36. 世界の涯
寝転んだままひとしきり毒づいた後、こちらを見上げた瞳は透き通るような青に変わっていた。穏やかに晴れた冬の空のような、あるいは凪いだ湖のような。
まじまじと見つめるディルに気づいて、ロイが怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「何だ?」
「瞳、青になってる」
「あー……」
気まずげに視線を逸らし、頬をかく。その襟首を掴んで、まっすぐに視線を合わせた。
「説明して」
我ながら、剣呑な眼差しになっている自覚があった。可能な限り低い声でそう言ったディルに、だがロイは別の方に視線を向ける。
「……俺よりあっちに聞いてくれ」
その視線の先にはアルヴィードがいた。彼は肩を竦めると、ロイの襟首を掴んだディルの指を離させ、その身体を引き寄せた。
「カラヴィスを発つ前に、イングリッドに呼び出された。
だが、とさらに続ける。おそらくはその副作用として、薬によって増幅されたものだけでなく、全ての魔力が根こそぎ消し去られるだろうと。
「何だと?」
「つまり、どういうこと?」
尋ねたディルに、アルヴィードはもう一度肩を竦めた。
「
あとの細かいことは知らねえ、と冷たく言い放つ。
「雑にもほどがあるだろ……」
「魔女とおっさんの因縁になんか関わってられるかよ」
めんどくせえ、と心の底から本当に面倒臭そうにそう呟く。それから、行くぞ、と声をかけて本当に歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って」
「何だよ」
「ロイは……?」
「もう大丈夫だろ」
「そうなの?」
「どうやらそうみてえだな」
言いながら立ち上がる。
「格好つかねえなあ」
「下手に格好つけようとするからだろ」
冷たく言い放たれて、ロイは深いため息をつく。ディルは、アルヴィードの腕から抜け出してロイに歩み寄り、その顔に両手をかけて引き寄せた。
「本当に、もう大丈夫なの?」
「試してみるか?」
色の変わった瞳が、それでもいつもと同じ光を浮かべている。腰を抱き寄せられ、その顔が至近距離まで近づいた。まっすぐに見つめていると、しばらく何かをためらうように見つめ返されたが、やがてその距離がなくなった。全身を強く抱きすくめられ、深く口づけられる。
だが唇が離れた後、むしろ怪訝そうな眼差しを向けられた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「それであなたの気が済むのなら、別にいいよ」
そう言うと、後ろから忍び笑う声が聞こえて来た。ロイは唖然と大きく口を開き、それからもう一度深いため息をついた。
「どういう意味だ?」
「
「後ろの奴はいいって顔してねえけどな」
殺気が伝わってくる、とそれでも恐れる風もなく言う。振り返って見たアルヴィードはどちらかといえば、やはり面白そうに笑っていた。
「同じ台詞だな」
「そうだっけ?」
「だからお前はまだ
無意識に誘惑しまくるくせに、と言ってディルを抱きしめているロイにどうしてだか哀れむような眼差しを向ける。
「その辺の機微をそいつに期待するだけ無駄だぞ」
「なら、そこから教え込むのも愉しそうだがな」
「いつまでもふざけてると、いっぺん締め上げるぞ」
「怖いねえ」
それでもディルを離そうとしない。身じろぎすると、より強く抱きしめられた。
「ロイ、離して」
「何でだ?」
「先へ、行かないと」
言ったディルに、ほんのわずかためらう気配がする。それから、耳元にぎりぎり届くかどうかいう小さな声で囁かれた。
「もうちょっとだけ、このままでいさせてくれ」
大人しく抱きしめられていると、ややしてその腕が解かれた。見上げた先の瞳は、わずかに切ない色を浮かべていたが、それでもすぐにいつも通りの飄々とした表情に戻る。
「さて、行くか」
「ロイはついてきちゃだめなんでしょう?」
「もう俺は
「そうなの?」
アルヴィードに視線を向けたが彼もまた肩を竦める。ただ、歩み寄ってきてロイから取り戻そうとでもするかのように、その身を抱き寄せた。
「二度と
「でも——」
「どんな形であれ、お前を傷つけることは、それがたとえお前自身でも俺は許さない」
強い眼差しに、思わず息を呑んだ。その決意を受け入れて、ため息をつく。
「生き延びたら、剣を習うよ」
せめても少しでも自分自身と大切な人を守れるように。ただ、守られるばかりでなく。
「好きにしろ」
肩を竦めたアルヴィードに、後ろから呆れたように笑う声が聞こえて来た。振り向くと、面白そうな表情がこちらを見下ろしている。
「……何?」
「いや、これが片付いたら心穏やかに暮らすのかと思ったら、あんたの人生、
言われて首を傾げる。心穏やかな暮らし、と言うものをほとんど体験したことがないから、あまり想像がつかなかった。
「穏やかに過ごせたのなんて、あなたと
「なら、うちに嫁に来るか?」
大事にしてやるぞ、と冗談なのか本気なのか判断がつかない真顔でそう言ってくる。
「あとで考えるよ」
「いい加減にしろ、馬鹿」
適当に答えただけのつもりだったが、思いがけず強い声が降ってきて、びくりと背中が震えた。見上げた金の双眸は、どうしてだか苛立ちを強く浮かべている。
「どうしたの?」
「頼むから、これ以上フラフラするな」
よくわからないことを言って、軽く額に口付けられた。
「とにかく行くぞ」
背を押して促され、ため息をつきながらも暗い穴へと踏み出した。
穴は狭く、ぎりぎりアルヴィードが屈まずに進めるくらいの高さだった。細く続くその道を、ロイから渡された青く輝く小瓶を掲げながら歩く。闇の中、どうしてだか息が詰まるような気がした。
「魔力の気配だな」
ディルの顔を見て、アルヴィードがそう呟いた。
「魔力?」
「うんざりするくらい、強い魔力が満ちてる」
「そうだな。だからこそ、あいつはここで術を構成したんだろう。この地に満ちる魔力と、あいつ自身の力を縒り合わせて」
呟くロイの声は暗い。それは彼の願いだったという。
「そんなに大戦て、ひどかったの?」
「ああ。
だが、とロイは続ける。
「俺は、ただ俺の
——ただ、彼の故郷を守りたかったのだと。
幾度も見た、故郷が炎に包まれる夢を、ただの幻で終わらせるために。
「でも、そのおかげで戦が終わったんでしょう?」
少なくとも、さすらいながら過ごした第一の世界は、穏やかで平和に見えた。何かを成し遂げようとすれば、ある程度の犠牲はつきものだろう。ましてや、世界を滅びから守るなどと、大それたことを考えるならば尚更に。
そう言ったディルに、だがロイは首を横に振る。
「だからって、あんたみたいに別の形で犠牲になる者がいることから、俺は目を逸らすべきじゃなかった」
「そんなに何でも背負い込んでたら身が保たないよ?」
「何でもじゃねえよ。あんただから、背負い込んでんだよ」
まっすぐな言葉は、その想いを直裁に伝えてくるからこそ、どうしていいかわからない。傍らのアルヴィードを見上げると、片眉を上げて笑った。
「放っておけ」
「……余裕でひでえ」
「本気で奪う気概もないなら、
笑みを含んだ言葉に、ロイが鼻白む。
「もらっちまってもいいのか?」
だが、アルヴィードはただ口の端を上げて笑うばかりで、答えなかった。
そんな話をしながら歩いているうちに、ふと前方が明るくなっているのに気づいた。細く続く穴の向こう側から、何か光が洩れている。アルヴィードを見上げると、ただ頷いて、先に立って足を早めた。
そこに広がっていた光景を見て、ディルだけでなく二人も息を呑むのが伝わって来た。
細い道を抜けたその先には、広い空洞が広がっていた。天井は見上げるほどに高く、暗く先が見えない。そして、その広間の奥には白く輝く結晶がある。壁一面に大きく広がるその結晶の中には、黒い大きな影のような姿が閉じ込められていた。
信じられないほど巨大なそれは、何かの獣のようだった。全身は黒い鱗で覆われ、額には二本の銀色の角があり、顎から首筋にかけてはやや青みがかった銀色の肌をしている。
結晶の中に、まるで氷漬けになっているようなそれは、見たことはないが、伝説の中に棲むという生き物だった。
「……竜?」
「信じ……られねえ」
呟いたディルの横で、ロイが唖然とした声を上げる。だが、その後不意に納得したように一人で頷いた。
「なるほど、そういうことか」
視線を向けると、ロイはまじまじとディルを見つめてもう一度頷いた。
「あんたがこっちの世界で禁呪を使っても、
「どういうこと?」
「アルヴィード、お前、あいつの正体を知っているな?」
視線を向けられ、アルヴィードは肩を竦めながら頷いた。
「ああ」
「竜は、存在そのものが魔法みたいなもんだ。その身をもって、呪いの根源たる月水晶にその身を沈め、この呪いの伝播を防いだ」
「どういう……?」
「狩人は、『盟約』が破られたことを月晶石の共鳴で知る。本来触れたり近づいたりしなければ、わからないはずの遥か遠くのそれさえも感知できるのは、この巨大な結晶が増幅器のような役割を果たすからだ。この竜は、それを封じていたんだろう。あんたが触れさえしなければ、その居場所が伝わらないほどに」
——ノールヴェストにいると思う。あなたを守るために。
アストリッドはそう言っていた。ならば、この竜は。
「……イーヴァル?」
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