16. 再会

 翌朝目覚めると、隣の寝台には誰もいなかった。部屋の片隅に荷物は置いてあるから、先に朝食にでも出かけているのだろうか。


 窓から差し込む朝日はまだ上りきっていない。窓に映る自身の瞳はちょうど薔薇色に染まっている。バタン、と扉の閉まる音に眼を向ければ、ロイが入ってくるところだった。

「おはよう」

 声をかけたが、明らかに不機嫌な気配が全身から滲み出ている。

「ロイ?」

 声をかけたが、どうにも怪訝そうな顔をしている。ふと、その視線がテーブルの下の葡萄酒の空き瓶たちを捉えた。その数、三本。眼を見開いてまじまじとそれを見つめ、それから深いため息が聞こえた。

「——ディル」

 地の底から響いてくるような声に、思わず寝台の上で後退りする。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるその顔は、呆れと——明らかな怒りが入り混じった表情を浮かべている。

「まさかとは思うが、あんた昨夜、ひとりでアレを全部空けたわけじゃないよな?」

「ええと……」

「まさか、酔っ払って寝惚けてた、なんて言わねえよな……?」

 静かだが、その問いかけは明らかな怒りを含んでいる。

「……三本目は、まだちょっと残ってると思うよ?」

「そういう問題じゃねえ!」


 あーもう、くそっ!から始まり、聞くも耐えない罵詈雑言で、誰に対してか、ひとしきり口汚く罵ってから、じっとこちらを睨みつけるように見下ろしてくる。

「いいか、次はもう遠慮しねえからな。どんなに後悔しようとも、食っちまうから覚悟しとけよ!」

 何だかわからないが、大変に怒っているらしいことだけは伝わってきたので、神妙な顔をしてとりあえず謝っておく。

「ごめんなさい……」

 だが、返ってくるのは冷ややかな眼差しだ。

「何に謝ってんだ、ああ⁈」

 くそう、俺の純情を返せ! とよくわからないことを呟いている。


 昨夜はふと目を覚ました後、ロイも黒い獣アルもいないことに気づいて、寂しさを感じたことは覚えている。まだそれほど夜も更けていなかったが、ひとりでぼんやりしていると余計なことを考えてしまいそうだったので、宿の亭主に頼んで酒を何本か分けてもらった。

 飲み始めると、意外に爽やかな甘さで飲みやすく、ついでに酒と一緒に分けてもらった干した果物と塩っ気の強い焼き菓子を食べながら飲んでいるうちに、気づいたら二本の空き瓶が出来上がっていた。


 三本目の半ばを飲んだところまでは覚えているが、その後の記憶がないことに気づいた。どうやら酔い潰れたらしい、と判断する。だがそれだけにしては、ロイの態度が気になる。


「もしかして、何かやらかした?」

「知るか」

 そっぽを向いて、子供のようにふてくされている。何やら機嫌を損ねたらしいが、それでも部屋を出ていくわけでもないので、ひとまずは寝台から下りて空き瓶を片付ける。確認したところ、三本とも綺麗に空になっていた。

「それだけ飲んで、大丈夫なのか?」

 不意に薬師の顔になって、こちらを見下ろしてくる。

「わからないけど、何ともないみたい」

 元々あまりたくさん酒を飲む習慣がないし、ましてや前後不覚になるほど飲んだのはこれが初めてだった。そう言うと、ロイはさらに深いため息をつく。

「賢明だな。あんな状態、どうぞ好きにしてくださいといってるようなもんだ」

「あんな状態?」

「あんたは一日、黙って反省してろ」

 剣呑な眼差しで言い渡され、何をしでかしたのか気にはなったが、それ以上はひとまず口をつぐんでおくことにしたのだった。


 宿の食堂で朝食を済ませると、代金を支払って宿を出る。空は高く晴れ渡り、そろそろ夏の気配が近づいてきていることを感じさせた。

 それでも、元いた場所の気候に比べると随分涼しい気がする。

「北って、夏でも寒いの?」

 歩きながら尋ねると、まだ不機嫌な気配は完全には消え去ってはいなかったが、それでも、こちらを見下ろしながら答えてくれる。

「この辺りだと大して他所と変わらないな。カラヴィスよりもっと北、それこそイェネスハイムあたりは、冬はほとんど雪に埋め尽くされるし、夏でもまあ涼しいな」

「へえ、雪って見たことないな」

「あっちじゃ降らなかったのか?」

「少なくとも住んでいた街では降ったことはなかったよ」

「じゃあ、楽しみにしておくんだな。あっちじゃ、秋の初めでもたまに降る」

 楽しみに、無事にたどり着ければよいけれど、とは心の中で呟いておく。その心の声が聞こえたわけでもないだろうが、ロイが少し気がかりな眼差しを向けたが、何も言おうとはしなかった。

