18. Missing link 〜黒狼〜 #1

 眼前に広がっていたのは、色とりどりの炎だった。紅蓮、蒼青、黄白色、そしてひたすらに視界を焼く眩い輝白色。


 端から見れば、美しい花火のようなそれは、だが、現実には破壊と汚染の象徴だった。人間と精霊とが互いの力を誇示するために放ったその力は、ひっそりと暮らしていた彼らの山と集落を何の理由も意味もなく焼き尽くした。

 彼らは強靭で俊敏な肉体と、あらゆる魔法を基本的に受け付けない稀有な性質を持っていたが、人間のもたらした銃火器の炎と、精霊たちの放った自然の力を最大限まで引き出した異質な炎は入り混じり、想像を遥かに超える破壊の力をもたらした。それは、彼らの身体を一瞬で灰に変え、後にはその影のみが焼きついて残されていた。


 一人で気ままにでかけて、燃え上がる炎に気づいて駆け戻ってきた彼は、ただ呆然とその光景を眺めていた。


 もともと彼らの個体数は減少する傾向にあった。厳格な婚姻と、基本的には同族にしか惹かれないのに、近親婚を種として受け容れない彼らは、その寿命の長さゆえにか種の保存にあまり熱心でなく、放っておいてもあと数百年もすれば滅びてしまうのではないかと、大人たちは笑って話していた。一族には変わり者もいて、人間や他の種族と交わり、その血を残すものもいたが、基本的には同族内での求愛と婚姻がほとんどを占めていた。

 だが、あまりに唐突に失われたその故郷と同族に、彼は何をどうすればいいのか、まったく考えもつかなかった。

 ただ呆然としている間に、数日が過ぎた。飲まず食わずでそうして過ごして、流石に意識が朦朧とし始めた。だが、それでも足は動かない。食事をとって、生き延びたとして、この先に何があるというのだろう。


 ——たった一人で、この世界に取り残されて。


「酷い有り様だな」

 不意に低い穏やかな声が、とてもそうは思っていなさそうな平坦な口調でそんな言葉を呟くのが聞こえた。

「毎回毎回、それしか言うことはないのかい?」

 もう一人、こちらは涼やかな声でどこか面白そうな響きを宿している。足音は聞こえなかったが不意に彼の前に鮮やかな一対の薔薇色が現れた。

 それが、こちらを見つめる美しい人の瞳だと気づくまでにしばらくかかった。

「おい、生きてるかい?」

 乱雑なその問いに、呆れたような声が割って入る。

「どう見ても生きてるだろ」

「生存者を見つけたら、声をかけるのは基本だろう」

「ならもうちょっとましな呼びかけはないのか?」

「うるさいなあ、じゃあ自分でやってみればいいじゃないか」

 あまりに無惨な光景を前にしているにしては、のんびりとした会話に、麻痺していた感情が苛立ちに傾く。

「……うるさい」

 口から漏れた声は、自分のものとは思えないほどにかすれていたが、それでも意図は伝わったらしい。

「それはすまなかった」

 まったくそうは思っていなさそうな声で、その人物は謝罪の言葉を口にする。今の夜明けの空を映したような薔薇色の瞳は、こちらを見つめてやはり面白そうな光を浮かべている。

「私はアストリッド」

 唐突に名乗ってこちらに手を差し出してくるその顔は恐ろしいほど整っている。美しい弧を描く眉に、鮮やかな瞳、顔を縁取るのは白金かと見紛う、ごく淡いまっすぐな金髪。頬は滑らかで、首筋は折れそうなほどに細い。だが、すらりとしたその身体は、男なのか女なのか、判然としなかった。


「初めまして、最後の黒狼」


 その言葉に、弾かれたように彼が顔を上げると、アストリッドと名乗ったその若者は、ふわりと微笑んだ。

「よかった、言葉は通じるようだね」

「最後、って……」

 問い返す声が震えているのが自分でもわかった。相手は、事もなげに答える。

「言葉通りだ。この山に他に生存者はいない。黒狼は他の地域にはもういないと聞いているから、だとすれば君が最後の一人だ」

 それは、彼の予感をただ補強する情報に過ぎなかった。だが、それが真実だというのなら、生き残ったとしても、この先彼はずっと独りだ。

「アストリッド、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本当に馬鹿の極みだなお前」

 ほんのわずか怒りの滲む声が近づいてくると、彼の前に膝をつき、不意に彼の頭をその胸に抱き込んだ。そうして、彼の背をゆっくり二度、叩いた。


 その胸元が濡れたのに気づいて、ようやく彼は、自分が涙を流していることに気づいた。嗚咽は出ない。ただ、ひたすらに涙だけを流す彼の背を、青年はただ撫で続けた。


 どれくらいそうしていたのか、ふと顔を上げると、こちらを見下ろす穏やかな藍色の瞳が見えた。年の頃は人間で言えば二十代の半ばくらいだろうか。だが、その瞳は明らかにそれより遥かに長い時を生きてきたであろう老成した光を浮かべている。

「落ち着いたか?」

 人前で泣くなど、あまりに情けなくて、黙ったままその腕から抜け出す。立ち上がったが、飢えと渇きのせいか、くらりと目眩がしてその場に膝をついてしまった。

「とりあえず飲め」

 そう言って差し出された水筒を、断るのも面倒で素直に受け取って口をつける。ただの水だろうが、ひどく甘く感じられ、気がつけばその中身を全て飲み干していた。

「あ、悪ぃ」

「気にするな。水ならそこら中にあるさ」

「ふふん、私の最も得意とするのは水を操る術だからね。何なら今すぐ雨を降らせて見せてあげようか?」

「黙れこの能天気アメフラシ」

「……あんたら、何者?」

 とりあえず、そう尋ねるとアストリッドが嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ようやく聞いてくれたか! 私は大戦終了後の和平交渉この世界アルフヘイム代表だ」

 子供のように胸を張って満面の笑顔でそう言ったその若者に、隣の青年が呆れたようにため息をつく。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「この馬鹿げた! 大戦が! 終わって嬉しいからに決まっているだろう!」

「だったら何でもっと早くに介入しなかったんだ?」

 藍色の瞳の青年の静かな声には、怒りが滲んでいる。

「——俺は何度も警告したぞ」

「仕方ないじゃないか。先見視さきみで証明するまで、だーれも私の言うことなんて聞こうとしなかったんだから」

「お前なら、ゴリ押しできただろう」

「面倒くさいじゃないか」

 肩を竦めて言ったアストリッドに、だが藍色の瞳の青年ははっきりと怒りを浮かべた眼差しで、目の前に広がる光景を指し示した。

「この惨状を見ても、まだそんなことが言えるのか?」


 焼け焦げた大地。そこに染みのように残る、黒い影たち。

 そして、彼自身がその犠牲の何よりの証左だ。


 その眼差しを受けて、アストリッドは表情を改めた。

「悪かった。私もここまで状況が悪くなっているなんて、気づかなかったんだ」

「気づかなかったで済む話か。お前はあれらを統率する責任があったはずだ」

「それを言われると返す言葉がないねえ」

 反省しているようで、だが、彼の耳に届くその口調には、まったく重みがない。彼の視線に気づいたのか、アストリッドがこちらに目を向けた。

「とりあえず、黒狼の。何か望みはあるかい?」

「望み……?」

「私たちは、今、大戦の償いのために世界を巡っている。力になれることがあるなら教えて欲しい」

 真摯な眼差しに、だが、空っぽになった彼の心は虚ろな響きを返す。

「望みなんて、ない。俺が最後の一人なら、生きていてもほとんど意味なんてない」

「それは、種の保存、という意味で、かい?」

 アストリッドの問いに、隣の青年が難しい顔で口を挟む。

「黒狼は近縁でない同族としか婚姻しないんだったな」

「だが、まったく他の種族と実績がないわけじゃないだろう?」

「あんたたちが滅ぼしておいて、適当に他の種族と交われと? まっぴらごめんだ」

 怒りを顕にした彼に、だが、アストリッドはどうしてだか不意に微笑んだ。

「なるほど、それでは運命の相手が必要だな」

「……はあ?」

「おい、アストリッド、お前ろくでもないことを考えているだろう?」

「何を言う。最高の考えアイディアだよ。まあでもしばらく時間がかかるだろうから」

 そう言うと、不意に彼の目の前に膝をついた。それからおもむろに、彼の頬を引き寄せると、まっすぐに彼を見つめる。

「しばらく眠っておいで。準備ができたら起こしてあげるから」

 最後に見たのは、楽しげに笑みを浮かべる薔薇色の瞳。不意に唇に何か柔らかいものが押し付けられ、そこで、彼の意識は一度完全に途切れた。


「お前の策ってのは、結局どうなっているんだ?」

「もう完璧に配置済みだよ」

「お前の完璧なんて全然当てにならないんだよ。というか、全く信用できない」

 何やら言い争う声で目が覚めた。寝かされていたのは、広い豪奢な寝台の上で、何が起きたのか理解できずに、しばし呆然とする。

「ああ、目が覚めたかい?」

 こちらに近づいてくる人影を見て、思わず目を見開いた。淡い金髪に記憶にある通りの薔薇色の一対、だが、その身体は柔らかく丸みを帯び、胸元には豊かなふくらみがある。

「あんた、女だったのか」

「ああ、君と会った時はまだ未分化だったからね。必要に応じて分化したんだが、この身体が気に入ったかい?」

「べ、別に」

「君さえよければ、私が相手をしても構わないよ?」

「ガキ相手に何言ってんだ、この変態」

 後ろから歩み寄ってきたのも、見覚えのある青年だった。

「ひどいな、彼だってすぐに大きくなるだろう」

「せいぜいまだ十歳くらいだろう? 少なくともあと五、六年はかかるだろう、どう見ても」

「話が全く見えないんだけど」

 そう問いかけると、アストリッドはにこりと微笑んだ。

「端的に言えば、君のために祝福を用意した。ちなみに君が眠ってからおよそ三百年が経っている」


 一瞬、言われたことを全く理解できなかった。特に後半部分。


「何、だって……?」

「だから、大戦が終わって、三百年後に君は目覚めた。特に縁者もいないから問題はないと思うけれど、何かあるかい?」

 部屋の奥にある鏡を見る限り、自分の容姿に変化はないようだった。そして目の前の二人も、アストリッドの性別が変わっているのと——それだけでも十分な変化だが——服装以外は、眠る前と変わったところはないように見える。

「何かの冗談か?」

「残念ながら、本当だ」

 口を挟んだのは、藍色の瞳の青年の方だった。ひとつため息をついてから、寝台の横に腰かけて、まっすぐに彼の眼を見つめる。

「アストリッドがかけた術はお前を深く眠らせ、ついでにその時を止めるものだった。さすがは黒狼だな、あいつでさえ、術を完遂するのに丸一日かかった」

 見事な毛並みだな、とどうしてだか感心したように呟く。

「……まさか」

「眠っている間は獣の姿だった。そうでもしなければ、抑えきれなかったんだろう」


 彼の一族は二形を持つ。黒い狼と、人の姿だ。どちらが本性というわけでもなく、どちらもが自然な形だが、特に強い呪いを受けた場合などは、獣形になってしまうことがある、というのは聞いたことがあった。


 それを聞いて、自分が一糸纏わぬ姿である理由がわかった。

「……服、寄越せ」

「はいはい、今持ってくるよ」

 どこまでも軽い口調で答える絶世の美女に、彼は何度目かの深いため息をついた。


 着替えを済ませると、アストリッドは窓際のテーブルへと彼を誘った。そこには食事が用意されていた。

「三百年ぶりの食事ということで、腕を振るってみたよ」

「あんたが作ったのか?」

「そうだ。料理は好きなんだ」

 得意げにそう言う表情はどこまでも明るい。その美貌だけ見れば、惹きつけられてもおかしくないはずなのに、ちぐはぐな言動のおかげで全くその気にもならない。

「ああ、私に魅力を感じないって思っただろう? どうしてこんなに伝わらないのかなあ」

 天を仰ぐアストリッドに、冷ややかな声が追い打ちをかける。

「お前の愛は広範に歪みすぎだ」

「あなただって変わらないじゃないか。今だに恋に落ちたこともないだろう」

 軽やかに笑ってそう言われ、藍色の瞳の青年がぐっと言葉に詰まるのが見えた。恐ろしくおかしな状況だと言うのに、この信じられないほど和やかな雰囲気はいったい何なのだろうか。彼のため息に気づいたのか、青年の方が肩を竦める。

「気にするな。こいつは精霊の中でもっとも変人だ。まともに付き合ってると気が狂うぞ」

「そうだねえ、これだけ長く付き合って正気でいてくれるのは、イーヴァル、あなたくらいなものかもしれない」

 にこにこと笑うアストリッドに、イーヴァルと呼ばれた青年は心の底から嫌そうな顔をしていた。


 食事をしながら、アストリッドは大雑把に状況を説明した。曰く、大戦からおよそ三百年が経っていること。人間の兵器と精霊たちの歪んだ魔力によって疲弊し汚染された大地と海は、彼らの努力によってほぼ元の姿を取り戻していること。二度と同じような戦を起こさないため、世界を三分したこと。

「無茶苦茶だな……」

「それでも、今この世界でもっとも優秀な先見視さきみによれば、それが最善手なのだそうだ」

「本当かよ?」

 疑いの眼差しで見つめた彼に、アストリッドは両肩を竦めて笑う。

「少なくともあれから大きな戦は起きていない。あちこちでいざこざはあるし、全員が幸福かと言えば、そんなことはないが、まあだな」


 何が幸福なものか、と彼は内心で思う。大地と海が回復しても、失われた命は二度と戻らない。彼が、未来永劫孤独であることにも変わりはないだろう。


 そんな彼の表情を読んだように、アストリッドが今度は不意に柔らかく微笑んだ。それから、子供が大切な秘密を話すように、声を潜める。

「さっきも言ったが、君のために祝福を用意した。準備ができたら『狭間の世界』へ行っておいで」

「祝福……?」

「詳細は秘密だよ。運命というのは、思いがけなく目の前に現れるもの、と相場が決まっているからね」

 何が楽しいのか、にこにこと満足げに笑んでいる。

「花嫁でも用意してくれたってのか?」

 険しい眼差しでそう尋ねた彼に、だがアストリッドは、目を丸くして首を傾げる。

「おや、鋭いね。でも、それは秘密だと言っただろう?」

「何だか知らないが、あんたに運命とやらを押し付けられるのなんてまっぴらごめんだ」

 はっきりと怒りを顕にしてそう言った彼に、だがアストリッドは表情を改める。その薔薇色の眼差しは真摯で、穏やかな光を浮かべている。

「私はただ祝福を用意しただけだよ。君が本当にそれを望まないのなら、きっと出会う事もないだろう」

 けれど、と真摯な眼差しのまま、言葉を続ける。

「この記憶が君の出会いの邪魔になるというのなら、君が本当に君の運命と出会ったことを自覚するまで、私に関わる全ての記憶を封じておいてあげよう。それでも気に入らなければ、断ち切ってしまえばいい。私が君に用意したのは運命Destinyであって宿命Fateじゃない。そこまで私も悪趣味ではないからね」

 そして、藍色の青年の方に向き直る。

「彼のことをお願いしてもいいかな?」

「初めからそのつもりだったな? だが、そいつは一人で生きていけるだろう。『狭間の世界』へは一緒に行ってやるが、世話をするかどうかはそいつ自身が決めればいい」

「相変わらず優しいね」

「お前はその歪んだ性格をなんとかしろ」

「失礼な、こんなに世界を愛しているのに」

「まずは一人を愛することから始めたらどうだ?」

「それは試してみたんだが、なかなかに難しいらしい」

 ともかく、とその美しい顔に満面の笑みを浮かべて、アストリッドは彼に向き直る。

「そういえば、君の名を聞きそびれていたな。三百年前にも名乗ったけれど、私はアストリッド、この世界の精霊の長だ。こっちはイーヴァル。君は?」

「……アルヴィード」

 名乗った彼に、アストリッドは奇妙に愛おしそうな眼差しを向けてくる。

「いい名だね、アルヴィード。願わくば、私の祝福が君の人生に彩りを与えてくれるように」


 それが祝福なのか、呪いなのかは正直なところわからなかったが、アストリッドとそれに関わる全ての記憶を封じられ、彼はその藍色の瞳の青年と共に狭間の世界へ渡った。特に元の世界にこだわる理由はなかったし、どうせ何の目的もないなら、新しい世界を見てみるのも悪くないと思ったのだ。


 そして、確かに彼は、そこで運命に出会ったのだ。

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