31. 対面
イングリッドに送ってもらった場所から街までは、およそ徒歩で一日ほどの距離があった。日暮れまで歩いて到着したその街で一泊し、翌日から黙々と北の果てへと向けて歩いていく。
季節は夏の盛りだったが、このあたりの気温はあまり高くなることもなく、野宿の夜には、カラヴィスで購入した外套が役に立つほどだった。
「寒くないか?」
火を起こしてその前に膝をついたディルの後ろにアルヴィードが座り込み、その体ごと外套で包み込むように抱きしめられた。
「大丈夫だよ、これ暖かいし。アルヴィードこそ、風邪引くよ?」
「俺はそんなにやわじゃねえよ。お前は寒いの嫌いなんだろ?」
そういえば、そんな話をカラヴィスでしたことを思い出す。あの時は、どちらかといえば、気遣いや雰囲気の無さに怒っていたのに、今となってはこれだけ甘やかされることとの落差が少しおかしくて思わず笑ってしまう。
その笑みの理由を悟ったのか、アルヴィードが首筋に噛み付くように口づける。
「アル……!」
首筋を押さえてその顔を睨み付けたが、本人はただ楽しげに笑うばかりだ。やれやれとため息をつこうとしたが、その前に大きなため息が降ってきた。そちらを見ればロイが湯気の立つカップを差し出している。呆れたような顔はどちらに向けたものだろうか。
「ほらよ」
「この香りは……香草茶?」
「ああ、怪我は消えたみたいだが、あんたの体も変化したばかりだからな。あんまり無理するなよ」
「ありがとう。ロイっていいお父さんになりそうだよね」
そう呟くと、自身が持っていたカップに口をつけていた彼は盛大に吹き出す。
「何だ。藪から棒に」
「面倒見がいいし、掃除とか洗濯も普通にできるし、料理も美味しいし」
ディル自身は父も母も知らないが、旅の途中で宿を借りた家では、父親が家事が得意だと、概ね円満な家庭であることが多いようだった。
「嫁に来るなら
「何でずっとひとりだったの?」
「それを訊くかよ……」
「俺でも訊かねえな、さすがに」
男二人から呆れたように言われて、他意はなかったのだが、どうにも居心地の悪さを感じる。それでも、疑問のまま抱え込んでも仕方がないので素直に訊いてみる。
「三百年も、寂しくなかった? 私は……三年でも寂しかったよ」
俯いたまま、小さくそう付け足すと、二人が息を飲む気配が伝わってきた。ややして、後ろから抱きしめる腕に力がこもり、ついでに横からくしゃくしゃと、大きな手がディルの頭を撫でる。
「本当に、あんた可愛いな」
「やらねえぞ」
「お前さん、料理とか絶対できないだろ?」
「適材適所だ」
平然と言い放つアルヴィードに、ロイが呆れたような表情を向けた。それを見て思わず相合を崩したディルに、二人も結局ため息をつきながら笑っている。
ふと、左手の袖口から覗く黒い蔦のような文様が目に入ったが、こうして会話していると、一月後に自分が死ぬなど、やはり実感が湧かなかった。
それから予定通り十日ほどで、目的地のイェネスハイムへとたどり着いた。文様は肩からさらに鎖骨のあたりにまで伸びている。ロイはそれを見て表情を暗くしたが、何も言おうとはしなかった。そんな雰囲気を振り払いたくて、ディルは辺りを見回す。
わざわざ見所を探さなくとも、その街は相当に古い歴史を持つのか、カラヴィスのような派手さはないが、美しい大きな石造りの建物が整然と並び、街の中心には大きな塔のような建築物があった。
「あれは何?」
そう尋ねると、ロイが視線を向けてくる。
「時計台だ。もしかして、時計自体、見たのは初めてか?」
「日時計とか、水時計は見たことがあるけど、あれは違うよね?」
「ああ、あれはもっと複雑な何かだな。詳細は聞くなよ、俺にもわからん」
「三百年生きてても、知らないことあるんだ」
「得手不得手ってもんがあるんだよ」
そんな会話をしながら歩いているうちに、だんだんと建物が少なくなり、人通りも間遠になってきた。不意にアルヴィードがぴたりと隣に身を寄せてくる。
「どうかした?」
「嫌な気配がする」
長く伸びた黒髪の間から覗く金の双眸は、鋭い光を浮かべている。先日「狩人」に襲われたときの恐怖を思い出し、反射的に身を固くしたディルに、それに気づいたのかアルヴィードが腕を伸ばしてきて肩を抱いた。
「大丈夫だ」
