じっとその青紫の瞳を見つめて尋ねたディルに、ロイは少し迷うように視線をさまよわせたが、ディルの腕を掴んだままそっと包帯の上から傷口に指を滑らせる。

「あんた、あのごろつきどもを始末するのに『血の禁呪』を使っただろう」

「禁呪……」

「人の身体の一部を使った呪術の一つだな。その非人道的さ故に、先の大戦後の盟約で禁止されている」

 かつて、どこかで聞いたような気がした。


 この世界ではかつて、人間と精霊との間で大きな戦が繰り広げられた。戦は苛烈さを増し、人間は銃火器を用いて、精霊は比類なきその魔力を用いて互いを殺し合うだけでは飽き足らず、その大地と海までを滅ぼしかけた。

 それを危惧したそれぞれの代表が戦を終わらせ、再び起こることを防ぐため、互いに結んだ和平条約の一部にある人々に課せられた禁止事項が「盟約」と呼ばれている。


「そうだ。だが、あんたはあれだけ派手にあんな術を使っておきながら、平然としてる」

「平然……とはしていないと思いますが」

 実際に三日も寝込んでいたのだ。

「そういう問題じゃない。いいか、この世界にはルールがある」

「ルール……?」

「盟約と呼ばれている、精霊たちの代表と人間たちの代表が大戦後に以降の争い事を避けるために交わした和平条約の一部だ。そのひとつがこの世界の住人に課せられた『禁呪の使用の禁止』。狭間の世界の住人に課せられたのが、『魔力を持つ者の銃火器ぶきの所持と使用の禁止』だ」

 こちらの顔を窺ってから、ロイは続ける。

「『盟約』は厳密に監視され、もし破った者がいれば、即座に『狩人』と呼ばれる精霊たちが、殺しにやってくる」

「無茶な話だ……」

「全くだ。だが、そもそも先の大戦自体が無茶なもんだった。世界の滅びを防ぐためには、取り急ぎルールを決めてなんとか秩序を取り戻す必要があったんだ」


 ディルが黙り込んでいると、ロイはわずかに怪訝そうな顔をしながらも、話を続ける。

「で、ここで疑問が生じる。あんたは明らかに禁呪を使用した。なのに、『狩人』は来なかった。そんなことはあるはずがないのに」

 ロイはじっとディルの顔を見つめる。だが、そんなことを言われてもディルにもわからない。初めてディルが禁呪と呼ばれるそれを使ったのは、もう随分昔のことだ。そして、この手首のそれはまったく別の機会に刻まれたものだった。

「だが、あんたの腕には明らかに盟約違反の呪いの証がある。俺の記憶に有る限り、これを刻まれて生き残った者はほとんどいない——ここから導かれる答えはひとつだ」

 そう言ってから、じっとディルを見つめる。

「——あんた、狭間の世界から来たんだな?」


 言ったきり、ロイは今度こそ押し黙って、ディルの答えを待つつもりらしかった。立ち尽くすディルに、黒い獣が気遣うように寄り添い、服の裾を咥えて引っ張る。そんな男など放っておけ、とでも言うように。

 改めて目の前の男に目を向ければ、その青紫の瞳は真摯な光を浮かべており、敵意や害意は感じられない。それに、何かする気であれば、いつでもできたはずだ、というのはその通りだろう。いくらこの獣がディルを守ってくれるとしても、大勢に踏み込まれでもすれば、少なくとも無傷では済まないし、騒ぎは避けられなかったはずだ。


「……だとしたら、どうしますか?」

「別にどうもしねえよ」

「え?」

 軽い返事に思わず間の抜けた声が漏れた。ロイは表情を緩めて、ニヤリと笑う。

「ちょっとカマかけてみただけだったんだが、あんたが世界の終わりみたいな顔するからな……って、おいもうやめろよ!」

 その顎を大きく開いた黒い獣の頭をしゃがんで抱きしめて、ディルはほっと息をつく。獣も労るようにその頬を舐めた。

「なあ、ディル」

 見上げると穏やかな青紫の瞳がこちらを見下ろしている。

「あんたが何者かは知らんが、ちょっとは俺のことを信用してくれるなら、話を聞かせちゃくれないか? 別に取って食おうってわけじゃない。だが、あんたの手首のそれは、放っておいていいもんじゃねえ。どこであんたがそれを得たのか、それを話してくれれば対処のしようもあるかもしれん」


 その眼差しは真摯で、嘘は見えない。黒い獣は不満げに低く唸っているが、それでも敵意を向けてはいない。この獣でさえも、彼がひとまずは信用に足る人物だと、わかっているのだろう。


「どこから、話せば良いでしょうかね」


 それは、ディルにとっては、思い出したくもない過去と、忘れ得ぬ出会いの物語だった。

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