Ch.4 - A world of choice

17. それから

 ロイが立ち去った後、しばらくそのままじっとしていると、不意に左手を掴まれた。動いた拍子に激痛が走り、思わず呻き声が漏れる。

「痛むか?」

 苦痛で涙が浮かんだ眼で見上げれば、金の双眸には鋭さはそのままに、それでもどこか気づかう光が浮かんでいるように見えた。

「痛いに決まってる」

「あんなのに噛みつかれやがって……あれくらい避けろよ」

「あなたと一緒にしないで欲しい……」

 襲ってくる狼を正面から蹴り飛ばすような真似ができる相手の標準を求められても無理に決まっている。

「相変わらず、減らない口だな」

 言いながらも頬に触れてくる手つきはどこか優しい。まっすぐにこちらを見つめる懐かしい金色に思わず見惚れて、だがふと我に返る。

「アルヴィード」

「何だ?」

「今まで……何してたの?」

「何って……」

「ずっと、待ってた」

 ほんのわずか、その声の責める響きに気づいただろうか。だが、目の前の男は、怪訝そうにこちらを見つめ、それから首を傾げる。

「まさかお前、まだ気づいてないとか言うつもりか?」

「どういうこと?」

「どれだけ思い込みが強いんだよ?」

 まったく、と呆れたように言いながら、そっと抱きしめる腕はそれでもひどく優しい。かつての不器用な抱擁を覚えているディルは、やはり戸惑わずにはいられない。

「アルヴィード、何か変」

「ああ?」

「何か、優しい……?」

「お前が抱きしめて欲しいって言ったんだろうが」

 それは、黒い獣アルに密かに告げた願いだ。どうしてこの男が知っているのだろう。見上げたが、その金の眼差しは、どこか遠くを見つめている。その横顔は静謐で、まるで別人のように見えた。もっと傍若無人な印象しかなかったはずなのに。

「やっぱり変だ」

「うるせえな。優しくして欲しいのか、して欲しくないのか、どっちだ?」

 不機嫌そうにそう言う顔に、らしくない、と思ったが、考えてみれば一緒にいたのはほんのわずかな時間だ。ディルは彼のことをほとんど何も知らないに等しい。それなのに——。


「迎えにきてくれて、ありがとう」

「当たり前だろ」


 躊躇いのない答えに、三年という長い間、ひとりきりで待ち続けていた時が一気に満たされたような気がした。

 自分でも驚くほど唐突に胸が締め付けられ、不意に涙が溢れる。それを見て、いつかのようにアルヴィードはぎょっとしたような顔になる。それでも、今度はディルの頭をその胸に引き寄せて、髪に顔をうずめた。

「何で泣くんだよ」

 その声は、困惑をあらわにしているが、それでも優しく響く。そのせいで、さらに嗚咽が洩れた。小さな子供のように泣きじゃくるディルに、アルヴィードは以前と同じように戸惑っていたが、それでも柔らかく抱きしめて離そうとはしなかった。


 ひとしきり泣いて、いい加減疲れて顔を上げると、呆れたような金の瞳がこちらを見下ろしていた。

「……あの」

「いつまで泣いてんだ、お前?」

 相変わらず情緒を解さない物言いに、呆れるより思わず笑ってしまう。

「その方が、あなたアルヴィードらしい」

「どういう意味だよ」

 その機微は伝わったらしい。剣呑な光を浮かべる金の眼差しに、それでも微笑んで改めてその顔を見つめれば、その黒い髪は肩を覆うばかりに伸び、頬と額には見慣れぬ傷が増えている。

