20. 二人

 すぐ戻る、との言葉通り、アルヴィードはほどなくして何やらカップを持って戻ってきた。背を抱き起こされてそのカップをのぞき込むと、淀んだ色をした液体で満たされている。受け取りながらも、何とも言えないその匂いにディルが思わず顔をしかめると、彼は面白そうに笑う。


「ちゃんと飲めたら、ご褒美をやるって」

「また飴玉?」

「もっといいもんだよ」

 言いながら顎をすくい上げられる。

「……別に、いらない」


 何となくその内容が予想できて、ため息をつきながらそう言うと、片眉を上げて笑う。以前はもっと張り詰めた雰囲気で、その金の双眸に見つめられるたびに背筋が震えるような思いをしていた気がするのに、と思う。


「アルので見慣れたせいかな」

「そればっかりだな」

 まあ仕方ないか、と呟いている。アルヴィードと一緒にいた時間より、黒い獣アルと一緒にいた時間の方が長い。考えてみれば、「祈りの家」の淡白な関係を除けば、ほとんど他人と過ごすことのなかったディルにとって、もっともそばにいる時間が長いのは、もはやアルとロイなのだと気づいた。

「何か不思議だ……」

「何がだ?」

「こうしてアルヴィードと一緒にいるのも、ロイと旅をすることになったことも」

 それを聞いて、アルヴィードがなぜか苦い顔になる。

「そう言えば、何であいつと一緒にいるんだ?酒場かどこかで知り合ったのか?」

 問いかけに、ひとまずはカップの中身を飲み干しながら頷く。それは、見た目の予想を裏切らず、凄まじい苦味と酸味の入り混じった恐ろしい味がした。

「これ、何?」

魔女イングリッドの薬だ。不味いか?」

「今までで、一番」

「そりゃすごいな」

 笑って、気がつくとその唇が重ねられていた。開いた口の隙間から舌が入り込み口の中に残るその液体を舐めとっていく。

「すげえ、確かに不味い」

 やってみて後悔したのか、本気で顔をしかめている。呆れたが、嫌悪を感じない自分にむしろ驚く。自分がアルヴィードに抱いている感情は何なのだろうと、ふと熱に浮かされた頭でぼんやりと考えた。


 無意識に自分の指で唇に触れながら、不意に黙り込んだディルに、アルヴィードは怪訝そうな顔を向けてくる。

「どうした?」

「もしかして、俺、アルヴィードのこと好きなのかな?」

 その言葉に、アルヴィードがそれまで見たことがないくらい目を丸くして、心底呆れたような表情になった。

「今さらか?」

「今さらって……」

「そうじゃないなら、何であの時、引き金を引いたんだ? それがお前にとって致命的だと知っていただろう?」

「それは……」


 あの時、このままでは二人とも助からないならと、引き金を引くことに躊躇いはなかった。「狩人」たちの鎌がアルヴィードに迫った時、彼を失うくらいなら、自分が死んだ方がましだと思った。


 だが、それが恋だとか、愛だとかそういうものかと言われれば、少し違う気がする。


 もともと望みの薄い人生だった。アルヴィードとイーヴァルに出会って、ぬくもりを与えられ、優しく大切にされるということを初めて知った。そして、それを失うことがひどく恐ろしくなった。たぶん、それが動機だ。


 つまりは、どちらかといえば、それは消極的な自殺だった。


 それは、この世界に飛ばされてからも変わらなかった。必ず迎えにくるから、というその言葉に縋って、ただ生き抜いた。いつか会えればそれでいいと思っていたけれど、ロイに出会ったあの日、彼にアルヴィードの面影を見て、その会えなかった時間の長さに絶望して何かを諦めた。

 ただ無為に待ち続けることに疲れ、血の禁呪を使うことで、あの時と同じように間接的に死を願った。

 それを救ってくれたのは、黒い獣アルと、そして、ロイだった。


「俺は、ロイとアルに助けてもらったんだ」

「どういう意味だ?」

「あなたとイーヴァルに会えなくて寂しくて、生きることを投げ出そうとした時、アルとロイが来てくれた。いつか、あなたがそうしてくれたように、何の見返りもなく俺を助けて、側にいてくれた」


 そうして、ぬくもりをもう一度得ることができて、初めてディルは本当に生きるということを始めたのかもしれない。一度何かを失ったとしても、自分が生きて、望みさえすれば、何かを得られるのだと、生きるということは刹那的なものではなく、そんなことの連続でできていると、初めて実感できたのだと思う。


 そう言ったディルに、だがアルヴィードは複雑な眼差しを向ける。そっと、その身を抱き寄せて、ディルの肩にその額を押し付ける。

「……アルヴィード?」

「遅くなった俺が悪いんだけどな」

 だが、と続ける。

「二度と」

 絞り出すようなその声は、ひどく頼りなげに聞こえた。なぜだか泣いているような気がして、右手でその頬に触れると、こちらを見上げた金の眼差しは、確かに揺れているように見えた。


「もう二度と、俺を置いて逝こうとするな」


 静かな、けれど深い悲しみの込もるその声に、ディルは思わず息を呑む。揺らぐ金の眼差しに、自分の心臓が締めつけられるような気がした。以前より伸びた黒い髪に包まれた端正なその顔を改めて見つめる。

