19. Missing link 〜黒狼〜 #2


 初めはただの気まぐれだった。


 美しい子供が粗野で下卑た少年たちに襲われている。普段の彼ならば、見向きもしないはずの、「狭間の世界」ではよくあるそんな光景に、どうしてだか気を引かれて介入した。

 その子供は、これといった特徴があるわけではなかった。細い銀糸のような髪、真昼の空を映したような青い瞳も、美しいが珍しいものでもない。それでもなぜかそのまま立ち去る気になれず、厄介事に巻き込んでしまった。


 だが、すぐに彼はその相手が、「普通」などではないことを目にする。


 ゆらり、と闇の中に浮かび上がる血の海にさすがの彼も息を呑んだ。か弱く無力だったはずのその子供は、圧倒的な力で彼さえも驚嘆させた。その不可思議な力に惹かれ、衝動的に口づけた。それでも、結局のところ彼を惹きつけたのは、もっと単純なものだった。

 抱き寄せると身を硬くする。そのくせ、離れると寂しそうな顔をする。寝起きに隣にいることに気づけば顔をしかめるくせに、眠っている間は無意識にすり寄ってくる。素直ではないその性格と、まとわりつく甘さの中に辛さが混じる香りは、常に彼を惑わし、相手が子供だとわかっていてさえ、彼の中の熱を煽った。

 さらに、人である時の彼には怯えを見せるその子供は、どうしてだか獣の姿だと素直に甘えてきて、全てを容易に預けてくる。その差分が気にはなったが、それでも孤独を吐露し、自分に全てを委ねるその体温は、確かに心地よく、他の誰にも触れさせたくない、とさえ思うようになっていった。


 ——なのに、守りきれなかった。


「馬鹿、よせ……!」

 叫んだ彼に、だがその子供——ディルはどうしてだか幸せそうに微笑んでいた。そうして、彼を救うために、それが禁忌だと理解しながら、敢えて月晶石の埋め込まれた銃の引き金を引き、その身に呪いを受けた。

 さらに、死神のような「狩人」たちの鎌を彼から遠ざけるために、己の死を願った。

「ふざけるな!」

 その存在を失う——それだけは耐え難いと、そう自覚して叫んだその瞬間に、全てを思い出した。アストリッドが語った、彼を三百年も眠らせてまで用意したという祝福だか運命だかについて。


 そして気づいた。あのまともでない精霊アストリッドが十四年前、自分のために用意した祝福というのが、実際何だったのかを。



 寝台に腰掛けたまま、深いため息をついた時、部屋の扉を叩く音がした。目を向けると、豪奢な金の髪と緑の瞳の魔女がこちらを見つめていた。

「あら、起きていたの?」

「眠れるわけねえだろ」

「心配症ねえ」

「お前が叩き出したんだろうが」

「仕方がないでしょう。あなたたち二人とも、気が春の大嵐並に荒れてるんだもの。そんな人たちが枕元にいたんじゃ、あの可愛らしい子がゆっくり眠れないわ」

「……あいつは?」

「まだ眠っているわ。でもそろそろ目を覚ます頃よ。側にいておあげなさい」

 意外な申し出に目を丸くすると、イングリッドは艶やかに微笑む。

の行動はだいたい常識が通用しないけれど、それでも世界とそこに存在する人々を愛する気持ちは本物なのよ」

 残念ながらね、と肩を竦める。

「イングリッド」

「なあに?」

 まっすぐにその魔女と呼ばれる女を見つめる。彼女は、知っているはずだった。

「ディルは、あいつの子供——だな?」

「そうよ」

 事もなげに答える。息を呑んだ彼に、だが彼女は微笑を崩さない。その笑みを見つめたまま、問いを重ねる。

「父親は?」

「人間よ」

「人間?」

「遠い遠い昔に、黒狼と交わったことのある娘の血を引く、ね。遠すぎて、もうほとんど黒狼としての特徴を持たない。もちろん獣の姿にもなれない。けれど、確かにその血の中に、その性質を受け継いでいる」

「どうやって見つけたんだ?」

「さあ。けれど、嬉しそうだったわよ。美しくて優しくて、完璧だと、それはそれは鬱陶しいくらい楽しげにのろけていたもの」

 イングリッドのその言葉に、思わず背筋がざわついた。アストリッドがのろけるところなど想像もつかない。

「あの人がついに一人を愛することができるようになったのかしらと期待したのだけれど」

「違ったのか?」

「嬉しかったのは、あなたのためよ」

 イングリッドは、どこか困ったように笑う。

「この人の娘なら、必ずあなたも惹かれる。間違いないと、そう思ったのだそうよ」


 運命を操られたような気がして、わずかに苛立ちを感じたが、結局のところその通りになったのだから何も言えない。彼に伴侶を与えるために三百年もの間、その血筋から最適な者を探し、挙げ句にその相手と子を成すなど、正気の沙汰とは思えない。普通にその相手を紹介される方がまだましな気がしたが、ではそれで彼がその相手に惹かれたかどうかは甚だ疑問だから、つまり全ては考慮済みなのだろう。

 であれば、だからこそ、訊かなければならないことがあった。


「あいつは、俺の相手を生み出すために、黒狼おれたちの血を引くものを探した。そして、いつか俺がそいつに出会うために『狭間の世界』に放り出した。それは、その孤独な生い立ちが、ディルが俺を求めるようになるために必要だったから、か?」

 言いながらも、声が震えそうになる。


 ディルは生まれてすぐに、狭間の世界の「祈りの家」の前に捨てられていたと言っていた。それ以来、誰からも愛されず孤独に、虐げられて育った。そこに自分が現れ、イーヴァルとともに保護した。

 それまで誰にも愛されなかった子供が、誰かに暖かく手を差し伸べられれば、その相手に好意を抱くのは、親鳥を失った雛が最初に見たものを親鳥と思い込むのと同じくらい簡単だ。


 もし、その孤独とディルが受けてきた傷さえもが、アストリッドの仕組んだことだとしたら——彼のために仕組まれた事だとしたら。


 どんな理由があれ、それは許されないことだ、と思った。

 ディルがどれほどにその境遇に苦しんでいたかを、よく知っているからこそ。


 だが、イングリッドはそんな彼を見て、柔らかく微笑む。

「大丈夫よ。あなたの考えているようなことはないわ。あの人、あなたが思うより遥かに馬鹿なのよ」

「……はあ?」

 思わず間抜けな声を出した彼に、イングリッドはため息をつきながら続けた。

「あなたは知らなかったかもしれないけれど、私たちは人のようには生まれない。意識が生まれ、人の形をとると、普通に一人で生きていくの。だから、あの人は、人間との間に生まれた子供もそんなものだろうと思っていたのよ」

「精霊の叡智はどこいったんだよ?」

「あの人は、とことん偏ってるのよ。そして馬鹿なの、本当に。でもまあ、人間と精霊の間に生まれた子供だから、なら『狭間の世界』で育つのが当たり前、であれば『祈りの家』に預ければいい、とそのまま置いてきただけ、まだましだったのかもしれないわ」

 森の中で、生まれたばかりの精霊のように放置されていれば、確実に彼がディルと出会うことはなかっただろう。あまりの告白に、呆れてため息も出ない。

「イーヴァルは知っていたのか?」

「知らなかったと思うわ。あの人は一人で全て計画して、『祈りの家』に置いてきてから彼を呼び出し、あなたを目覚めさせた。知っていたら、さすがに張り飛ばして止めていたと思うわよ。もちろん、私もね」

 だから、と彼女は艶やかな微笑みとともに続ける。


「あなたは素直にあの子を愛していいのよ」


 余計なお世話だ、と思ったが言葉にならなかった。人の姿を封じられ、世界中を駆け巡ってようやくディルを見つけた後、美しく成長したその姿にさらに惹かれた自分を自覚したが、その運命を思うと迷いがあった。すべてがあの精霊アストリッドの手の内なのではないか、と。