 右手を伸ばしてその傷に触れた。

「アルヴィードも、大変だった?」

 問いかけると、男はその右手を握り締め、どうしてだか不敵に笑う。

「ああ。お前がじっとしてないから、見つけるのに時間がかかっちまった」

 迷子になったら動かないなんてのは、鉄則だろう、と笑って続ける。

「そのせいで、この世界の半分を駆け回る羽目になった」

「そんなに……?」

 それほど移動したつもりはないのだけれど。

「しょうがねえだろう、この匂いしか手がかりがなかったんだから」

 そう言って首筋に顔を寄せる。触れる髪と唇はどうしてだか、あの獣を思い起こさせた。

「アル、どうしてるんだろう……」

 呟くと、またアルヴィードは呆れたような眼差しをこちらに向ける。

「俺より、獣の方がお気に入りか?」

「だって、優しいし。それに変なことしないし、言わないし」

「そりゃ腕も使えねえし、喋れねえからな」

 ひとつため息をつくと、身を起こして、それからディルを抱き寄せる。

「だが、黒狼アルじゃお前を抱きしめられない」

 その顔に浮かぶ苦い笑みは、どうしてだろうか。


 しばらくそうしてじっとしていると、ふとアルヴィードはまっすぐにディルを見つめて何やら微妙な表情になる。

「そういえば、お前、あのおっさんのこと……いや、やっぱいいわ」

 言いかけた言葉を自分で打ち切って、伸びた髪をかき上げながら、こちらを見下ろす。全身を値踏みするように見つめてから、深いため息をついた。

「いつになったら、お前ちゃんと成長するんだ?」

 『成長』の意味は、その手のことに疎いディルにも明らかだった。

「あと二年くらいじゃない?」

「そんなに待てるかよ」

「自分で言ってたじゃないか。『俺好みに育つまで、あと五年くらいか』って」

「……言ったか? そんなこと」

「言ったよ。それから、強盗の仲間に誘われて、酷い目に遭った」

「選んだのはお前だろう?」

「そうだよ」

 今は幾重にも包帯を巻かれて見えない左腕の、この呪いさえも。その視線に気づいたのか、その腕を見て鋭くなった金の眼差しをまっすぐに受け止める。

「もう一度、あの時に戻っても、同じことを選ぶよ」

「馬鹿言え、あんなこと二度とさせるか」

 吐き捨てるように言う声には、はっきりと怒りが滲んでいる。

「アルヴィード……」


 強い光を浮かべたままの金の瞳が間近に迫る。気がつけば、草の褥に押し倒されていた。地面に左腕が触れ、激痛が走る。だが、そんなことには構わず首筋に噛み付くように口づけられた。その唇がゆっくりと、さらに移動していく。甘い匂いに、ぞくりと背筋が震えたその時——。


「怪我人を襲うなって言っただろうが!」


 地の底から響くような低い声に目を開けると、誰よりも俊敏なはずのアルヴィードが首根っこを掴まれていた。怒髪天を突く、の勢いで、その声の主——ロイはそのまま男を放り投げた。

「あんたもあんただ! 流されすぎだ!」

 あまりの剣幕に思わず首を竦める。ロイは厳しい表情のまま、ディルの左腕に触れる。そこには、再び血が滲んでいた。

「動かすな、って言ったよな?」

 剣呑な眼差しはそれでも、他でもない、誰よりもディルを心底気づかう薬師の顔だ。

「ご、ごめんなさい」

 肩を落としてそう言ったディルに、ロイは何度目かの深いため息をつく。

「骨まで傷ついてるのに動かせば、下手すりゃ折れちまう。そうなったら痛みもこんなものじゃ済まないぞ?」

 包帯を一度取り、傷の状態を見ると、もう一度添え木をして、固定した上に包帯で締め上げられた。もはや呪いの痕跡さえ見えないが、その締め上げでずきりと強い痛みが脳天を貫く。

「ロイ、痛い」

「痛くて当たり前だ」

 声も表情も厳しいが、それでも袋から何かの粉薬を取り出すと、カップに入れて水で溶いて差し出してくる。

「飲め」

「これ何?」

「痛み止めだ」

 差し出されたカップを黙って飲み干す。あまりの苦味に顔をしかめると、今度は口に何かを放り込まれた。それは、ひどく甘い。

「何これ?」

「飴玉だ」

 表情は厳しいままなのに、そうした気づかいはいつもと変わらない。

「ロイは、優しいよね」

 その言葉に、だがなぜかますます苦虫を噛み潰したような顔をする。

「うるせえ。いいからもう動かず寝ちまえ……と言いたいところだが、さすがにこんなところじゃ無理か」

 周囲には狼の死骸が転がっている。確かに、野営するのに最適な場所とは言い難い。ロイは肩を竦めてから、先ほど放り投げた男の方に視線を向ける。彼は、面白くなさそうに地面であぐらを書いて座り込んでいた。

「おい」

「何だ」

「ディルをおぶってやれ」

「何でだよ?」

「お前がやらないなら、俺が背負うがいいのか?」

 冷たく言い放たれ、アルヴィードは何か言いかけたが、揺らがないその青紫の瞳にぶつかると、不貞腐れたようにそっぽを向いてただ頷いた。珍しいこともあるものだ、とディルは少し驚いたが、口には出さないだけの分別はあったのだった。


 ディルの状態から、結局遠くまで移動するのも厳しいということで、先ほどロイが見つけた泉の近くで休むことになった。

 木にもたれてぼんやりしていると、ややして頭の芯がぼうっとしてきた。それほど寒くはないはずなのに、まるで真冬の寒空に放り出されているように体が震えてくる。それに気づいたロイが自分の外套でディルを包んだ。

 その額に手を当てると、眉間にしわを寄せる。

「熱が上がってきたな」

「……ヤブ薬師いしゃ

 少し離れたところからぼそりと呟かれた声に、ロイは射抜くような視線を向ける。

「そもそも、あの狼どものことだがな……俺たちに会う前、奴らの巣を通らなかったか?」

「ああ、邪魔だったから蹴散らした」

 事もなげに言うアルヴィードに、ロイはもはや呆れるを通り越して天を仰いでいる。昼日中に人を襲うことがないはずの狼が襲ってきた理由はそれだったのか。アルヴィードなら、確かにやりそうだと、ただただ納得してしまう。