耳元で囁く低い声は、柔らかく優しい。見上げると、強い眼差しがこちらを見つめている。射抜くようなそれに、やはり思わず見惚れると、ふっとその眼差しが緩んだ。
「さっさと片づけちまわなねえとな」
さらに低く、どこか熱を宿した声に、少し離れたところからため息が聞こえた。ゴホンと、わざとらしい咳払いが続く。
「今すぐどうこうってわけじゃないが、妙にざわついてるな。とりあえず急いであいつの城まで行っちまおう」
そう言ったロイの横顔も少し緊張しているように見えた。やや速度を上げたその歩みについていきながら、そういえば、と尋ね損ねていた疑問を投げかける。
「ねえロイ、呪いの根源って何?」
それが北の果てにあるから、ここまで足を運ばなければならないとそう言っていた。
「俺も詳しいことを知っているわけじゃない。だが、あいつが仕掛けたのはかなり大掛かりな術だ。何らかの触媒というか鍵となる何かがあるはずだ。それをこれから聞き出しに行く」
「例えば、その何かを壊せば、この呪いは終わる?」
「正直わからん。だから、まずあいつに話を聞かないことにはな」
その曖昧な答えに、不満げに鼻を鳴らすのが隣から聞こえた。それがあの黒い獣を思い出させて、ディルは思わず吹き出した。
「何だよ?」
「また黒狼の姿も見せてね」
「何でだよ?」
「暖かくて優しいし」
「まるで俺が優しくないみたいじゃねえか」
そういえば、同一人物というか中身は同じはずなのに、やはり受ける印象が全く違う。
「そういうわけじゃないけど、でも、どうしてかな。
ようやくそのことに思い当たって、その顔を見上げると、何となく気まずそうに目を逸らされた。こんなとき、
やはり人と獣では、本人が意識している以上に感覚が違うのだろうか。背伸びして、その髪に触れると、獣のそれよりも柔らかい。
「……何だ?」
「ちょっと懐かしくなって」
そう言うと、それでもその意味に気がついたのか、顎を捉えて頬をぺろりと舐められ、首筋に歯を立てられた。獣のそれとは明らかに違うその感触に、別の感覚でびくりと背筋が震え、ほんのわずか後悔した。
「やっぱりいいや」
そう呟くと、隣からは低く笑う声と、反対側からは深いため息が聞こえた。
ともかくもと、さらに街をまっすぐに北へと抜ける道を進んでいくと、やがて大きな城門が見えてきた。元は灰色であったらしいその城壁は、蔦と
「何か、前に来た時より荒れてる気がするな……」
「俺が出ていくときにはもうこんなもんだったぞ」
「ここ、本当に人が住んでるの?」
少なくとも、城門まで絡みついた蔦と荊棘を見る限り、相当長い間、開閉されていないのは確かだった。
「これじゃあ乗り越えるのも難儀だな」
「燃やしちまうか」
「それも一つの手だが、そう簡単に燃えないんじゃねえかな、これ」
男たちが物騒なことを呟いていると、だが、不意に風が吹いたかと思うと、門に絡みついていた蔦と荊棘がするすると解けて土に帰っていった。それから、ゆっくりとその門が内側に開いていく。
「歓迎されてるみたいだな」
「なら、もっと早くに掃除しときゃいいのに」
どこまでも緊張感のない二人の言葉に、やや内心で呆れながらも門の中に踏み込む。そこに広がっていた光景を見て、ディルは思わず息を飲んだ。
城門の内側は、外とは対照的に、美しく整えられていた。正面には噴水があり、その周囲には薔薇が咲き誇っている。
それを囲むようにいくつもの小さな花壇があり、鈴蘭や日輪花などが、大小色とりどりにあちこちで花開いていた。北に足を踏み入れてから、これほどの色彩を目にするのは初めてだった。
「驚いたな……」
ロイが、心底驚嘆しているような声を上げた。アルヴィードはさほど心を動かされた様子もないが、この辺りは感受性の問題のようだ。
「前はこんな風じゃなかったの?」
「もっと、鬱蒼として混沌としてたな。全体としてはまあ、美しいと言えなくもなかったんだが、こんなに整然としているのを見ると逆に何だか怖いな」
「——怖いとは失礼だな」
不意に投げかけられた声に目を上げると、少し先の噴水のところに、人影が見えた。その姿を見て、ロイが凍りついたように動きを止める。
「君たちがみんな出て行ってしまってから暇だったからね。丹精込めて世話をしたらこの通りだよ。我ながらいい出来だと思うんだけど、気に入ってもらえなかったのかな?」
こちらに歩み寄ってくるその人の姿を見て、ディルもまた、目を丸くした。
まっすぐな淡い金の髪に、すぐそばに咲く大輪の薔薇と同じ色の瞳。眉は美しく弧を描き、鼻梁は高く、唇はほんのりと紅に染まっている。ゆったりとした白い長衣に包まれた体は、その服の上からでさえ、十分に女性らしい線を描いているのが見てとれた。
口調はお世辞にも女性らしいとは言い難かったが、柔らかく響く高くも低くもない声は、耳に心地よい。一言で言って、誰もが惹きつけられるであろう魅力的な人物だ。
「アストリッド……?」
「やあ、初めまして、私の愛し子」
その言葉に、アルヴィードが顔色を変えた。ロイは何だか複雑な表情を浮かべている。
「おい、アストリッド……!」
「何だい、アルヴィード? ああ君も、随分大人っぽくなったねえ。どうだい、ちゃんと出会えただろう?」
「頼むからそれ以上、口を開くな」
「どういう意味だい?」
「そのまんまの意味だよ」
「せっかく娘に会えたのに、口をつぐめと?」
不思議そうに首を傾げるアストリッドの言葉に、今度はディルが息を飲む番だった。
「……娘? 愛し子というのは、世界全部を愛しているから、とかそういう話じゃなくて?」
アルヴィードが右手で額を押さえて天を仰いでいる。ということは、彼は知っていたのだろうか。でも、一体何を——?
「こんなところで立ち話も何だから、うちへどうぞ」
「うち?」
振り返って指し示したのは、荘厳な城だった。
「——これが、うち?」
「三百年前に、俺も同じことを心の中で突っ込んだよ」
ぽんぽんと、ディルの頭を撫でながら、ロイがそう笑った。
アストリッドに誘われ、たどり着いたのは思いの外、温かみのある城の中の一室だった。誰かの寝室なのか、奥には大きな寝台があり、窓際にはテーブルがしつらえてある。そこには温かそうな料理と、葡萄酒が用意されていた。
「どうぞ。ああ、外套は適当にその辺の長椅子の上にでも置いておいてくれていいよ」
言われるがままに、外套を脱ぎ、椅子にかけたが、どうにも落ち着かない。その気配を察したのか、アルヴィードがそばに寄り添って、ディルの肩を抱く。
「大丈夫か?」
「……よく、わかんない」
「だろうな」
その顔には、珍しく困惑するような表情が浮かんでいる。しばらく何かをためらうように視線をさまよわせた後、ディルを抱きしめると、耳元で囁く。
「運命なんて、どうでもいい。俺はお前を愛してる。それだけは、真実だ」
あまりにまっすぐな言葉に、その顔を見上げると、どうしてだか切なげな眼差しがこちらを見つめていた。
「アルヴィード……?」
名を呼んで問いかけようとしたが、後ろから美しいが、場違いなほど底抜けに明るい声が割って入った。
「よかった、私の祝福は気に入ってもらえたみたいだね」
「うるせえ、黙れ」
「アストリッド、あんた一体何をしたんだ?」
アルヴィードのあまりに険しい声に、ロイが驚いたように声を上げる。
「おっさん、聞くな」
アルヴィードは険しい眼差しのまま、アストリッドを睨みつけるように見つめている。アストリッドは首を傾げたが、それでもディルの視線に気づくとにこりと微笑んだ。その表情は、無邪気で美しい。
「黒狼の里が焼き払われ、彼は同胞の全てを失った。ロイ、君も相当に怒っていただろう?」
「まあな」
「だから、黒狼がその血を継げるように、祝福を用意したんだ」
「アストリッド、黙れ」
いっそうアルヴィードの声が鋭くなる。だが、アストリッドは構わず続けた。
「
美しい人だった、と言う。遠い昔に黒狼と交わったことのある祖先を持つが、ごく普通の人間として育ち、朗らかで誰にでも優しく、誰からも愛される人だった。その美しい容姿と気質はきっとその子にも受け継がれるだろうと思われた。
だから、半年かけてその人を口説き落とし、そうして、その彼のために女性に分化し、その子を身篭ったのだと。
「そうして、生まれたのがあなただよ」
名前を聞いてもいいかな、とその美しい人は言う。ただただ純粋で美しく、何の疑問も抱かずに、ディルを産んだと言ったその口で、その名を問う。
その意味を、この目の前の相手は、本当にわかっているのだろうか?
——わかっていないのだ、と気づいた瞬間、目が眩むほどの怒りを感じた。
「
「そうだよ?」
「そして、狭間の世界に放り出したの?」
「あなたは精霊の私と人間の混血だからね。狭間の世界で育つのが適当だろうと思って。『祈りの家』はそういう子供たちのために存在するだろう?」
当然だろう、と言わんばかりの顔で。そこには、後悔も申し訳なさの欠片もない。当たり前のことをしただけだ、と心の底から信じているようだった。
「俺は、あなたの道具じゃない……!」
叫んだディルに、アストリッドは驚いたように目を見開いた。呆気に取られているその表情に、さらに苛立ちが募る。
「生まれてすぐに『祈りの家』の前に捨てられて、名前どころか自分が何なのかも知らずに、みんなに虐げられて十四歳まで生きてきた……! イーヴァルとアルヴィードが俺を救い出してくれるまで、ずっと辛かった。あなたはそれが当然だって、そう言うの⁉︎」
「ディル」
アルヴィードがディルを抱き寄せようとした。だが、その手を振り払ってディルはまっすぐにアルヴィードの顔を見つめる。
「アルヴィードは知ってたの? 俺が、あなたのためにつくられて、あなたに出会うために狭間の世界に捨てられたことを⁈」
「違う、そうじゃない」
「何が違うの⁉︎」
叫んだ途端、アルヴィードがひどく傷ついた顔をした。その表情で、ようやく我に返った。彼は言っていた。「愛している」と。その言葉に嘘はないとわかっている。
それでもその場にいたら、もっとひどい言葉を投げつけてしまいそうだった。自分の中に渦巻く激しい感情を抑えきれず、拳を握りしめると、部屋から飛び出した。
こうやって逃げ出すのは何度目だろう。ようやく何かを手に入れたと思ったら、すぐに掌を返される。あるいは、そうではないのかもしれない。ただ、自分が信じ切れないだけで。
城を飛び出してその庭の奥へと駆け込んだ。気がつくと、また、泉の湧く深い森の中にいた。城壁を越えてはいないから、まだ城の敷地内ではあるのだろう。
近くの木にもたれて座り込む。自分に母親が存在するなんて、考えもしなかった。だから、別に優しい言葉をかけて欲しかったわけではないはずだ。それでも、平然と事実を語り、名を尋ねてくるその姿を思い出せば、じわりと怒りが滲む。
あの日々は何だったと言うのか。これほど荘厳な城に住み、圧倒的な力を持つと言うあの美しい人が母親だというのなら、なぜディルは孤独に生きてこなければならなかったのだろう。
ぼんやりと泉を眺めていると、いつかのように、ぱきりと枝を踏む音が聞こえた。目を向けるまでもなかった。それでも、彼でさえも今は受け入れる気分にはなれなかった。膝を抱えるようにして、顔を伏せる。
「来ないで」
次に一人で泣いていたら、遠慮はしない、とその人は言っていたから。
「そういうわけにもいかねえだろ」
「泣いてない」
「そういうつもりで来たんじゃねえよ」
ため息とともに、草を踏んでこちらに近づいてくる気配がする。その大きな手が、頭にのせられた。
「あいつらは不器用でな。こういうときにとっさに動けねえんだよ」
「……あなたは来てくれるのに」
「年の功と、下心だな」
笑う気配に顔を上げると、ひどく優しい瞳がこちらを見つめていた。どうしても耐え切れず、涙がこぼれる。それでも、彼に甘えることはできないと思った。もう、ディルは選んでしまったから。
首を振ったディルに、困ったように笑って隣に座り込むと、ロイはその頭を自分の胸に抱き寄せた。
「男気と理性を大盤振る舞いしてやるから、今は甘えとけ」
その言葉に、最後のたがも外れて嗚咽が漏れた。自分を包むその腕に安堵し、その胸元を掴んで、それでも声だけは何とか押し殺す。
「思いっきり泣いちまってもいいんだぞ」
優しい言葉に、胸が締め付けられて、涙が余計に溢れてくる。なぜ泣いているのか、自分でもわからなくなるほどに。
ロイはただ、ディルの涙が止まるまで、その背を撫で続けてくれていた。
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