「買い被りすぎよ。言ったでしょう、あの人は馬鹿だし、ほとんど直感で生きてるだけよ」

「ひでえ言い草だな」

「だからこそ、あの人は強いのよ」

「傍迷惑な……」

「それは間違いないわね」

 肩を竦めるイングリッドに、もう一つだけ最後に残っていた疑問をぶつける。

「もし、俺が拒んだら、どうなるんだ?」

「あの子の運命はあなたに強く結び付けられている。普通に他の人と結ばれるのは、かなり難しいでしょうね。とは言っても、どうやら次善策はすでに打ってあるようだけれど」

 あの人なりに、あの子を愛しているのね、とどこか含みのある笑みを浮かべる。

「……あいつか」

「彼は、ああ見えて手強いわよ。優しいし、けれど本人が思っているより、ずっと一途だから」

 その笑みは、どう見ても何かを企んでいるように見える。その内心を読んだかのように、イングリッドはとびきりの笑顔を浮かべた。

「あら、私の大好きないい男二人が、一人の運命の相手を巡って争うなんて、こんな面白い……じゃなかった素敵な話、なかなかないじゃない?」

「全然本音が隠せてねぇぞ」

 呆れて深いため息をついた彼に、魔女と呼ばれる女は、ただ楽しげに声を上げて笑ったのだった。


 その魔女の許しを得て、目指す部屋に滑り込む。夜明けの近い今、窓から差し込む光に浮かぶ寝顔は、かつての面影を残しながらも、すでに子供時代を終えてしまっている。どれほど、その頬にこの手で触れたいと願っただろうか。

 寝台に歩み寄り、眠りを妨げないようその横に椅子を引いて座り込む。掛布から出ている左腕は添木をされた包帯が痛々しい。そもそもの発端が自分であることを思えば、さすがに胸のどこかが痛んだが、ともかくも間に合ってよかった、と思う。


 抱きしめて欲しい、と言っていたその言葉は、アルではなく自分アルヴィードに向けられたものだ。ならば、イングリッドも言っていた通り、素直に自分はこの想いを伝えていいのだろうか。


 運命に結び付けられた相手など、誰よりも自分がごめんだと、そう思っていたはずなのに。


 ふと身じろぎする気配に目を向ければ、鮮やかな薔薇色がこちらを見つめていた。かつて、自分を救ったそれと全く同じ色の。

「アルヴィード?」

 それでも、自分を呼ぶ声も眼差しも、全く違う。自分が惹かれたのは、このまっすぐな眼差しだ。

 椅子から立ち上がり、寝台の横に膝をつく。額に触れると、まだかなり熱が高そうだった。

「大丈夫か?」

「……少し、腕……痛い」

 まだどこか茫洋としたままの瞳でそう言うところを見ると、本当はかなり痛むのかもしれない。

「薬、もらってきてやるよ」

 そう言って立ち上がろうとすると、右手で服の裾を掴まれた。いつかも、そんなことがあったと思い出す。

「何だ?」

「……もう少しだけ、そばにいて」

 切実な声に、どきりと心臓が跳ねる。そのまま寝台の端に腰掛けると、刻々と色を変える瞳がこちらをまっすぐに見つめている。

「そんな眼で見つめてると、襲っちまうぞ」

 敢えて笑ってそう言えば、だが、ディルはどこか迷うように視線をさまよわせる。それから、覚悟を決めたかのように、こちらをもう一度まっすぐに見上げてくる。


「もし今、俺が拒んだら、どこかへ行ってしまう?」


 その問いに胸を衝かれた。それほどまでに、まだディルを苛む孤独は深い。あの男が言っていた言葉を思い出す。ほんのわずかな望みのために、自分を受け入れてくれた相手の行為を全て受け入れようとする、と。

 だが、ディルのこの問いは、その言葉への否定だ。ただ流されるのではなく、自分の意志を示そうとしている。拒んでもいいのかという、それは、多分信頼の表れだ。


 その頭をそっと撫でながら苦笑して見せる。

「馬鹿言え、ちゃんと待っててやるよ」

 その時がくれば、遠慮する気はないけれど。

「お前が俺を待っていてくれたように、俺もお前がその気になるまで待っててやる」

 アストリッドが変化したように、ディルもまた、いつかその時が来るはずだから。

「だが、なるべく早くその気になれよ」

 耳元で低く囁いて、その額に口づけると、頬が赤く染まる。首筋からはあの甘いような辛いような匂いが強く香っている。同じ香りをディルもまた感じているのであれば、きっとその日はそう遠くはないのだろう。


 ひとまずは、もう一度軽くその唇に触れるだけに留めて立ち上がる。

「アルヴィード」

「何だ?」

「助けてくれて、ありがとう」

「言っただろう、当たり前だ」

「……うん」

「すぐ戻る」

 その右手を握り締めて、頬を撫でると部屋を出る。扉にもたれ、ひとつ息をついた。


 ああは言ったが、それでもあんな風に揺れる瞳を見せつけられては、、あまり自信がなかった。

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