35. 深淵
鎌を持つその美しい姿は、地の底から湧き上がるように現れ、音もなく近づいてくる。その数は七人。いずれもが、邪悪としか言いようのない、嗜虐の悦びに酔ったような歪んだ笑みを浮かべている。
ぞくり、と背筋が粟立つ。いくら黒狼と言えども、あの数を同時に相手にはできないだろう。
「逃げよう」
今は行く手に遮るものはない。駆け抜ければ、あの穴の向こうまでたどり着けるはずだ。だが、黒い獣は動かない。こちらをじっと見つめ、その首で穴の方を示した。
「ひとりで行けっていうの?」
頷く代わりに、一つ尻尾を振る。
「嫌だ」
そう答える間にも、狩人たちは間近に迫る。黒狼は飛びかかってきた一人の喉笛に食らいつき噛み砕いた。一瞬でその姿が灰に変わる。だが、その隙に横から現れた一体が黒い身体を切り裂いた。闇の中でさえ、鮮血が飛び散るのが見えた。
「アル!」
ディルが駆け寄ろうとした瞬間、獣の咆哮が響いた。初めて聞くその声は、恐ろしく、だが明らかに、来るな、行け、と告げていた。
「嫌だ!」
いくつもの鎌がその身に迫る。俊敏に躱し、さらに一体の右足を引きちぎり、噛み砕いて灰に変えた。その背が大鎌で切り裂かれる。だが獣は怯んだ様子もなく、もう一度高く咆哮する——行けと。
ディルは唇を噛み、暫し逡巡したが、それでも獣に駆け寄った。金の双眸が怒りに燃えて、彼女に向かってその牙を剥く。
「わかってるよ、でも嫌なものは嫌だ!」
彼は二度とディルをひとりにしないと言った。ならば、自分も彼を置いていくことなどできない。たとえ、どんな理由があろうとも。
その決意を悟ったのか、黒狼は呆れたように鼻を鳴らす。
「頑固なのはお互い様だよ」
笑って言って、ふと手の中の小瓶を思い出す。あの人は派手に打ち上がると言っていなかったか。雷と炎を閉じ込めたというのなら。
ディルは黒狼の首を抱き、ほんのわずか身を引くと、残る狩人たちの足元に向けて、力の限り、その二つの小瓶を投げつけた。
次の瞬間、炎と雷が混ざり合い、耳をつんざくほどの轟音と目を焼く真っ白な光があたりを包んだ。狩人たちの悲鳴が上がり、白い
後には、灰さえも残らなかった。
「やった……?」
ぺたりとその場に座り込んだディルに、黒い獣がいたわるようにその頬を舐める。だが、次の瞬間、また獣が身構えた。低く唸ったその視線の先、闇に包まれたその洞窟の中で、淡く光る髪と、いくつもの鎌が現れる。
「そんな……」
灯りを失い、すでに先へ進む道さえも見失っている。黒狼は、迫りくる精霊たちのなれの果てとディルの間に立ちはだかる。いかにその数が多かろうと、決して諦めないとその背が告げていた。
ディルは自分の左腕を見る。かつてつけた傷は消え、ただ蔦が絡みつくような文様が覆うそれを。不死の幽鬼相手に、どれほどそれが有効かはわからなかったが、少なくともここで二人共に果てるくらいなら。
その決意を感じたのか、黒い獣が低く唸った。
「大丈夫だよ」
呪いは既に発動している。目の前には狩人たちがいる。これ以上、悪くなりようのない状況を前に、
狩人たちはもはや一言も発しない。淡く光るその姿は美しいのに、その顔に浮かぶのは残虐な笑みだ。既に正気を失い、人の命を啜ることにしか悦びを見出さない歪んだ存在。彼らもまた、大戦の被害者ではあるのだろう。
近づいてくる大鎌を前に、懐から取り出した短剣を自分の腕に振り下ろそうとしたその時、ディルと狩人たちの間で風と光が弾けた。
「間に合ったか?」
にやりとこちらを見下ろして笑ったのは、そこにいるはずのない相手だった。
「ロイ⁉︎」
「話は後でな」
言って、向かってきた狩人たちと対峙する。何事かを呟くと、その手から光が浮き上がった。次の瞬間、一番近くにいた狩人たちの体の一部が光り、砕け、そして灰になる。
「何……?」
「そなた、それは——」
狩人たちが驚きの声を上げる。
「馬鹿な、我らの身の内に埋め込まれた月晶石を直接砕くなど! そんな力はそなたにはないはず」
はっと、手前の一人が息を飲んだ。
「まさか、紫闇の薬か? だがそんな使い方をすれば、そなたの体は……」
「俺は薬師だ。
「愚かな、器に見合わぬ力はそなたを滅ぼすぞ!」
