二人の始まり

 目を覚ますと、見慣れた自分の寝台の上だった。身につけているものは清潔な白い上衣一枚で、素足に触れる柔らかなシーツの感触が心地よい。そう考えて、何かを心地よいと感じることにどこか罪悪感を覚えた。なぜだろう、と考えてしばらくぼんやりとしていた視線が部屋の隅にあるテーブルを捉えたところで全てを思い出した。あのテーブルの上に座りこんでは、へらず口を叩きながら、それでも楽しげに食事をとっていた小さな生き物。


 それが失われてしまったことに、世界が足元から崩れるような気がした。途端に身の内で湧き上がる炎のような感覚に意識を奪われそうになって、不意にその腕を掴まれた。


「同じことを繰り返すつもりか、アストリッド」


 こちらを見下ろしていたのは穏やかな、だが同時に呆れたような藍色の瞳だった。長い黒髪が艶やかに揺れている。身につけているのは黒を基調として、瞳と同じ藍色の糸で縫い取りのされた長衣だった。

「誰だっけ」

 名前が思い出せず、率直に口からこぼれた疑問に、相手が目を丸くして、それからどうしてだか楽しげに声を上げて笑った。

「あの状況下で俺の名前を覚えていろと言う方が無理か」

 不意に頬にその手が触れてきた。顎を持ち上げられ、間近にその夜空のような瞳が迫る。

「美しいな」

 唐突なその言葉に思わず首を傾げる。

「何が?」

「お前の瞳も、顔も……そして、その力も」

 ずきり、と胸の奥が痛んだ。どれほど同族たちから嘲られ、罵られ、虐げられても心が動くことなどなかった。なぜなら、自分に大きな力などないと思っていたし、ただのんびりと森の中で生きていけばいいと思っていたからだ。だが、確かに力はあった。


 ——そうして、その無自覚が、あの小さな妖精を殺したのだ。


 そう気づいて、息が止まった。比喩でなく、呼吸の仕方がわからなくなったかのように、あるいは、自分の体が生きることを拒否し始めたかのように。


「馬鹿、落ち着け」

 穏やかな声が、それでもわずかに焦りの色を浮かべたのが聞こえた。それでもアストリッドの喉はただひくひくと喘鳴を続けるばかりで、胸が締めつけられていく。ままならない自分の体に、だが、どこかでそれでもいいか、と思う自分がいることを彼女は自覚していた。

 ところが、不意に秀麗な顔が間近に迫り、唇が重ねられた。背を引き寄せられ、強く締めつけるように抱きしめられるのと同時に、驚いて開いた口に深く口づけられる。舌を絡めて、何度も繰り返されるその口づけに呆気にとられていたが、ようやくそこから何かが流れ込んでくるのに気づいた。


 冷たいような、それでも暖かいようなその清冽な力は、彼女の中で壊れた何かを確実に癒していく。


 唇が離れると、なんだか名残惜しいような気がして、とっさにその肩を掴んでしまう。自身も戸惑うその表情に気づいたのか、その青年の表情もまた、少し怪訝そうに、何かを考え込むように変わる。それから、もう一度、何かを確かめるかのように、ゆっくりと唇が重ねられた。今度は、何かが注ぎ込まれる事もなく、それは単純シンプルな、まるで愛の証のような。


「何をしてるんだ、俺は」


 長い口づけが終わった後の、あまりにも間抜けな台詞に、彼女でさえ呆気にとられ、それから——自分でも驚いたことに、笑みがこぼれた。


「それは、どちらかというと私の台詞だと思うけれどね。あなたは、竜なんだろう? 同族以外にこんなことをしていていいのかい?」


 竜は基本的に、その数が少ない事もあり同族にしか惹かれない。それも兄弟姉妹などの近親で婚姻することが多く、どちらかといえば他種族との婚姻の方が禁忌とされているはずだ。

