30. 北へ
「あら、もういいの?」
部屋を出て、大きな長椅子のある居間に入ると、イングリッドが意味ありげな眼差しを向けてくる。
「そ、そんなんじゃないよ……!」
「あら、そうなの?」
首筋のあたりに目を向けて、首を傾げる。ロイも同じところを見ているのに気づいて、ディルはその青紫の瞳を見返した。
「何かついてる……?」
「ついてるな」
どうしてだか深いため息をついて、首を振っている。わけがわからず、アルヴィードを見上げると、ただ口の端を上げて笑っていた。
「まあ、せっかく女性になったんだもの。謳歌しなくっちゃ」
「謳歌って何?」
「分化するのは、誰かのために変化したいと願った時よ。だから、遠慮なく……」
その言葉の意味を悟って、ディルは頬を真っ赤に染める。
「お、女になってからは、してないよ!」
「女になってからは、ねえ」
低い声でぼそりと呟かれた言葉に、己の失言を知る。ただアルヴィードだけがくつくつと笑っていた。
「そんな話はさておき、これからどうする?」
アルヴィードはごく自然にディルを抱き寄せて、長椅子に腰掛けながらイングリッドとロイに視線を向ける。
「こいつの命があと一月ももたないというなら、今からイェネスハイムを目指して歩いてたんじゃ手遅れだ。イングリッド、あんた俺たちを一気にあいつの城まで飛ばせないのか?」
「城までは無理ね。それにあのあたりは『狩人』の本拠地でもあるから、あまり強い魔力で彼らを引きつけてしまわないとも限らない。ひとつ手前の街まで送ってあげるから、そこから急いで向かうのが最善かしらね」
「オルヴィクか。そこからなら十日ほどだな。ある程度の余裕はあるか……」
ロイの言葉に、だがアルヴィードは首を傾げる。
「あいつを直接呼び出せないのか?」
「呼べば応えてくれるかもしれないが、どちらにせよ、呪いの根源は北の果てにある。単純に解けるとも思えないから、向こうに足を運ぶ必要があるだろうな——ディル」
「何?」
「文様を見せてくれ」
歩み寄ってきたロイに、頷いて立ち上がると着ていた上衣を脱いだ。大きく顕になった肌に、ロイが動揺したように大きく口を開け、それからため息をついた。
「あんたなあ……」
「だってこうしないと全部見えないよ?それに、ちゃんと下着きてるし」
「そういう問題じゃねえよ」
脱ぎ捨てた上衣を肩から胸を覆うようにかける。それからふと、悪戯を思いついた子供のように笑う。
「そういうことは、
本気なのか冗談なのかを計りかねて、首を傾げると、苦笑して頭の天辺に口づけられた。
「頼むから、孫を見守るジジイくらいの気持ちでいさせてくれよ」
さもないと襲っちまいそうだ、と耳元で囁かれる。瞬間的に後ろから殺気が放たれたが、本人は肩を竦めただけで、気にした風もなかった。
手首を取り、そこからかつての傷痕を確かめるようにゆっくりと腕の内側に触れていく。そこには何の痕跡も残っていなかった。ただ、絡みつく蔦のような文様がうねりながら、肩を越え、腕の付け根までをも覆っている。
「これ、ロイが考えたの?」
「……ああ」
「何だか、不思議な感じがする。痛くも痒くもないのに、これだけ広がってるなんて」
もう少し、痛みなどがあれば、実感もできるのに。
「苦痛を与えることが目的じゃないからな」
「そうなの?」
「どっちかっていうと、見せしめだ」
盟約を
「うわあ、悪趣味だね」
「わかってる」
率直なディルの言葉に、ロイは顔を顰めてため息をついた。
かつての大戦がどれほどに凄惨なものだったか、ディルは話に聞くしか知らない。だが、ロイがどんな性格かは、それなりにわかってきているつもりだった。その彼をして、こんな呪いを考案させたのだから、よほどに酷い状況だったのだろう。二度と起こさせないためには手段を選んでいられないほどに。
「とりあえず出かけるなら早いほうがいい。準備ができたらすぐにイングリッドに送ってもらう」
「わかった」
「それじゃあ準備をしないとね。ディル、こっちへいらっしゃい。その髪、何とかしてあげるわ」
「ああ、ありがとう」
伸び放題の髪はくるぶしまで届こうという長さだ。このままでは不便この上ない。イングリッドに誘われるままに、彼女の私室へと入る。
そこにはつんとする、それでも爽やかな不思議な香りが漂っていた。
「まとめるだけにする? それとも少し切ってしまっても構わないかしら?」
「ばっさり切ってもらって大丈夫」
「あらあら、もったいないことを言うわね。じゃあ半分ほどね」
そう言って、鋏を取り出すと、器用に切っていく。地面には切り落とされた銀髪が渦巻くように輝いている。イングリッドはそれを拾い集めると、透明な水盤のような器に入れた。
「どうするの?」
「もったいないから、再利用しようかしらと思って」
唇に指を当てて、何かの秘密を話すようににっこりと微笑む。それからいくつかの不思議な音の連なりを呟くと、器の中身が炎を上げた。その髪と同じ色の銀色の炎は、中身を焼き尽くし、より白く輝くと、後には小さな塊と細い糸のようなものが残されていた。
「どうぞ」
魔女は、どこか楽しげに器の中身を指し示す。
「熱くない?」
「大丈夫よ」
半信半疑ながら、その燃え残った塊に触れると、熱いどころかひんやりと氷のように冷たかった。
