甘えの構造
今日も今日とて空は穏やかに晴れている。客間だという寝室で寝台から起き上がり、夜明けの空を眺めた。それから微妙に伸びた暗赤色の髪をかき上げ、伸びをして身支度を整える。別に仕事があるわけでもないのだから、早起きする必要もないのだが、のんびり寝こけているとやたらと働いてしまう人がいるので自然と早起きする習慣がついてしまった。
今も気配を探れば、扉の向こうで何やら動く物音がする。やれやれとため息をついて部屋を出ると、流れるような銀の髪をゆるく編んだ後ろ姿が見えた。
「ああ、ロイ、おはよう」
屈託のない笑顔にひとつ頭を振り、暗く淀む熱を気の迷いだと片付けて、その隣へと歩いていく。
「何やってんだ?」
「朝ごはん何にしようかなって」
「食えるのか?」
「ええと、干し肉の匂いはだめだった」
「パンは?」
「ちょっと無理」
「卵は?」
「それもちょっと」
「……汁物は?」
「玉ねぎを炒めようと思ったら、油の匂いがだめだった」
「だから大人しくしてろって言ってんだろうが!」
思わず声を荒らげそうになって、ぎりぎりで
「いいか、今が一番大事な時期だ。何かあれば、お腹の子だけじゃなくあんた自身の命にも関わる。頼むから大人しくしててくれ」
「そうなの……?」
生憎と彼自身は子を持ったことがないが、薬師として妊婦に関わったことは何度もある。出産の立ち合いも、補助ではあるが経験済みだ。
自分の子ならまだしも、と頭のどこかでぼんやり浮かんだ考えは、けれどもあまり真には迫らなかった。あの魔女たちが——それはそれは珍しいことに——あっさりと謝罪し、心の底からという風に頭を下げてきたのもその一因だったろう。
それでなくとも、不安に揺れる薔薇色の瞳を見てしまえば、手を差し伸べずにいられようか、いやいられまい、と一人で反語を呟く日々だ。
深いため息をついた彼に、ディルがその顔を覗き込んでくる。
「ロイ?」
わずかに困惑を浮かべるその顔に何とか笑って見せて、その頭を撫でてやる。抱きしめてやればもっと安心するのはわかっていたが、それはさすがに理性との折り合いがつかなそうなので却下した。
「とにかく、寝台でもうしばらく横になってろ。食えそうなもんができたら呼んでやるから」
「わかった」
素直に頷いて、寝室に戻っていく背を見送ってやれやれともうひとつため息を一つ吐く。
野菜を刻んで出汁をとったスープに、昨夜から酒に漬け込んで臭みをとった鶏の胸肉を下茹でしてから、根菜と共に煮込む。やわらかくなったところで、いくつかの香辛料と塩を加えて味を調えた。それから葉物をすりつぶして、粉と一緒に練った生地を薄く焼き上げ、細く巻いておく。
「あとは血が足りない分だな……」
ぶつぶつ呟いていると、不意に後ろに気配を感じ、振り返るとディルがそこに立っていた。
「うわっ」
「なんだか美味しそうな匂いがしたから」
見ればその顔色はずいぶん落ち着いて、自然な笑みが浮かんでいる。
「……食えそうか?」
「うん、たぶん」
「じゃあ飯にするか」
品数は足りないが、まあとりあえず食べることが最優先だろうと支度を始める。
スープに恐る恐る口をつけて、ほう、と顔を綻ばせたその表情に思わず安堵する。ゆっくりとだが、確実にその器の中身が減っていくのを眺めながら、自身も食事を始める。
「……久しぶりに美味しいって感じた気がする」
「そうなのか?」
「うん。それに、やっぱり誰かと食事をするのっていいね」
屈託のない笑顔に、だがどちらかといえば、不在の連中への苛立ちが湧いてきた。そんな彼の表情の変化に気づいたのか、ディルが苦笑する。
「ずっと一緒にいなくても、もう大丈夫だと思ってたんだけどね」
ディルは左手にある指輪を見ながらそう呟く。おそらくは何かの誓いの証であろうそれは、ややくすんではいるものの、それでも美しい輝きを保っている。それが贈られた経緯と意味に気づいて、胸のどこかが痛んだが、彼はそんな自身の想いに見て見ぬふりをした。代わりに肩をすくめて笑って見せる。
「あんたには無理だろう」
「……そう見える?」
「俺から見ればな」
いつだって、甘えたがりに見える。そんなことに、あの男が気づいていないはずはないと思うのだが。
「意外と大丈夫なんだよ、本当に」
——たぶん、あなたが甘やかすのが上手すぎるだけで。
困ったように、無防備に笑うその顔があまりに可愛く見えて、派手に咳き込んでむせ返る。
「……殺す気か」
「何で?」
「うるせえ、もう黙って食え」
首を傾げるその顔から視線を逸らして食事に集中する。食事中に何度も向けられる視線を感じたが、結局一度も合わせられないまま食事を終えた。