 呆れたように言った彼女に、だが竜の青年はどこかまだ戸惑ったようにため息をつく。

「俺たちが他種族との婚姻を避けるのは、基本的に婚姻の結果生まれる子供とそれを育む母体がその力に耐えられないからだ」

「混血がまずいってことかい?」

「そうだ。竜の力は人や並の精霊には強すぎる。幼いうちはまだしも、力が満ちた頃にはその身を食い荒らす」

「怖いねえ」

「その平坦な声で言われてもな」

 呆れたような声に、だがアストリッドはその青年の腕の中が妙に心地よいことに気づいて、頭をその肩に預ける。

「そういえば、誰かに抱きしめられるのなんて、生まれて初めてだな」

「どれだけ孤独なんだ、お前」

「別に、なんとも思わなかったんだけれどねえ」


 森の中で一人で生まれ、一人で生きてきた。どちらかといえば訪れるのは、迷惑な客人ばかりだったから、孤独である方が彼女にとっては穏やかな日々だった。


「寂しい奴だな」

「じゃあ、あなたには誰かいるのかい?」

 そう尋ねれば、ぐっと言葉に詰まった。結局のところ、孤独耐性が高いのは竜も精霊もあまり変わらないのだろう。

「——いない方がまし、だと思ったか?」

 率直な言葉に、だが、もう心はさほど動かなかった。あえて、動かないように封じ込めたと言った方が正しかったかもしれないけれど。答えないままの彼女を青年はまっすぐに見つめながら、もう一度口を開いた。

「イーヴァルだ」

「え?」

「俺の名だ」

「真名かい?」

「ああ」

「随分自信があるんだねえ」

 竜にとっての名は、時に契約に使われ、その身を縛るほどに重要なものだったはずだ。だが、その名を開示することに全くためらいがないところを見れば、おそらくは、今までそれをなしえた者などいなかったのだろう。


「イーヴァル」


 まっすぐにその藍色の瞳を見つめて名を呼ぶと、わずかに驚いたように目を見開いた。その瞬間、左の手首に熱が宿ったような気がした。目を向ければ、左手首の内側に、黒い何かの文様が浮かび上がっていた。それは、竜の鱗のように見えた。

「あれ?」

「言っただろう、呪いをかけてやる、と」

 そう言えば、そんなことを言われたような気もする。ほとんど自失していたから、その記憶は曖昧だったのだが。

「これ、何が起きるんだい?」

「お前が、その力を使って誰かを傷つけると、同じだけの力がお前に返る」

「うわあ、怖いねえ」

「……もう少し感情を込めろよ」

 呆れたように言って、だがまあ、とイーヴァルは続ける。

「こうやって引きこもってりゃ、そんな機会もないだろうよ。気が済むまで寝ていればいい」

「なるほど。それで、死にたくなったら虐殺に出かければいいんだね。そうしたらあなたの呪いが私を殺してくれる」

「もっと穏当なやり方があるだろうが」

「冗談だよ」

 お前の冗談は洒落にならない、と苦虫を噛み潰したように言うイーヴァルに、アストリッドはなんだか不思議な気持ちがした。誰かが自分のことを、そんな風に気にかけていることに、慣れないというか。

 まじまじとその秀麗な顔を見つめる。竜というものはもっとどこか超然とした存在だと思っていたのだけれど。

「ねえ、イーヴァル」

「何だ?」

「もう一度、口づけキスをしてくれないか?」

 あまり深く考えずに口からこぼれた「お願い」に、イーヴァルは大きく目を見開き、それから心底嫌そうに首を横に振った。

「だめだ」

「どうして?」

「ろくでもないことが起きそうな気がする」

「人を疫病神みたいに」

「概ね合ってるだろ」

 それに、と続ける。

「お前のそれは、への哀惜と寂しさだろう。そんなものを俺に向けるな」

 率直なその言葉に、今度こそ胸を衝かれる。動じる心を何とかねじ伏せようと、唇を噛んで拳を握りしめると、不意にまた抱き寄せられた。

「面倒くさいな、お前」

 耳元で呟いた声は、言葉のままに実に面倒くさそうなのに、それでも彼女の淡い金の髪に触れる唇と、その体を包み込む腕はひどく優しい。

「あなたも、人のことは言えないと思うけれどね」

 これは確かに恋ではないのだろう。それでも、初めて彼女の命を惜しんでくれたのは、間違いなくこの残酷で優しい竜だった。


 その感情おもいを何と呼ぶのか、結局のところ二人とも知らなかったけれど。


「——せっかく拾ってやった命だ。せいぜい長生きしろよ」

「長生きって、どれくらい?」

「最低千年くらいか?」

「気の長い話だねえ」


 一体この目の前の青年は、その外見に反してどれほど長い時を生きてきたのだろうか。疑問はいくつも浮かんだが、とりあえずは余計な口を挟んで放り出されるのももったいない気がして、彼女はその胸に頭を預けてそっと目を閉じた。


 そんな風にして、二人の長い付き合いは始まったのだった。

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