 自分に向けられるその切ない眼差しの意味に、どうして今まで気づかずにいられたのだろう。頬に触れている右手を、アルヴィードの手が握りしめる。自分の方が熱が高いはずなのに、伝わる温度が熱い。どうしていいかわからず、ただじっとその目を見つめ返していると、ふっとその眼差しが緩んだ。

「もう寝ろ」

 抱きしめていた腕をゆっくりとおろして、そのまま寝かされる。

「アルヴィード……」

 ただ名を呼ぶことしかできないディルに、彼はいつもの癖のある笑みを浮かべた。

「早く寝ろ。眠るまで、ずっと側にいてやるから」

 そう言って、目元をその大きな手で塞がれた。暖かいその手にどうしてだか泣きたいような気持ちが湧いてきたが、ひとまずは素直に目を閉じる。何か言わなければ、と思うのに、魔女の薬の効果なのか、抵抗する間もなくディルは結局、深い眠りに引き込まれていった。


 次に目を覚ましたのは、昼過ぎだった。日は高く上り、窓に映る瞳も鮮やかな青に変わっている。ゆっくりと身を起こし、左手を動かさないように、体を伸ばした。凝っていた全身に血が巡ると、ぼんやりしていた思考が少しずつ明瞭になる。

 熱は下がったようで、眠る前に感じていた気怠さも感じなくなっていた。アルヴィードの姿は見えない。このまま起き上がるかどうか、少し悩んでいたところで扉が開いた。

「起きてたのか」

 声に目を向ければ、ロイがこちらを見下ろしていた。その手には、またカップを持っている。

「どっち?」

 うんざりしたような声と、その単語だけで問いの中身を悟ったらしい。こちらに歩み寄りながら、いつもの笑みを浮かべる。

「俺の方だ」

「まだ、ましかな」

「だろうな」

 魔女イングリッドの薬のことを知っているのか、くつくつと楽しげに笑う。

「あっちの方が効果はあると思うが、まあ熱も下がったようだし、こっちで十分だろう」

 ディルの額に手を当てながら、そう言ってカップを差し出してくる。

「もう飲まなくてもいいんじゃない?」

 上目遣いにそう尋ねると、ロイは何だか微妙な顔をする。

「あんた……なんか憑物でも落ちたか?」

「何それ?」

「妙にすっきりした顔してるぞ」

 まあ、そう言うことだよな、とどこか複雑な表情で、一人で妙に納得している。だが、カップを差し出す手はそのままだ。諦めて受け取り、口に含んで思わず目を丸くする。

「苦くない」

 舌に絡みつくような甘味が、苦味をほとんど包んで隠してくれていた。

「蜂蜜があったからな」

「ロイは、本当に優しいよね」


 常に先回りしてこちらを気遣ってくれる。ほんの些細な日常生活のことから、ディル自身が気づいていなかったような、心の奥底に眠る傷や闇についてまで。だが、ロイは、何でもないというように笑う。


「俺にとっちゃ、これが仕事だ」

 その屈託のない笑みに、どうしてだか心がざわついた。そのせいだろうか、その問いが口をついて出てしまったのは。

「——自分の命を捨てようとしているような奴に、手を差し伸べるのも?」

 そう問いかけると、ロイは不意を突かれたというように、息を呑んで目を丸くした。こちらをまじまじと見つめ、言葉を探す風だったが、結局口を閉じてしまう。

「あの時、ロイが手当てをしてくれなかったら、私は多分死んでいた。黒狼アルを前にして、いったん帰ったのに、何で助けてくれたの?」

「目の前で死にかけてるとわかってる奴を見捨てたんじゃ、寝覚めが悪いからな」

「私は、見捨てろ、と言ったつもりだったよ?」

「それはあんたの都合だ。俺には関係ない」

「あなたが、薬師だから?」

 まっすぐにその青紫の瞳を見つめて尋ねると、ひとつため息をつく。視線を逸らし、しばらく窓の外を眺めてから、ゆっくりとこちらに向き直った。

「それを聞いてどうする? 他の理由を俺が伝えたとして、あんたはそれを受け入れられるのか?」

「それは……」

「その気がないなら、大人の内情をほじくり返すもんじゃねえよ」


 肩を竦めて笑うその様子はいつもと変わらない。初めて会った時は、お人好しそうな男だと思った。しばらく世話になって、その通りだと思ったが、別の一面を持っていることも知った。どうやらどちらかが本当の姿というわけでもなく、両方が本人の中では矛盾なく折り合いをつけているらしいとは気づいている。


「三百年も生きたら、私もそれくらいの境地に達せるのかな」

 ため息をついたディルに、それだけの時を生きてきたらしい男は、どうしてだか暖かく笑う。

「もったいねえからやめとけ。あんたは素直な今のままで十分だ」

 言って、中身を飲み干したカップを取り上げると、気がつけばその顔が間近に迫っていた。ほんのわずか、それでも深く触れて、すぐに離れる。

「……言ってることと、やってることが違わない?」

「矛盾を受け入れられるのも大人ってもんだ」

 ニヤリと笑うその顔に呆れながらも自分の内心について思いを馳せる。以前感じたような嫌悪はないが、それでも、それ以上の感情があるのかと言えば、やっぱりよくわからない。


 ついでに、さっき、アルヴィードも同じところに触れたんだけどな、と思ったが、口には出さないでおくことにした。

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