片付けは自分がする、と微笑みながらも強硬に主張され、一応その顔色を確認した上でやむなく頷いた。そうして、することもないので散歩がてら外に出る。彼の住む場所に比べてこちらは春が早いらしく、太陽は柔らかく暖かな光を投げかけている。あちこちに花が咲いているのも見えた。
ディルの様子からすれば、子供が生まれるのは真冬になるだろう。自分はその頃に何をしているだろうか、とちらりと考える。何しろあの様子では危なっかしくて目が離せない。だが、それは自分の役割ではないと思う自分も確かにいた。
「全く、本当に厄介事に巻き込みやがって」
毒づいてから思わずあたりを見回す。世界の果てまでも追ってきそうな魔女と精霊を相手にしては、ぼやくことさえ命懸けだ。もう一度ため息をついてから、森の中をしばらく歩く。やがて、泉に行き当たった。そういえば、と思う。ディルの異質な力を目の当たりにして救うことになったのも、こんな森の中の泉のそばだった、と。
——選んだのは自分だ。
そして、踏み込まなかったのも。それが最良の選択だと、本心から思っていたのかは今となっては自分でももうわからない。それでも彼女に幸せに笑っていて欲しいというその想いだけは嘘偽りない。
「これが惚れた弱みってやつかねえ」
ぼそりと呟いたところで不意に人の気配を感じて振り向けば、日の光を受けて輝く流れるような銀の髪と、困ったような笑顔が見えた。どこまで聞かれたのだろうか、と彼は思わず口元を押さえたが、ディルはただ穏やかな表情のまま首を傾げる。
「やっぱり迷惑だった?」
同じ問いを繰り返すのは、不安の表れだと思っていた。けれど、その表情で彼はようやく気づいた。
それは、甘えだ。
誰にも頼れず、孤独に生きてきた彼女が、ようやく心を許せる相手の一人に、間違いなく自分が入っている。そのどうしようもない事実に、何度目かの白旗を今度こそ自分の胸に突き立てた。それからごく自然にディルを抱き寄せる。出会った当初は気軽にそうしていたように。
「——俺の負けだ」
「負け?」
「あんたが好きだ」
言った途端にびくりと強張る体をさらに強く——傷つけない程度に——抱きしめる。柔らかく温かなその体温を感じながら、銀の髪に頬を寄せて、耳元に低く囁く。
「もうあんたが望むだけ、そばにいてやる。抱きしめる必要があるなら、そうしてやる」
この身に
「凄まじく不本意だが、俺がそばにいることで、あんたが笑って過ごせるならそれでいい」
そう言って笑うと、腕の中から鮮やかな薔薇色の瞳がこちらをじっと見つめる。揺れる眼差しは、何のための迷いだろうか。
「あいつに向ける想いも、生まれてくる子供も」
——全部まとめて愛して、誰よりも甘やかしてやる。
男としては何とも情けないが、それが彼の本音だった。薔薇色の瞳がさらに揺れて、それから顔を引き寄せられた。頬に柔らかいものが触れる。そして、耳元に顔が寄せられた。
「そういうの、知ってる。極め付きのお人好し、って言うんだよ」
悪戯っぽく、それでもひどく綺麗に笑った顔に、内心の白旗をもう一本追加して、彼は深いため息をつきながらも、気がつけば呆れたように笑っていた。
あれから十年。銀の髪の子供を抱き上げて夜の森を歩きながら、彼はふと思う。あの時の自分の選択は一体何をもたらしただろうか、と。あまりに目まぐるしかったこの年月と、失われたものの大きさと。
「ねえロイ、大きくなったら、お嫁さんにしてくれる?」
抱き上げた腕の中から自分を見つめる、かつて彼女が持っていたのと同じ、それでも、彼女のそれとは異なり、何の不安も翳りもない夜の色を映す瞳に、彼は自分が与えてやれたものを改めて実感する。
暖かい家と、抱きしめる腕と、美味い食事や何の気兼ねもなくこうして甘えられる時間。彼女が幼い頃に受け取ってこなかった全てのものを、与えてやれたと思う。
「お前がいい女になったら、考えてやるよ」
もはや自分の娘のようなその子供を、彼女以上に愛する時がくるとは到底思えなかったけれど。それでも嬉しそうに笑ったその頬に口づけてやって、彼はあの時と同じように自分に呆れてひとつため息をつく。
それから、そんな彼を不思議そうに見つめる子供と視線を合わせ、頬を緩めて笑ったのだった。
Somewhere, Nowhere 〜ここではないどこかへ〜 橘 紀里 @kiri_tachibana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます