21. 刻印
「さあ、腕を見せて?」
翌朝、ディルが目覚めるなり部屋に入り込んできたイングリッドが、婉然と微笑みながら、奇妙に楽しそうにそう言ってディルの腕を取った。だが、後ろから慌てた様子でロイが駆け込んでくる。
「待て」
「なあに?」
今にも包帯をはぎ取ろうとしていたイングリッドの手を、ロイがすかさず掴む。その顔には焦りと、ややうんざりしたような表情が浮かんでいる。
「あんたにやらせたんじゃ危なっかしくてしょうがねえ。どっちかっていうと得意なのは壊す方じゃねえか」
「あら、解呪も得意よ?」
「あれを得意って言うのか……?」
さらに割って入った苦々しい声はアルヴィードのものだ。そちらに視線を向けると、どんなことを思い出しているのか、ひどく顔をしかめている。
「仕方がないじゃない、あんなにこんがらがった術なんて、強引に断ち切る以外の方法があって?」
にっこりとアルヴィードに笑いかけた後、そう尋ねると、薬師は深いため息をついた。
「そいつはともかく、ディルはもうちょっと繊細にできてるから優しくしてやってくれ」
「あらあら、優しいこと」
意味深な眼差しに、ロイは視線を逸らせてため息をついた。
「あんたが雑なだけだ。そういうところはそっくりだな」
「あら、それで言うなら、私の方が遥かに繊細よ?」
「見解の相違だな」
肩を竦めてから、イングリッドの手を離させて、ディルの額に手を当てる。
「気分は?」
「平気……だと思う」
額に触れていた手が、そのまま頬に、それから顎にすべり降りてくる。まっすぐにその瞳を見つめて、ほうとため息をついた。
「本当に、変わった瞳だな」
「そうかな?」
窓を見ると、空は薄い水色をしていた。
「朝の空の色か。あんたの瞳を見てたら一日中、飽きなそうだ」
「明け方は、きっとあの人と同じ色よ?」
含みのあるイングリッドの言葉に、どうしてだかロイがうろたえたようにその手を離した。
「他の男になんて、見せるかよ」
低い声に目を向ければ、極めつきに不機嫌そうなアルヴィードの顔が目に入った。そのまま寝台に腰を下ろす。そして、ディルの頭を自分の胸に引き寄せると、ロイから隠そうとでもするように抱き込んでしまう。
「アルヴィード、何?」
「気にすんな」
「過保護なのは相変わらずか」
「どうにも危なっかしい奴がいるからな」
「誰かさんに言われたくはねえなあ……」
何だか二人の間に妙な空気が漂っているような気がする。そんなことを思いながらもふわりと香る甘いような辛いようなあの香りに少し気を取られていると、首筋に唇が降りてきた。
「こんな匂いさせといて、他の男に触らせるんじゃねえよ」
低い声はわずかに熱を感じさせる。だが、ディルは首を傾げた。
「他の人にはわからないみたいだよ?」
以前、聞いてみたことがあるのだが、そんな匂いを感じ取った者はいなかった。
「ロイは? この匂い、わかる?」
視線を向けると、どうしてだかこめかみをひくつかせながら、呆れたようにため息をつく。
「その状況で、そういうことが訊けるあんたの頭の中が知りたいね」
「まだ早いのよねえ。分化もしていないし」
「いつするんだ?」
アルヴィードの問いに、イングリッドは艶やかに微笑む。
「本人が意識的にか、無意識的に望んだ時ね。ちなみに、ある程度の刺激は必要だけれど、無理に押し通そうとすると逆効果なのは伝えておくわ」
妖艶な眼差しでそう言う。それを聞いて複雑な表情を浮かべているアルヴィードに肩を竦めてから、さておき、とロイとディルに向き直る。
「そろそろ真面目な話をしてもいいかしら?」
「……わかったよ。ディル、腕を」
表情を改めたロイに促され、左腕を差し出す。まだ感覚が戻らないが、少なくとも腕自体を動かしても激痛が走る、というようなことはなかった。いつものように、優しい手つきでそっと包帯をはがしていく。添え木を取った腕を動かさないように、そっと支えながら、その傷をあらためた。自分の切り裂いた傷の上に、
その傷を見て、ロイが痛ましいものでも見るように顔をしかめる。
「ひでえな……」
「見た目ほどじゃないと思うよ?」
「これだけひどけりゃ十分だ。すまなかったな」
どういうことかと首をかしげたディルに、ロイは苦い笑みを浮かべる。
「大口叩いておきながら、守ってやれなかった」
「別に、ロイのせいじゃない。自分の身くらい自分で守れない私が悪いんだし、どっちかっていうとアルヴィードのせいだし」
「何で俺のせいなんだよ?」
「狼の巣を荒らすとか普通やらないよ?」
「しょうがねえだろ、急いでたんだから」
目をそらして言われたその言葉に、はっと息を飲んだ。何のために、とは言わなかったけれど、それは明らかだ。そんな二人の様子に、イングリッドが呆れ顔で口を挟む。
「なかなか話が進まないみたいだから、やっぱり私が進めてしまっていいかしら?」
面白そうに目を輝かせながらも、断固たる口調でそう言った彼女に、ロイがもう一度ため息をついた。それからそっと腕の内側の刻印を皆に見えるように示す。
黒い蛇が絡まったようなその文様の中心に、獣の噛み傷が重なっている。
「綺麗に噛み付いたものねえ」
「綺麗って何だよ。傷だらけで、見てるこっちがやりきれねえ」
「まあ、そのおかげでここまで無事にこられたんだから、よしとしなくてはね」
言いながら、イングリッドは美しい短剣を取り出した。刃はごく細く、針のように銀色に輝いている。おもむろに彼女はその刃をディルの文様の上に滑らせる。
「イングリッド?」
「黙っていて」
声を上げたロイをそれまでとは打って変わって厳しい眼差しで制し、イングリッドはそのまま、そこに何かを描くようにディルの手首を切り裂いていく。その傷は、ごく浅いがそれでも血が流れ出している。やがて、イングリッドがその刃をディルの手首から離すと、その傷跡が大きな樹のように見えることに気づいた。
「
「ご名答。まあ実は文様は何でも良いのだけれど。綺麗でしょう?」
切り裂かれた腕は血が流れ出しているが、感覚が麻痺しているのか、痛みはあまりなかった。ロイはそれを見て、深いため息をつく。
「他にやりようはなかったのかよ?」
「これが一番確実なの。傷になってしまうのはかわいそうだけれど」
言ってから、イングリッドは何か不可思議な言葉の連なりを唱え、その血の流れる腕に指をすべらせた。ふわり、と風が吹き淡い光が浮かんだかと思うと、流れ出ていた血は一瞬で消え、傷口も血の痕を残しながらも一応止まっていた。後には大樹の形の傷痕が浮かび上がっている。
「禁呪?」
「いいえ、これは封印。あなたの血であなた自身に害をなす呪いを封じたの。まあそれでも傷が完治する頃には効果が失われてしまうから、それまでになんとかしないとね。とりあえずは間違っても月晶石を見つけても触れないこと、それからもう二度と禁呪を使わないこと」
「封じたって……何をですか?」
「それを説明するには、そもそもこの呪いと『盟約』について話さなければいけないかしらね」
「その前に、手当てをさせろ」
イングリッドの言葉を、ロイが珍しく固い声で遮った。ディルの腕を取ると、新しい傷と、灰色狼に傷つけられた傷痕に薬を塗り、包帯を巻いていく。
「本当に、どれだけ傷が増えるんだ……」
自分のことのようにため息をつく。脇から不意にのぞき込んできたアルヴィードはその腕を取ると、まじまじと見つめる。
「何……?」
「なんかまとわりついてるな。気に入らねえ」
そう言って顔をしかめる。
「あなたらしいわね。それはそうよ、私が刻印したのだもの。ある意味、
イングリッドの言葉に、アルヴィードは心底嫌そうな顔になる。ディルはだが、意外な思いがした。
「ロイ、できるの?」
「それはそうよ。呪術は彼の専門だもの」
にっこりと微笑んだイングリッドに、だがロイは視線を逸らす。
「俺は薬師だ。
「余計なものまで刻み込んでしまいそうだものねえ」
明らかに含みのあるイングリッドの言葉に、ロイが苛立ったような眼差しを向けた。
「イングリッド、いい加減にしろよ」
「あら、どうして?」
イングリッドの瞳が、急に妖しく煌めいたように見えた。不意にその赤く美しい唇から紡がれる言葉を聞きたくない、と思った。だが、魔女は容赦無く、歌うように続ける。
「だって、この呪いを考案したのはあなたでしょう? あの人の反対を押し切ってまで、『狩人』が狩りきれなかった場合に、それでも『盟約』を違えた相手を確実に殺すために」
ロイに視線を向ければ、表情が消えていた。ただ、その青紫の瞳は深い色を浮かべている。魔女は、そんな様子にも構わず、涼やかな声でさらに続ける。
「皮肉なものね。あなたが世界を破滅から救うためにと考案した『盟約』と『刻印』の呪いが、よりにもよって、あなたが——した、この子を捕えてしまうなんて」
イングリッドの言葉は途中で何かに遮られて曖昧になった。聞き返そうとしたが、不意に腕を掴むロイの手に力がこもり、その痛みに気を取られてそちらを見上げる。
彼はイングリッドを見据えているようで、実のところ、どこか遠くを見ているように見えた。
静かな瞳は、それでも少し揺れているようだった。
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