それは、二つの銀の指輪と、小さな細い輪が連なった銀の鎖だった。
イングリッドはその二つの指輪を銀の鎖に通すと、ディルの首にかける。
「私からのささやかな祝福よ。全てが解決して、落ち着いたらひとつをあなたの愛する人に」
——そんな時がくるだろうか。
ディルのそんな内心の呟きに気づいたのか、ほんのわずかイングリッドは表情を変えたが、それについては何も言わず、背の半ばほどになった髪を緩く編んでまとめてくれる。
「どうして、親切にしてくれるの?」
魔女というのは、気まぐれなものだと思っていた。それでなくとも、他人であるディルに、イングリッドは随分優しい気がしている。
「さあ、どうしてかしら。あなたを見ているとそうしたくなるの」
「あの二人の知り合いだから?」
「それもあるわね」
けれど、と言いながらイングリッドは、ほんの少し雰囲気の違う笑みを浮かべる。
「あなたがあの人にとって、特別だからかしら」
「アストリッド?」
「あら、知っていたの?」
「名前と出会ったときのことを、アルヴィードから少し聞いた。詳しくは知らないけど」
「そう……」
その緑の美しい瞳は、どうしてだか複雑な色を浮かべている。
「イングリッド?」
「あの人のこと、あんまり怒らないであげてね?」
「怒る? 私が?」
「ええ。たぶん、あの人の話を聞いたら確実に怒りたくなると思うけれど、一つだけ覚えておいて」
「何?」
「あの人、底抜けの馬鹿なの。馬鹿で、不器用で、心の底から世界とあなたを愛してる。それだけは覚えておいて?」
相変わらず意味はまったくわからない。それでも、その緑の瞳には切実な光が浮かんでいたので、ディルはただ素直に頷くより他なかった。
旅支度を整えてから、イングリッドに
「随分大仰だな」
ロイの言葉に、イングリッドは悪戯っぽく艶やかに笑う。
「この人数を、しかもなるべく静かに運ばないといけないから、念には念を入れて、ね」
答えてから、ふと彼女はロイをまじまじと見つめ、ほんのわずか眉を顰める。
「あなた、あれを作ったのね」
「何のことだ?」
問い返すその表情は、ディルでもわかるくらいあからさまに何かを隠していた。その様子にため息をついて、イングリッドは首を小さく振った。
「それは、今のあなたには、ほとんど致死の毒よ」
「わかってるさ。そうそう使う気はねえよ。俺にとっての
「作ったら使わずにはいられない。それが人というものよ?」
「だとしたら、それが俺の運命なんだろうさ」
そう言って笑ったその表情に、どうしてだか心臓をギュッと掴まれたような気がした。いつもと変わらず穏やかなのに、その青紫の瞳に浮かぶ光は、何かが決定的に違う。イングリッドも何かを感じているのか、もう一度深いため息をつく。
「あなたに何かあれば、あの人も悲しむわ。それを忘れないでね」
「さてな。俺はもう十分に長く生きた。残りの余生くらい好きに生きさせてもらうさ」
「本当に、どうして私の周りには頑固な人しかいないのかしら」
「そりゃあ、あんたが変わり者で、そういう奴ばっかり気に入るからだろう」
笑うその顔は奇妙に晴々としていて、だからこそどうしてか不安になる。
「ロイ……?」
「そんな顔するなよ。あんたが心配することじゃねえさ」
「馬鹿だなおっさん」
不意にアルヴィードが後ろから割って入る。ロイが驚いたように振り向くと、アルヴィードは、ロイを真っ直ぐに睨み据え、ディルを抱き寄せて口の端を上げて笑う。
「あんたが言ったんだろう。甘やかして大事にしろって。あんたはもう十分にこいつの懐に入り込んだ。あんたに何かあれば、一生こいつは傷を負うぞ。それだけは覚えておけ」
それだけ言い捨てると、イングリッドに向き直る。
「おしゃべりはもう十分だ。さっさと起動しろ」
「あなたが、一番しっかりしているかもしれないわ」
愛って偉大ね、と呟いてから婉然と微笑むと、皆を円陣の中心に呼び寄せる。いくつかの音の連なりと共に、その床の文様が鮮やかな緑に輝き始めた。
「街から少し離れた森の中に移動させるから、気をつけてね」
「イングリッド、ありがとう」
「全てが終わったら、また会いに来てね。今度はゆっくり女同士いろいろおしゃべりしましょう」
艶やかな微笑みは初めて会った時よりも、遥かに親しみやすく見えた。その理由について思いを馳せている間に、部屋の景色が曖昧になり、そうして気付くと、彼らは森の中に立っていた。
アルヴィードが先に一歩を踏み出し、振り返る。
「それじゃあ、行くか。お前の運命とやらを打ち破りに」
その表情には迷いがない。ならば、ディルもただ前に進むだけだ。後ろを振り返り、自分に心を砕いてきてくれたもう一人を見上げる。
「ロイ」
「何だ?」
「……もうちょっとだけ、長生きしてね?」
冗談めかした言葉に紛れ込ませた本音は、伝わっただろうか。
「可愛い孫の言うことだ。聞かなきゃならねえか」
しばらく沈黙してから、呆れたように苦笑して、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
その気配がほんのわずか緩んだことに安堵して、ディルもまた歩き出した。
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