「おかげでこいつはこの大怪我だ。少しは反省しろよ」

「知るかよ」

 言いながらもディルのそばに腰を下ろすと、その体を後ろから抱きしめる。震える身体に、そのぬくもりはひどく心地よかった。先ほど飲んだ薬の効果なのか、痛みは淡くなり、とろとろとした眠気が襲ってくる。

「なんだか眠い」

「そのまま寝ちまえ。痛み止めが切れたら痛むかもしれないが、その前に起こしてやるから」

 少し不機嫌ながらも、確かに気遣う響きを宿したロイの声に頷いてそのまま後ろに頭を預けて眼を閉じる。眠りが訪れるのは早かった。闇の中で、いつかのように、大きな手が頭を撫でたような気がしたが、やはり夢なのかどうか、定かではなかった。


 ふと目を覚ますと、柔らかな寝台に寝かされていた。周囲は暗く、どうやら夜のようだった。

「あら、お目覚め?」

 艶やかな声に目を向けると、豪奢な金の髪がまず目に入った。振り返ったその瞳は蝋燭の灯りを映してもなお、鮮やかな緑に輝いている。

「イングリッド?」

「覚えていてくれたのね、嬉しいわ」

 近づいてくると、額にその細く美しい手が触れる。冷ややかに感じられたが、すぐに自分の体が熱を持っているのだと気づいた。

「そうよ。あなたはあの狼に噛まれた傷が元で高熱を出してしまったの。野営するつもりだったけど、心配した二人がここまで運んできてくれたのよ」

「ここは……?」

「カラヴィス、別名——魔法都市とも呼ばれているわ」

 婉然と微笑んだイングリッドは、それでもすぐに表情を改める。

「気分はどう? まだ熱が高いようだから、辛いかもしれないけれど……」

「そうでもないです……ちょっとふわふわするけれど」

「ロイの薬がよく効いているのね。あれで、薬師としての腕は本当にいいのよ」

「よく知っているんですね……?」

 そう尋ねると、どうしてだかイングリッドは楽しげに笑う。

「そうねえ。あの人がまだあなたくらいの頃から知っているかしら。でも、あんな風に誰かに心を砕くのを見るのは初めてだから、とっても楽しいわ」

 くすくすと笑うその姿は可憐にさえ見えるのに、それでも何やら不穏な気配を感じてしまう。ディルの表情に気づいたのか、彼女は肩を竦める。

「別に意地悪するつもりはないわ。でも、運命というのはままならないものね」

「運命……?」

「でも、なら、、なんて言いそうだけれど」

 さすがは魔女と呼ばれるだけあって、何を言っているのかさっぱりわからない、とディルは熱に浮かされた頭で考えることを放棄した。それよりも気になっていたことを思い出す。

「アルは?」

「彼はいつだってあなたのそばにいるわ」

「それは何かの比喩ですか?」

「さあ、どうかしら? あなたと彼の運命は初めから結び付けられている。あなたはだから」


 ——ますます何を言っているのかわからない。


「とりあえず、アルは無事でそのうち会えるから大丈夫、ということですか?」

「まあ、果てしなく遠いけれど全て間違っている、というほどでもない、くらいかしらね」

 魔女といい、薬師といい、きっとそういう話し方しかできないのだろうともはや諦めることにする。


 ため息をついたディルに、イングリッドはくすくすと楽しげに笑う。

「でもあなたたちのそれは、あくまで運命Destinyであって宿命Fateではないの。それさえ忘れなければ、きっと大丈夫よ」

「それは何かの予言ですか?」

 明らかに気の無い声でそう尋ねたディルに、だが、イングリッドは、ただ柔らかく微笑む。

「いいえ、ただの好意的な助言よ。あなたに会えて本当に嬉しいわ」

 緑の瞳は深く不可思議な光を浮かべていて、その真意を推し量ることはできない。それでも、そこに悪意は感じられず、確かに好意と呼べるものがあるように思えた。

「あなたは一体……」

「今夜はここまで。あなたの呪いそれ黒狼あのこの噛み痕でいまのところ封じられているから、心配はいらないわ。明日、もう一つおまじないをかけてあげる。まずはゆっくりおやすみなさい」

「わかりました。あと一つだけ、アルヴィードとロイは?」

 その問いに、魔女と呼ばれたその人はその呼び名に相応しく、どうしてだかとても魅力的に悪戯っぽく笑う。


「あの二人は、今夜はもうあなたには近づけないわ。気配が荒れすぎてるの。一晩頭を冷やしてきなさいと伝えておいたけれど……また明日が楽しみね」


 その答えの真意はやはりわからなかったけれど、どうにも厄介事の匂いしかしない。ディルは素直に眼を閉じると、それについては、やはり先送りすることにしたのだった。

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