14. 魔女

 旅をすることには慣れていた、というよりはもはや生きることと旅をすることは、ディルにとってはほぼ同じことだった。けれども、一人で黙々と歩く旅と、何かといえば声をかけてくる相手がいる旅は、随分違うものだと改めて感じざるを得なかった。


「晩飯どうする?」

 夕焼け色から藍色に変わりつつある空と、同色のディルの瞳を眺めながら、どこぞの夫婦がかわすような問いかけに深いため息をつく。黒い獣は、狩りにでも出かけているのか、先刻からしばらく姿を見ていない。

「選択肢、あるの?」

「干し肉も飽きたしなあ、そろそろ柔らかい肉が食いてえな」

 まだ旅を始めて十日も経たないというのに、そんなことを言い出す。

「この辺に街なんかあるの?」

「いや、まだ先だな。あいつアルが何か狩ってきてくれねぇかな」

「頼めば獲ってきてくれそうだけど」

 黒い獣はあまり食事の様子を見せない。ディルが分け与えれば人と同じものを食べるが、しばらく姿を消した後は食べないこともあるので、自分で何かを獲ってきて食べているのだろうと思う。

「それがダメなら、あんたでもいいな」

「美味しくないと思うよ?」

 先日噛まれた手首を見ながらそう答えたが、ロイは何やら意味深な眼差しで首筋に顔を寄せてくる。

「そうか? この首なんてすげえうまそうだぜ?」

 そう言って、口を開いてかぶりつこうとする。ディルはやれやれとため息をついて、首の反対側を手で押さえる。

「そういえば、アルにも食いつかれたっけ。あいつに舐められるとなんか変な感じがしたな」

「……わかってて言ってんのか、どっちだ?」

「ロイは本当にわかって欲しいの?」


 今度はまっすぐに見つめて問い返すと、驚いたように目を見開いた。正直にいえば、そういう行為をしたことがないだけで、その手の欲望を向けられることには実のところ慣れていたし、かわす術も覚えている。ただ、これまでは酒場か、せいぜいが一夜の宿を請うた相手に迫られるくらいだったので、適当にあしらって逃げ出せばよかった。

 だが、こうして共に旅をする仲間となった相手からそういう眼差しを向けられても、正直どうしていいのかわからない。


「私はちゃんと断った。それでもそういう態度ことを続けるなら、一緒に行けない。それだけだよ」

「……手厳しいねえ」

「気を持たせてもいいことはないって、この三年で学んだんだよ」

 そう言うと、ロイはわずかにどこかが痛んだように顔を顰めた。その歩みが少しゆっくりになったのに気づいて足を止める。見上げた顔は、宵闇のせいばかりでなく陰っているように見えた。もうひとつため息をつくと、それに気づいて、ロイも足を止めて首を傾げた。

「何だ?」

「何を気に病んでるのか知らないけど、私がこの世界でひとりになったのは、私の選択が引き起こしたことだ。ロイのせいじゃない」


 彼は具体的には語ろうとしないから、その意味を全て知ることはできないけれど、言葉の断片からわかるのは、どうやら彼が大戦の後の和平条約、特に「盟約」に関わっていそうだということだ。

 「盟約」自体はディルにとっては迷惑極まりないものだったが、それでもそんなことは知らずに生きていくことだってできたはずだった。関わってしまったのは、どちらかといえばに出会ってしまったせいであり、そして、ディルはそのこと自体は後悔していない。あの時と同じ選択を迫られれば、何度でも同じ結果を選ぶだろう。


「優しいな。気遣ってもらっちまってるのかね?」

「違うよ、余計なお世話だって言ってるんだよ」

「可愛げのない口だな。塞いじまうぞ」

 顎をすくい上げられて、間近に見つめる青紫の瞳の色は深い。どこかで聞いた台詞だと思ってふと思い出す。

あの人アルヴィードも同じようなこと言ってたよ」

 独創性オリジナリティに欠けるね、と言ってその手を払いのける。

「そいつにそう言われて、あんたはその時どうしたんだ?」

「それで気が済むなら、別にいい、って言ったよ?」

「そこまで言われてて、かよ」

 呆れたような呟きに、なんだか苛立ちを覚えたが、それ以上踏み込んでもいいことはないと本能が告げていたので、そこで会話を打ち切ってまた歩き出す。


 元々、幼い頃から人付き合いらしい人付き合いをしたことがなかった。「祈りの家」での生活は、どちらかといえば群れのようなもので、暖かな触れ合いというようなものは皆無だった。学び舎でも、どうしてだか常に浮いていたディルは、ほとんど周囲の子供たちから親しげに声をかけられることはなかったし、むしろ大小様々な嫌がらせを受けることの方が多かった。