叫んだ狩人に、だがロイは不敵に笑う。懐からごく小さな瓶を取り出すと、その栓を引き抜き、一気に飲み干す。その瞬間、ディルにもはっきりとわかるほどに、ロイを包む空気が変わる。それは、恐ろしいほどに強い魔力の気配だった。
「余計なお世話だって言ってんだろ。黙って引っ込む気がないなら、消え失せろ!」
言い捨てて、さらにその口から不可思議な音の連なりが紡がれる。それと共に、さらに光が生まれ、そして、精霊たちのなれの果ての仮初の命を砕いていく。
その圧倒的な光景は、だが、ディルにはどうしてか不吉な予感を呼び起こした。
「ロイ、やめて!」
その腕を掴むと、ひどく優しい眼差しが向けられ、そのまま抱きすくめられた。闇の中に浮かび上がるその瞳は、穏やかな青紫から、禍々しいほどに深い紫色に変わっていた。
「ロイ、その瞳……」
「変わってるか?」
「紫になってる」
「……もう限界か」
呟いて、地面に膝をつき、それでも不敵な笑みを浮かべる。
「これが最後だ。全ての幽鬼どもよ、灰に帰れ——!」
地面についた手から光が湧き上がり、そして地に沈んでいく。それとともに、無数に湧き上がっていた狩人たちの気配が消えた。
不意にディルを抱きしめていた片腕から力が抜ける。そのまま地面に崩れ落ちた。
「ロイ!」
黒狼も駆け寄ってくる。抱き起こしたロイの体は氷のように冷えきっていた。
「何で……?」
「あれが割れた音が聞こえたからな、のっぴきならねえ事態になってるんじゃねえかと思って」
間に合ってよかった、と言ったその瞬間に激しく咳き込み、その口から血がこぼれた。
「ロイ⁉︎」
名を呼ぶことしかできないディルに、ロイは薄く笑う。
「そんな顔するなよ。可愛い顔が台無しだぞ」
「何言ってるの! どうして来たの⁉︎」
「どうしてって……そこは感激して、愛してるとか言いながら口づけるとこだろ?」
「馬鹿じゃないの⁉︎」
「ひでえなあ」
言って笑いながら、もう一度咳き込む。唇の端に流れた血を拳で拭いながら、懐から、出がけに渡されたのと同じ小瓶を取り出した。
「予備だ。あいつの仕掛けはこのすぐ先にあるはずだ。行って、運命とやらを切り開いてこい」
「あなたはどうするの?」
「わかってんだろ?」
紫に染まったその瞳は、ひどく優しく笑う。思い残すことはないとでもいうように。自分でもままならないほど、どうにもならない焦燥と怒りで殴り付けたい衝動に駆られ、ディルはロイの襟首を掴んだ。
「ふざけないで!」
「ふざけてなんかねえよ。惚れた女を守って死ぬ——最高だろ?」
「最低だよ!」
襟首を掴んで叫ぶと、切なくその眼が眇められ、それから後頭部に手がかかり、口づけられた。血の味のする、深く絡みつくようなそれに驚いて手を離すと、そのまま後ろに倒れる。
「痛っ」
ごつんと痛そうな音のそのままに、呻き声が上がる。その時、後ろから深いため息が聞こえた。見上げると、いつの間にか人の姿に戻り、衣服も整えたアルヴィードの姿があった。
「何やってんだよ、おっさん」
「前途ある若い恋敵に後を託して、愛する女のために命を捧げるところだよ」
「馬鹿だろ、あんた」
呆れたように言って、それから何かの瓶を取り出すと、地面に寝そべったままのロイの口に無造作に突っ込んだ。有無を言わさず飲み込まされた後、急にその顔色が変わる。胸を押さえて、苦しげに呻き始めた。
「ぅぐっ……」
「ロイ⁉︎ アルヴィード、何を飲ませたの⁉︎」
見上げたが、アルヴィードはただ肩を竦める。
「知らねえ」
「知らないって……!」
ロイは半身を起こし、苦しげに胸を押さえている。身中で何かが暴れ回り、吐きたいのに吐けない、そんな感じだった。
「ロイ、大丈夫⁉︎」
その顔は苦痛に歪み、額には冷や汗が浮かんでいる。その背を抱き寄せると、しがみつくように肩を掴まれる。呼吸が荒い。痛みに耐え、叫ぶのを必死に堪えているようだった。
だが、ややしてその呼吸が落ち着いてきた。しかめられていた眉が開かれ、ふと、深い息をつく。
それを見たアルヴィードが、静かに口を開いた。
「
その言葉はディルにはまったく意味不明だったが、ロイは顎が外れるほど口をあんぐりと開け、それから頭を抱えた。
「あんのくそ魔女……!」
それから闇の中に、聞くに耐えない罵詈雑言が響きわたった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます