15. Interlude 〜誘惑〜 (*)
ディルの様子がおかしい、と彼が気づいたのは
翌日の朝は、目が覚めるといつもと変わりがなかった。だが、一日中歩き続け、日が沈み、夜が更けてくるとまた、この世の終わりのように昏い眼をして、膝を抱え込んだ。
どう見てもその理由はあの黒い獣の不在だった。確かに、彼がディルと出会ってから、あの獣はずっとディルと一緒にいた。眠る時は必ずそばに寄り添い、時に夢にうなされるディルをずっと見守り続けていた。
しかし、それはごく最近のことのはずだ。少なくとも三年ほどの間、ディルは一人で旅をしてきたと言っていた。それなのに、この変わりようはどういうことだろうか。
森の中、木の幹にもたれて座り込んだ彼の胸に頭を預けて眠るその寝顔を見ながら、ロイはやれやれとため息をつく。眼を閉じていれば、尚更にその顔は美しく、触れる身体はいまだ完全な女性ではないとはいえ、十分に柔らかく温かい——正直、拷問だ。
野宿がいけないのかもしれない、と考えて、翌日は近くの街に寄ることにした。最初の目的地のカラヴィスまではまだ二日ほどある。その手前の、それでもまあまあ大きな街に足を踏み入れたのはその日の夕刻だった。
「今夜は宿に泊まるぞ」
「何で?」
「あいつもいないし、俺はあったかい飯が食いたいし、たまには寝台で寝たいんだよ」
ついでに言わなかったが、この街には立派な娼館がある。そろそろこの熱を散らしておかないと、どうにもうっかりあとであの獣に食い殺されるようなことをしでかしてしまいそうな気がしていた。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、ディルはここ数日の中では比較的落ち着いた表情で街を眺めている。
「なんか食いたいものとかあるか?」
「別に何でも」
「じゃあ、宿を決めてから、飯食いに行くか」
ルーデンという名のこの街は、北への街道ではカラヴィスに次いで大きな街だ。比較的近い場所にあるが、ルーデンは市場や娼館のある、いわゆる普通の都市だ。カラヴィスはまた別の特色がある。
ほどほどの宿を確保し、宿の亭主に教えてもらった酒場へと足を運ぶ。旅人と地元の民が入り乱れるその酒場は、程よい喧騒と適度な値段でうまい料理が食べられるとの評判通り、ロイは久しぶりに温かい料理と酒を満喫した。視線を向ければ、ディルも静かに料理を口に運んでいる。
喧騒に満ちた酒場の雰囲気とは対照的な、静謐な横顔に、ふと、初めて出会ったあの時のことを思い出した。
「今夜は歌わないのか?」
唐突な彼の問いに、ディルは少し驚いたように目を見開いたが、肩をすくめながら、小さく首を横に振る。
「今のところ路銀に困ってないし」
「もったいねえな」
そう言うと、今は穏やかな藍色の瞳が不思議そうに見返してくる。そういえば、初めて出会った時に見た瞳も、こんな色だったと思い出した。流れるような銀の髪と静かな瞳と、高く低く響いた透き通るような歌声と。
あの時、追いかけていなかったら、今ここにこうして二人でいることもなかったはずだった。恐ろしいほどに冷ややかな表情で男たちを屠った姿と、運び込んだ彼の家の寝台で子供のように涙を流していた顔。どちらもがディルの本性で、その二面性を矛盾なく抱えているのだろうと思っていたのに。けれど、実際のところは、ただの——。
そこまで考えて軽く頭を振る。そこに踏み込んでしまえば、もう戻れなくなりそうな気がしていた。
「あんたなら、吟遊詩人として立派にやってけると思うがな」
じわり、と胸の奥に浮かぶ熱を押し隠して、杯に口をつけながらそう言うと、ディルは彼の内心など気づいた風もなく、ただ首を傾げた。
「人目を引くと、面倒事の方が多いよ」
「用心棒を雇うか?」
「……本当に必要な時はね」
ようやく少し微笑む。その柔らかい笑みに、心臓がまたおかしな鼓動を打ったのを自覚して、酒を呷る。そんな様子にまた首を傾げながら、ディルはそういえば、と尋ねてくる。
「カラヴィスまでは、あとどれくらい?」
「のんびり歩いても二日ってとこだな。ほぼ隣街みたいなもんだ。だが、あっちは魔術が盛んで、どっちかっていうと魔術絡みの商売や研究が主な街だ。うまいものを食うならこっちの方が確実だな」
「へぇ」
「自分で訊いておいてその興味のない返事はどうかと思うぞ」
「……ごめん」
それから、少しためらうように視線をさまよわせる。何となく、何を聞きたいのかはわかったが、杯を傾けながら、あえて話し出すのを待った。
「アルは、カラヴィスにいるんだよね?」
「おそらくな」
「何をしているんだろう」
その瞳はどうしてだか揺れている。不安か、嫉妬か、そんなところだろうか。相手は魔女だし、対象は獣だ。その正体を知らないはずのディルが嫉妬というのもおかしな話だが、そうとでも考えなければ、この不安定さの説明がつかない。本当は、あの獣の正体にもう気づいているのだろうか。
「あんた、アルのこと、どう思ってるんだ?」
「どうって、頼りになる獣だと思ってるけど」
「それだけか?」
「他に何かあるの?」
その表情に嘘や隠し事はなさそうに見える。だとしたら、完全に無自覚で無意識ということか。どちらかというと、そちらの方が面倒そうだ。
ともかくも、あまり夜が更けないうちにと食事を切り上げて、宿へと戻る。二人部屋で、寝台も二つ。ディルは早々に寝台に潜り込むと、あっという間に寝息を立て始めた。野宿の日々には慣れているとはいえ、やはり疲労が蓄積していたのだろう。
穏やかに眠るその寝顔を眺める。固く閉じられた瞼の周りを、銀の睫毛が烟るように縁取り、薄い唇はやや開いてこちらを誘っているように見えた。
その頬に思わず手を伸ばしかけて、ぎりぎりで自制する。あれと死闘を繰り広げるのはさすがに御免被りたい。ひとつ頭を振って、財布だけ取り出すと、彼は部屋をそっと滑り出た。
幾度か訪ねたことのある馴染みの娼館で、適当に見繕った女と寝台に転がり込む。久しぶりに直接触れる柔らかい肌と香りは、文句なく心地よく、しばらくは面倒事をきれいさっぱり忘れて、そのひとときを愉しんだ。
だが、どうしてだか真夜中に眼を覚ましてしまった。わずかな蝋燭の灯りに浮かび上がる隣の女を見る。なかなかの美人で機転もきき、体の相性も悪くない。何ならもう二、三日滞在してもいいくらいだ。だが、それでもふと、一人で部屋に残してきた旅の連れを思い出してしまった。
「どうしたの?」
しなだれかかる腕に名残惜しさを感じているのに、気がつけば寝台を降りてしまっている自分にため息をついた。
「またな」
その頬に口づけて、少しばかり多めの金を置くと、身支度を整えて部屋を出た。
星が冴え渡る空は、まだ夜明けからは程遠い。
「ったく……」
戻ったところで、ぐっすり眠っているはずだ。そう、頭では考えているのに、ちらつくのは、寝台で膝を抱えてうずくまる姿だ。それがただの妄想なのか、
ため息をつきながら宿の部屋へ戻ると、びくりと何かが動く気配がした。ああくそ、と内心で毒づく。戻ってくるべきではなかった。
寝台を見れば、まだ半分にも満たない月明かりの下、ディルが膝を抱えて丸くなっていた。引き寄せられるように、寝台の端に座り込むと、顔を上げる。その眦には明らかに涙の跡があった。
「どうした?」
「何でもない」
わずかに震える声と、揺れる藍色の瞳は、彼の理性を焼き切るのに十分だった。その頬に触れる。顎を捉えて顔を寄せると、だが唇が触れる直前、ディルが口を開いた。
「ロイ」
「何だ?」
「誰かと一緒だった?」
移り香でもしたのだろうか。しまった、と顔に出たが、ディルはどうしてだか、ほんの少し苦しげに眉根を寄せた。それから、彼の頬にその白く柔らかな手がかけられ、ゆっくりとその美しい顔が近づいてきて向こうから唇が重ねられた。わずかに開いたその唇の柔らかさに今度こそ理性が弾けとんで、そのまま押し倒した。眼を閉じ、貪るように何度も、角度を変えて口づけながら、その胸元に手を伸ばす。開いたそこには、小ぶりながらも確かなふくらみがある。
それから下肢に手を伸ばした。わずかに存在する男の徴を無視して、その奥に触れると、びくりと腰が震えた。
目を開けて改めて見れば、その瞳は潤み、だが揺らいでいる。
「どういう心境の変化だ?」
尋ねるべきではないとわかっていたのに、そんな言葉が口をついて出た。ディルはほのかに上気した頬で、しばらく視線をさまよわせた後、ためらいながら口を開く。
「あなたに抱かれれば、夜、そばにいてくれる?」
——たったそれだけの望みのために、己を差し出そうというのか。
ほんの小さな望みのために、懐に入れてくれた相手の行為をすべて受け入れようとする。そう
誘う眼差しに、もっと触れたいというはっきりとした欲望を何とかねじ伏せる。ひとつ息を吐いて身を起こすと、その身体を抱き寄せた。頬に触れる柔らかな銀の髪と細い肩にくらりと目眩がしたが、それも抑えつける。
「して欲しいことがあるなら、素直にそう言え。そんなことのために自分を安易に差し出そうとするな」
先ほどまでその欲望を
「そばにいて、抱きしめて欲しい」
それは、どう聞いてもこの上なく男を誘う言葉なのに、そうでないことがはっきりとわかってしまう我が身が悲しい。
望まれるままに、しばらくそうして抱きしめていると、やがて穏やかな寝息が聞こえてきた。涙の浮かぶその顔は、それでももはや子供ではなく、どちらかといえば、はっきりと扇情的だ。
この身体を押し倒し、欲望のままに快楽を与えたらどうなるだろうか。自分の与える快楽に喘ぐその姿態は容易に想像できてしまい、じわりと自分の中の熱が高まるのを感じて、全力で後悔した。
「こんな日に限って、なんで
いてくれれば、この状況にも理由が付けられるのに。
これだけお膳立てされて食わないなど、普段の自分からは絶対にあり得ない展開だ。いつの間にか、お人好しの仮面に慣れきってしまったのだろうか。
そんな風に、戻ってきたことをひたすら後悔したが、それでもまた目覚めた時にひとり取り残しておけば、あんな顔をされるのかと思うと離れることもできない。
深い深いため息をついたが、夜明けはまだ遠そうだった。
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