 誰もが閉塞した世界でのままならない日常に苛立ち、弱者へと当たり散らしていた。そんな環境で育ったから、ディルは自身が他者と正しく向き合う方法を知らないことには気づいていたが、それ以上どうすれば良いかもわからなかった。


 後ろから深いため息が聞こえたが、無視して歩き続ける。しばらく先に水の気配を感じ、道を外れてそちらに進むと、やがて小さな滝が見えてきた。後ろを振り向いたが、ロイの姿は見えなかった。

 ほんのわずか、胸の奥がざわめいたが、先見視さきみの力があると言っていたから、本当に必要であればそのうち姿を現すだろうと思い直した。

「一人でいることになんて、慣れてるのに」

 ほんのわずかにぬくもりを知ると、そうやってすぐ動揺する自分に呆れてしまう。彼が言っていた通り、三年前あのころから全く変われていないのかもしれない。


 頭を振って、服を脱ぐと泉に飛び込んだ。まだ夏の遠いこの季節、その水はひんやりと冷たかったが、どうにももやがかかったような頭と心が洗われるようで、却って心地よかった。その清らかな流れと静かに響く滝の音に、どこか懐かしい想いを抱きながら、滝に近づくとその先に何か光るものが見えた。不思議と惹きつけられる気がして、それに手を伸ばした時、だが不意に柔らかな声が割って入った。


「それに触れてはだめよ」


 はっと目を上げると、滝が流れる崖の岩の上に人影が見えた。ふわりと、まるで体重を感じさせない動きで滝壺の前に降り立つ。

「それは月晶石の結晶クラスターよ。いくら刻印が黒狼の噛み痕で弱まっているとは言え、直接触れれば台無しよ」

 細い月に照らされるその髪は豪奢な金、闇の中でもはっきりと輝いているようにさえ見える切れ長の瞳は緑柱石ベリルのようだ。真っ黒なドレスの開いた胸元からは、官能的なふくらみが覗き、赤い唇は濡れたように艶やかで、男を誘わずにはいられないだろうと思われた。


 その美女はディルの視線に気づくと、おやと少し驚いたような表情になる。

「あなた、その瞳……黒狼への贈り物ギフトね。どうりで……」

 何やらひとりでぶつぶつと呟くその人影をどうしたものかと暫し悩む。何しろディルは水の中で一糸纏わぬ姿だ。このまま出ていくのも憚られるが、こちらに敵意を持っているかもしれない相手を前に、このままでいるのも考えものだった。


 そんなディルの内心を見透かすように、相手はふいと視線を上げるとにこりと微笑んだ。どうしてだか、その笑みにぞくりと背筋が震える。

「とって食ったりはしないわ。そのままでは話しにくいでしょう。上がっていらっしゃい」

 そうは言われてもこちらにじっと視線を向けたままの相手の前で泉から上がるのも憚られた。

「後ろ向いていてもらえますか?」

「ちょっと残念だけど、あなたがそう望むなら」


 くるりと素直に背を向ける。ため息をつきながらもディルは泉から上がると水を払って手早く衣服を整える。髪はまだ濡れたままだったが、ひとまずはそのまま、目の前の相手に向き直った。

「で、あなたは誰なんです?」

「恩人にはまず自分から名乗るのが礼儀というものではないかしら?」

「恩人……?」

「月晶石に触れようとしていたでしょう。盟約をたがえた呪いを受けた人が、あれに触れるなんて自殺行為よ?」


 やたらと状況に詳しく、何だか厄介事の匂いがする。思わず回れ右をしたところで、見慣れた顔に行き当たった。

「ロイ、いつからそこに?」

「あんたが泉から上がったくらいからかな」

「見てたのか……」

「不可抗力だ。それに今更だろ?」

 意味ありげにニヤリと笑って片目をつぶるその顔にそろそろ一撃をくれるべきかどうか悩んでいるうちに、先に悲鳴が上がる。

「痛っ!」

 気がつけばいつの間にか戻ってきたものか、黒い獣ががっちりとロイの右足に噛み付いていた。もはや見慣れた光景に、ため息も出ない。

「……おかえり」

 その頭を抱いて顎を外させると、どこか不満げに鼻を鳴らしてから、もう一人の人物に視線を向ける。


 金の髪の美女はこちらを面白そうに眺めていた。

「あらあら、随分と懐かしい顔ぶればかり」

「何であんたがこんなところにいるんだ?」

 ロイがディルを庇うように一歩前に出て、女にどこか厳しい眼差しを向ける。その手が腰の剣にかけられているのに気づいて、ディルは目を見張った。だが、相手は動じる様子もない。

