Ch.2 - At the bottom of the world
3. 邂逅
この世界には、大きく分けて二種類の生き物がいる。魔力を持つものと持たないもの。持たない者の筆頭が人間だった。彼らは知恵と群れにより、その数を増やし、気がつけば世界中のほぼ全ての地域にその生活圏を広げていた。同時に技術を磨き、日々の生活に活かしていた。
もうひとつは、人間より遥かに長命な精霊や妖精たち。人に似たもの、似ていないもの。時に自然に干渉し、その恩恵を受けると同時に、さまざまな災害を引き起こした。
きっかけは些細なことだったのだという。一人の妖精がちょっとした悪戯のつもりで川を溢れさせた。それにより、人間たちの村がひとつ水没した。幸い死者はいなかったが、住処を失った人間たちは妖精を恨み、彼らが棲む森を焼いた。当然妖精だけでなく、巻き込まれた精霊たちも怒り出す。初めはその村の小さな諍いに過ぎなかったが、気がつけばあちこちで似たような争いが起こり、やがて戦へと発展するまでそう時間はかからなかった。
人間たちは大きな魔力を持つものたちを恐れ、技術をさらに磨き、多くの
争いは争いを呼び、戦はさらに世界中へと広がった。大地は焼き払われ、海は濁り、風は病を運ぶようになった。
このままでは全てが死に絶える。そう悟った人間と精霊たちは、和平に同意する。だが、一所に集まればまた争いが起こるのは目に見えていた。そこで彼らは世界を三分することにした。
人間たちだけが住む世界。
人間以外の強い魔力や力を持つ者たちが住む世界。
そのどちらにも属さない——あるいはどちらにも属する者たちが住む狭間の世界。
それぞれの世界は基本的に閉じられ、自由に行き来することはできない。第一と第二の世界についてはそれぞれが自治をすることで合意し、問題はあまりなかった。
問題は第三の狭間の世界だった。人間にせよ、精霊にせよ、その中で力を持つ者たちはその世界にあまり興味を持たなかった。それ故に、第三の世界は荒れた。あちこちで諍いが起こり、特に、魔力を持つ者たちが持たないものを虐げることが増えた。そこで人間と精霊の代表はいくつかの法を設けた。
狭間の世界においては、魔力を持たない者は
それ以来、各世界の間は精霊たちの結界と人間たちの築いた壁によって隔てられた。そして、狭間の世界に住むものたちは、生まれると
その雑な法は、だが雑であるが故にそれなりに受け入れられ、そのまま長い時が流れた。だが、それは魔力をわずかしか持たない者を無力にし、虐げられることを意味した——。
「よう、出来損ない」
後ろからかけられた声に、ディルは内心でため息をついた。そのまま無視して進もうとしたが、その腕を掴まれた。顔だけで振り向くと、短い茶色い髪と同じ色の瞳の少年がこちらを睨み付けていた。
「……何の用だ、ルドウィグ」
「お前、主人は決まったのか?」
唐突なその言葉に、ディルが怪訝そうな眼差しを向けると、ルドウィグはなぜか偉そうにふんぞり返った。
「お前みたいな出来損ない、どうせ一人じゃ生きていけないだろう。もうこの夏が終わったら、学び舎も『祈りの家』も出なけりゃならないだろう。どうするんだ」
「……どうもしない。一人で生きていく」
「体力も魔力もろくにないくせにか?」
「余計なお世話だ……」
この世界では、寄るべのない子供たちのために十三歳までは学習機会として学び舎が、生活の補助として「祈りの家」とよばれる集団生活の施設が用意されていた。だが、十四歳を過ぎれは一律に皆が独立させられる。
獣人など力の強いものや、強力な火器を持つ人間は、兵士や傭兵などとして雇われ、それなりにまともな暮らしをする者が多い。逆にわずかばかりの魔力しか持たない上に、腕力や体力もないディルのような者たちには明るい未来など基本的に存在しなかった。
「下働きか、あるいは娼館行きか」
「余計なお世話だ」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。だが、相手は不意にディルの顎を捉えてニヤリと笑う。
「出来損ないだが、お前、顔は悪くないからな。ついでにその銀の髪とおかしな瞳は、物好きには高く売れるかもしれないぞ」
その手を振り払い、踵を返す。
「待てよ」
再び腕を掴まれる。普段は嫌味ばかり言ってくる相手が、今日に限っては妙にしつこかった。顔だけで振り向き視線を向けると、相手はほんのわずか、どうしてだか顔を赤らめてこちらを見つめる。
「今日で僕は十六になった。これからは正式に従者を雇えるんだ」
お前さえよければ、雇ってやらなくもない、と妙にしおらしい顔で言う。だが、ディルからすれば吐き気がするような申し出だった。何をどうしてそんな話になったのかわからないが、この目の前の相手はことあるごとに、ディルに絡んできた。それは言葉だけではない。威力はさほどではないものの、彼の持つ火器を慰みに向けられたことは一度や二度ではない。
ディルは袖をまくり、左肩に大きく残る傷痕を示す。
「これだけ傷つけても、まだ足りないって言うのか?」
その傷を見て、少年はどうしてだか自分が傷ついたような顔をする。ディルはその隙をついて、腕を振り払った。
「お、おい、待てよ! 話はまだ……っ!」
少年が言いかけると同時に、不意に雨が降り出した。急激に滝のように流れ落ちるその雨と、遠くから聞こえてくる雷鳴に少年が怯むのを見て、これ幸いとディルはその雨に紛れて駆け出した。少年は追っては来なかった。
雨は強く降りしきるけれど、ディルが望めばその身体を濡らすことはない。水を操るほんのわずかな
そうして逃げ込んだ森の中でうたた寝をしていたディルは、その不穏な気配に気付けなかった。何かの獣の唸り声にぼんやりとした思考が浮上する前に、気がつけば両腕を縛り上げられ、木に吊るされていた。かろうじて座り込める程度の高さではあったが、何ひとつ罪も犯していないというのに、まるで罪人のように。
「出来損ないのくせに、俺たちから逃げようなんて無理な話だ」
ディルを縛り上げた赤毛の少年は、そう言ってその顔に
目の前に経っているのは三人の少年。一人は先ほど会ったルドウィグ。それに、彼の取り巻きらしい少年たち。そのうち、ディルを縛り上げたのはにやにやと笑う赤毛の少年だった。
その喉笛をかき切ってやれたらいいのに、と昏い感情が湧き上がる。現実はただ、せめてその不愉快な顔から目を逸らすくらいしかできなかったのだけれど。
「ルドウィグ、どうする?」
「ラーシュ……どうするって……?」
ルドウィグは、どことなく所在なげに視線を逸らす。まるで、自分はそんなことは望んでいないのだとでもいうように。だが、ラーシュと呼ばれた少年は下卑た笑みを浮かべたまま、その背を押した。
「さあ、誰が主人か教え込んでやれよ」
「誰が主人だ。俺はそんなくそみたいな主人を持つつもりはない」
「偉そうな口を。お前だってもう十四歳になるんだろう? 魔力も腕力も持たないくせにどうやって生きていくつもりだ?」
ディルは自分の出自を知らない。「祈りの家」と呼ばれる孤児のための施設に、生まれてすぐに捨てられていたのだという。その「祈りの家」も十四歳の夏を過ぎれば出ていかなければならない。
魔力をわずかばかり持ち、
「お前たちには関係ない」
「生意気な奴だな。さあルドウィグ、遠慮せずに誰が主人か教え込んでやれよ」
「教え込む……って」
「まずはその身体に教え込んでやるのが一番だろ?」
へらへらと笑うその顔は不快極まりなかったが、どうやら声をかけられたルドウィグにとっても同様らしかった。
「……僕にはそんな趣味はない」
「へえ? じゃあ、俺にやらせてもらおうか」
「ラーシュ、何を……っ⁈」
ルドウィグが驚いた顔をしている間にもその少年はディルに近づき、そのシャツの前をあっさりと引き裂いた。ほんのわずかふくらみ始めた白い胸を見てごくりと唾を飲む。その胸を乱暴に掴むと、そのまま下肢へと手を伸ばしてきた。直接そこに触れ、だが相手が息を飲むのが伝わってくる。
「……お前、女じゃないのか?」
「だったらどうだと言うんだ」
言いながら、思い切り相手の腹を蹴り飛ばした。不意を突かれた少年は、勢いよく吹き飛ぶ。だが、それを見たもう一人の少年が容赦無くディルの顔を殴りつけた。口の中に血の味が広がる。その痛みに一瞬意識が飛びそうになって、だが髪を掴まれ、睨み付けられる。
「何様のつもりだ」
「襲われたから抵抗しただけだ」
「そんなことが許されると思ってるのか? 孤児の役立たずのくせに」
「役に立つかどうかはお前たちが決めることじゃない」
「すぐにわかるさ。女でもないなら、娼館にだって行けやしない。いや……むしろそういうのが好きな奴がいるのか?」
「エイリーク、よせ」
「なんだルド、お前だってそう思うだろう?」
「僕は……」
ルドウィグはディルを見つめる。その開いた胸元に視線が吸い寄せられ、だがすぐに逸らされた。
「何だ、怖気づいたのか?」
エイリークと呼ばれた少年がルドウィグを蔑むように見遣ると、もう一人の少年が腹を押さえながらもう一度ディルの前に立った。
「なら俺がもらってやるよ。優しくして欲しくなんてないようだから、それ相応に扱ってやる」
「もうよせ、ラーシュ」
「うるさい!」
さきほど蹴り飛ばした少年は、怒りに燃えた眼でこちらを見下ろしている。その眼差しを眺めながら、ディルは逆に冷えた頭で思考を巡らせる。
どうして彼らはそうも身勝手になれるのだろう。ディルは彼らと格別の関係があるわけではない。たまたま何度か街ですれ違ったことがあるだけで、以来、一方的な暴力に晒されている。彼らは火器を持ち、それを弱い者に向けることに疑問さえ抱かない。
吐き気がする。そんな胸の内を読み取ったのか、ラーシュと呼ばれた少年はディルの襟首を掴んでニヤリと笑う。
「力の弱い奴らは何をされても仕方ないんだよ。それがこの世界のルールだ」
そうして彼がディルを蹂躙しようとしたその時、突然、銃声があたりに響いた。
二発、三発と鳴ったそれは、ディルの襟首を掴んでいる少年の頬をかすめる。
「……まったく、最近のガキは節操がねえな」
視線を上げると、いつの間に現れたのか、数人の黒ずくめの男たちが木々の間に立っていた。森の中に隠れるでもなく、浮かび上がるその黒い外套の下まで全て黒の装束は、明らかに普通ではなかった。
そのうちの一人がこちらに歩み寄ってくる。誰も身動きができなかったのは、その手に黒光りする大きな銃が握られていたからだ。
歩み寄ってきた男は随分と背が高い。短い黒い髪に、鮮やかな金の瞳が目を引く。頬にはいくつもの傷があり、その身体は筋肉が無駄なくついて引き締まっている。隙のない身のこなしは、いかにも戦い慣れた様子だ。傭兵か何かだろうか。
彼はディルとラーシュの前にしゃがみこむと、ごく自然な動きで少年の額に銃を突き付けた。
「いいかい、坊ちゃん。力で誰かをねじ伏せようとするなら、自分も常にねじ伏せられる側に回ることがあるってことを、忘れちゃいけねえよ」
そう言って笑う表情は、一見、人懐っこくさえ見えるのに、その眼だけがその印象を裏切っていた。知らず背筋が冷える。
「お、俺……は……」
「失せろ」
低く言い捨てられて、ラーシュだけでなく、エイリークと呼ばれた少年も弾かれたように逃げ出した。ルドウィグだけはまだその場に留まっていたが、男は立ち上がると彼に銃を向ける。
「お前もだ」
冷ややかな眼差しと声に、ルドウィグはなおも何かをためらうようなそぶりを見せたが、男が引き金に指をかけたのを見て、あとずさると背を向けて駆け出していった。
「さて」
男は銃を下ろすと、いまだ両腕を拘束され、吊り下げられたままのディルの方に向き直る。その姿をまじまじと見つめてニヤリと笑った。
「悪くない眺めだが、俺好みに育つにはあと五年はかかるかな」
「子供相手に何言ってんだこの変態」
不意に聞こえた低い声に目を向ければ、長い黒髪を緩く結えた青年が、こちらを見下ろしていた。ディルに向けられている、藍色の眼はごく冷ややかだ。その青年は、金の双眸の男より少し背丈は低く線も細いが、それでも十分に筋肉のついた身体で、こちらも隙がない。そして、同じ黒装束に身を包んでいる。
「だからあと五年はって言ってんだろ」
「うるさい。大体こんなときに何に首突っ込んでんだ」
「しょうがねえだろう、あんなの見てほっとけるか」
「正義の味方気取りか? お前、自分がこれから何をしようとしてるかわかってるのか?」
「わかってるさ。だからって小さな善行を積み重ねちゃいけない理由はねえだろ」
笑って言いながら、男は懐から短剣を取り出し、縄を切ってディルの拘束を解いてくれる。それからそっとそのシャツの前を合わせた。思いの外、優しい手つきにディルの中で
「大丈夫か?」
声を出したら、それが溢れてしまいそうだったので、ただこくりと頷いた。男はどうしてだか優しげにその頭を撫でる。
「アル、お前、良からぬことを考えてないだろうな?」
「おお、さすがだな」
「あいつらも待ってる、行くぞ」
「けどよお、こいつ、ここに置いてったらまたあのガキどもに絡まれちまうんじゃねえか?」
そう言って、アルと呼ばれた男は、ディルに手を差し伸べる。
「おい嬢ちゃん、お前さん銃は持ってないのか?」
「持ってない。あと、俺は女じゃない」
「え……だってどっからどう見たって……ってああ、もしかして『未分化』てやつか? 種族は何だ?」
「知らない」
「知らない?」
「おい、アル。面倒ごとに首を突っ込むな」
藍色の瞳の青年が明らかに苛立った声でそう言ったが、当の男は気にした風もない。
「嬢ちゃん……じゃなかった、ええと名前は?」
「……ディル」
「ディルか。どうだ、お前さん俺たちと一緒に来るか?」
「アルヴィード!」
「何だよイーヴァル、うるせえなあ」
「後先も考えずに拾うな! 大体あいつらをどうするつもりだ」
「いざとなれば殺すさ」
離れた男たちには届かぬよう低く、だが平然と言ってのけた言葉を理解するまでに数秒かかった。
「どっちにしろ、事が済んだら邪魔になるだろ」
「……お前な」
不敵に笑う男に、イーヴァルと呼ばれた青年は深いため息をつく。だが、男は構わずディルに向き直る。
「どうする、ディル? 俺たちと一緒に来るなら、こいつをくれてやる」
そう言って差し出してきたのは、小さな銃だった。
「ちんけに見えるかもしれねえが、殺傷力は十分だ」
まるで玩具を自慢するように、明るくそう言う。人懐っこい笑顔で、それでもやはりその金の眼差しは底知れない光を浮かべている。
「おい、やめておけ」
イーヴァルが口を挟む。眉間にしわを寄せたその表情は、冷ややかだがどうしてだか、アルヴィードのそれより暖かく思えた。けれど、ディルの眼はアルヴィードの持つその銃に惹きつけられてしまう。
「あんたたちと一緒に行ったら、何をするんだ?」
どこかの屋敷の警備か、あるいは荒くれ者同士の小競り合いの鎮圧か、そんなところだろうか。そう思って深く考えずに尋ねたその問いに、だがアルヴィードはニヤリと不穏な笑みを浮かべる。
「よくぞ聞いてくれたな。俺たちの目的は——強盗だ」
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