 そのままゆっくりと並んで歩みを進める。街を出て、野原と丘を越え、森を抜けて行く。


 だが、森の端に差し掛かった頃、不意にロイが何かを感じたかのように足を止めた。

「ディル」

 その声に確かな緊張を聞き取って、その背に身を寄せる。ゆらり、と木々の間から姿を現したのは、灰色の狼たちだった。その数、七頭。中心にいるのが群れの長だろうか。こちらを見据える琥珀色の瞳は、剣呑な光を浮かべている。

「狼って人を襲うんだっけ?」

「こんな昼日中から、しかも群れで襲うなんて、聞いたことがねえな」

 狼は基本的に、黒い獣アルもそうであったように夜行性のはずだ。だが、灰色の狼たちは明らかにこちらに敵意を向け、じりじりとその輪を狭めてくる。

「あんた、狼に恨まれるような心当たりは?」

 腰の剣を抜きながら、ロイが冗談まじりにそう尋ねてくる。その表情はまだいつも通り飄々としているが、この数の狼を前にして、さすがにどこか焦りがあるように見えた。

 いざとなれば、禁呪あれを使う必要があるかもしれない、と懐から短剣を取り出す。それを見たロイはだが、険しい表情になった。

「やめとけ。最悪俺がなんとかあんただけでも逃してやるから、それだけは使うな。それでなくとも俺たちは北に近づいてる。余計に何が起こるかわからん」

「でも……」

 なおも言いつのったとき、一頭が飛び出してきた。鋭い牙が目の前に迫ったが、ロイがすかさずその胴を薙ぐ。

「一刀両断、とは行かねえが、まあ年の功だ」

 ニヤリと笑うその顔は、お人好しの仮面が剥がれ、どことなくあの男を思い起こさせる冷酷な色を見せる。

「生憎と俺は昨夜からすこぶる機嫌が悪い。何が目的かは知らんが、かかってくるなら皆殺しだ」


 狼が人語を解すとも思えないが、その気迫だけは伝わったらしい。一瞬怯んだ風を見せたが、だが、うちの一頭が飛び出すと、残りも一斉に飛びかかってきた。ディルは、ロイの邪魔にならないように少し離れて、襲いかかってくる一頭の牙を短剣でなぎ払った。その爪が腕を掠めてわずかに血が流れる。

 くるりと綺麗に着地したその一頭に気を取られているうちに、横からもう一頭が顎を大きく開いて襲いかかってきた。とっさに左腕でその牙を受け止める。食いちぎらんばかりの力で食い込む牙に、脳天を貫くような痛みが腕から全身に走った。

「ディル!」

 そのままでは本当に腕ごと食いちぎられそうだ。痛みを堪えて何とか短剣を突き立てようとしたが、さらにもう一頭が右から襲いかかり、掠めた牙に短剣を持っていかれる。

 あまりの痛みで瞬間的に意識が朦朧とする。ロイの声が遠くから聞こえたが、彼もまた長らしい狼と対峙していてこちらに駆け寄る余裕はなさそうだ。腕から流れる血を見て、覚悟を決めようとしたまさにその時——。


 黒い大きな影が風のように現れ、一瞬の後、狼の顎がさらに腕に食い込んだ。だがすぐに、ディルを引きずろうとしていた力が急に消えた。痛みで霞む眼を何とか見開き左腕を見ると、狼の首から先がなかった。思わずぺたりとその場に尻餅をつきそうになったが、力強い腕に引き寄せられる。


「何やってんだ、馬鹿」


 その声に、びくりと全身が震えた。大きな手がディルの左腕に断末魔と共に食い込んだ顎を力づくで開いて放り投げる。飛びかかってきたもう一頭の顔を蹴り飛ばして、さらに別の一頭を軽々と斬り払う。

 最後に、ロイと対峙していたリーダーらしい狼に眼を向ければ、そちらも首を落とされていた。あたりには死骸が転がり、血の匂いが強く漂っている。


 急に静かになった森の中で、自分の肩を抱くその腕の主を、どうしても見上げることができなかった。


「大丈夫か?」

 動けないでいるディルより先に、ロイが駆け寄ってきた。その腕をとって袖をまくり上げる。

「ひでえなこりゃ……」

 狼の顎が食い込んだその腕には、黒い獣アルの噛み傷より遥かに深い傷が刻まれ、幾筋もの血が流れ出していた。

「左手は動くか?」

 問いかける声に応えようとして口を開きかけたが、ぐいと自分を抱いていた手に肩を引き寄せられた。まっすぐに、あの金の双眸がディルを捉える。

「助けてやったのに、礼もなしか?」

 こちらを見下ろすその眼差しは、ぞくりと背筋が震えるほどに鋭い。なのに、記憶にあるよりもさらに精悍になったその顔は、どうしてだか以前よりも遥かに柔らかい笑みを浮かべている。