「そんなに警戒しないで。何だか予感がしたので様子を見にきたら、そのが月水晶に触れようとしていたから止めてあげたのよ」

「娘?」

「私から見れば、ね。まあそれはともかく、久しぶりね、ロイ」

「あんたは相変わらず化け物みたいな気配させてんな、イングリッド」

「本当に失礼なひとね。そんなだから生涯の伴侶も見つけられないのよ?」

「あんたに言われたくねえよ……」

 深くため息をつきながら、剣の柄からは手を離したのを見て、その顔を見上げると、ロイはどこか苦い笑みを浮かべる。

「古い知り合いだ。あんたの呪いそれについて、力になってくれそうな相手ってのがあいつだ」

「ああ、ま……」

 言いかけた口をその大きな手で塞がれ、ついでのように抱きすくめられる。

「死にたくなければその口は閉じておいてくれ」

 その表情は厳しかったが、泉で冷えた体に回された腕は暖かい。ふるりと震えたディルに、気づくとその腕の力が少しばかり強まった。もう一度見上げると、その眼差しがほんの少し微妙な色を浮かべている。だが、それについて言及するより先に、面白がるような声が投げかけられる。

「どうせ魔女だの化け物だの吹き込んでいるんでしょう? 失礼ね。それにしても、ロイ」

「何だ」

よ」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味。あなたも本当は気づいているんじゃないの?」

「知るかよ」

 ともあれ、と続ける。

「わざわざ御足労いただいたなら話は早い。こいつの呪いこれはどうすればいい?」

 ディルを抱いたまま、その左手首に触れながらそう問う。イングリッドと呼ばれた女は面白そうに笑った。

「あらあら、あなたのそんな顔が見られるなら、わざわざ出てきた甲斐があるというものだわ」

「無駄口はいい。何とかなるのか、ならないのか、どっちだ」

「『盟約』については、あなたが一番よく知ってるでしょう?だけど、まあそのままでは安全とは言い難いかしら」

「何か手はあるのか?」

「なくはないわね。けれど、その前に、少しばかり準備がいるわね……」


 何やら考え込んだ女は、すぐ近くに座り込んだ黒狼に目を向ける。

「それにしても、あなたいったい何をやっているのかと思えば……。いつまでそんな格好をしているつもり? せっかく出会えたっていうのに……」

 どうしてだか呆れたような声に、黒い獣はだが黙ったままちらりと目を向けただけで、ふいと視線を逸らせてしまう。

「らしくないこと。まあいいわ、ついていらっしゃい。悪いようにはしないわ。あの子の運命の鍵はあなたが握ってる。逆もまた然り、だけれどね」

 意味深な言葉は、まったくディルには理解が及ばなかったが、その言葉を聞いて黒い獣は物憂げに立ち上がると、その女の傍らに歩み寄った。イングリッドは側に立つその獣に、華やかな笑みを向ける。どうしてだか、ディルは胸にじわりと黒いもやがかかったような気がした。

「アル?」

「先に戻ってるから、あなたたちはゆっくりといらっしゃい。その頃には片がついてると思うわ」

 そう言って誰をも魅了せずにはおかないような艶やかな笑みを浮かべると、派手な呪文も効果も何もないままに、ふっと一人と一匹の姿はその場からかき消えた。



「消えた……?」

 どうしてだか、声が震えた。

「大丈夫だ、あいつは面倒な奴だが嘘はつかない。必要だというなら、その通りなんだろう」

 そう言って、ディルの体を離したロイのその胸元を、とっさに掴んでいた。

「どうした?」


 静かな森の夜は何度も経験してきたはずだ——なのに。


 小刻みに震えるディルの手に気づいたのか、ロイが表情を改める。

「あいつはあんたを置いて行ったわけじゃない」

「だって、もう夜がくるのに」

 自分でも思いがけなく溢れたその言葉に、ロイが目を見開いた。それから、そっとディルの頭を自分の胸に引き寄せる。

「まったくあんたは……」

 世話の焼ける、というその言葉は口には出さなかったが、はっきりと伝わった。


 それでも、ロイはディルを抱え込むと、一晩中その腕を離そうとはしなかった。

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