「アル、ヴィード?」

 その名を呼ぶと、そのまま引き寄せられて近くの木に体を押しつけられた。戸惑う間もなく、その顔が近づき、唇が重なる。驚いて開いた隙間から、食いつかれるように、その舌が入り込み、さらに深く口づけられた。甘いような辛いようなあの匂いが強く香り、頭の芯が痺れるような感覚に、痛みも混乱も全てが曖昧になる。


 足から力が抜け、立っていられなくなって木の幹に体を預けたままずるずると座り込みそうになった身体を、強く抱きしめられた。硬い腕とその胸に、茫洋とする意識のまま、その顔を見上げると金の瞳は強く、不可思議な光を浮かべている。その顔がもう一度近づいてきたところで、だが後ろから呆れたような声がかけられた。


「お熱い感動の再会のところ申し訳ないがな、薬師として、傷の手当てをさせてもらってもいいかね?」

「後にしろ」

 低い、背筋も凍るような声に、だがロイは怯まなかった。

「落ち着けこのけだもの。狼に噛まれた傷は、やつらが病を持ってたりすると厄介だ。ディルそいつが後々苦しむ姿を見たくないなら、まずは手当てをさせろ」

 視線を向ければ、ロイは落ち着いた顔で、静かにこちらを見つめている。それは、確かに薬師の顔だった。

 苛烈な光を浮かべる金の双眸と静かな青紫の眼差しが交錯する。だが、折れたのはアルヴィードの方だった。盛大に舌打ちをしながらディルを抱く腕を解いてその場に座り込むと、その腕を引いて、後ろから抱きすくめる。そのまま、首筋に顔を埋めてくる。以前より伸びた黒い髪がふわりと頬を撫でた。


 それを見たロイは、どこかうんざりしたように深いため息をついたが、何も言わずにディルの前に膝をつくと、もはや慣れた手つきでその傷をあらためる。

「動くか?」

 もう一度問いかけられたその言葉に、ゆっくりと左手を握ろうとしたが、痛みで顔をしかめると、ロイはもう一度ため息をつく。

「噛み付いた状態のまま、首落とすとか無茶にもほどがあるだろう。食いついた状態で負荷をかければ顎はさらに食い込む、次から覚えおけ」

 厳しい眼差しは、ディルを抱きしめている男に向けられたものだ。だが、当の本人はまったく意に介した風もない。

「知るかよ」

「あのなあ、蜥蜴の尻尾じゃあるまいし、人の腕は千切れたら二度と生えてこねえんだよ! それに、あれだけの顎の力で噛みつかれりゃ、とんでもなく痛いはずだ。大事な相手なら、もう少しちゃんと思いやってやれ」

 思いの外、まっすぐな言葉に視線を向けると、ロイは不機嫌そうに、だが手際良く手当てをすると布を当てた後、太めの枝と一緒にきつく包帯を締め上げる。

「血が完全に止まるまではじっとしてろ。骨にひびが入っているかもしれないから、とにかく動かすな。それから、あとで熱が出るかもしれないが、その時はそいつに運んでもらえ」

 その眼差しは厳しいが、手つきは優しい。空いた手で、その大きな手に触れると、びくりと肩が震えた。ふっとその気配が緩んだ。それから、こちらを見つめて、いつもの癖のある笑みを浮かべる。

「誰が似てるって?」

「確かに、全然似てなかった」

「ああ?」

 不機嫌な声は後ろから。ほんのわずか微笑むと、ロイはディルの頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。

「この辺りに水場はあるか?」

 問われて、あたりの気配をさぐると水の気配に行き当たった。

「あっちの奥の方にしばらくいったところにあると思う」

「わかった。俺は水を汲んでくるから、あんたはここで大人しくしてろ」

 それから、とディルを抱いたままの男に視線を向ける。

「怪我人を襲うなよ」

「うるせえ、さっさと行ってこい」

 乱雑な口調と、鋭い眼差しに、だがやれやれとため息をついてロイは森の奥へと歩み去っていった。


 ——残されたのは、二人。

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