34. 洞窟

 凍える風に震えながらも、見渡す限り一面に広がる白いその光景に思わず目を奪われた。

「これが、雪……?」

 足元から凍りつくような冷気が伝わってくる。その白い世界にある洞窟の場所について、アストリッドは「世界の果て」と言っていた。世界の北の果てのさらに先。


 そこは、夏だというのに真っ白に覆われていた。カラヴィスで購入した外套をしっかりと体に巻きつけてさえも、体の芯まで凍りつきそうなその寒さが身に染みる。

「雪を見るのは初めてか?」

「うん、あっちでは降ったことなかったから」

 言いながらも顎がうまく動かず、声が震える。アルヴィードはディルの肩を抱き寄せると、洞窟への入り口へと足を踏み入れた。少なくとも冷たい風の吹かないそこは、外よりはましだったが、その先は闇に包まれ、何も見えない。

「大丈夫か?」

 こちらを見下ろす瞳は暖かく、強い。迷いのないその眼差しが、頼もしいと感じると同時に、やはり一抹の不安がよぎる。

「アルヴィードこそ、本当にいいの?」

 この先に待ち受けているのは、おそらくは「狩人」たちの群れと、さらに先の読めない困難だ。

「お前こそいいのか、俺で」

 含みのある言葉は、「彼」から出がけにかけられた言葉のせいだろうか。ここノールヴェストには「盟約」の呪いの根源がある。だからこそ、アストリッドは呪いの主である彼女自身と、その願いの発案者であるロイは共に行くべきではないと告げた。ディルが書き換える際に、余計な干渉や悪影響を与える可能性があるから、と。

 だが、ロイは最後までそれに抵抗した。


「俺自身が呪いを構成したわけじゃない。影響はないはずだ」

「あのねえ、私の術は繊細に出来ているんだよ。君が思っている以上にね」

「だからってここで指咥えて見てろっていうのか?」

 その青紫の瞳に浮かぶのは、それまでに見たことがないほどの強い光と——おそらくは焦燥だった。

 彼が考案したという呪いがディルを殺そうとしている。それを回避するために、呪いそのものを別のものに書き換える。言うだけなら簡単だが、そこに至るまでの道のりには危険が横たわっているという。だからこそ、アストリッドは何度も言った。自分がその呪いを引き受ける方が確実だ、と。それでも——。


「ロイ、この子は自分で切り開くと決めた。それを邪魔する権利は私にも、君にもないよ」

 きっぱりと言ったアストリッドに、それでもロイは複雑な眼差しを向ける。

「もし、何かあったらどうする? あそこはあんたでもだろう?」


 ノールヴェストの洞窟は魔力が濃すぎて、アストリッドの力を持ってしてもことができないのだという。万が一、ディルとアルヴィードが危機に陥ったとしても、彼らにはそれを知る術がない。

 だが、ディルにとってはどうでもいいことだった。

「元々、助けなんてあてにしてないよ」

 そう言うと、むしろ傷ついたような顔をされる。

「あんたなあ……」

「しょうがないじゃないか。もうここまできたら覚悟を決めるしかないよ」


 自分の命を投げ出さない、けれど、誰も犠牲にしない。アルヴィードもそう言ってくれたから。


「信じてよ」

 まっすぐにその青紫の見つめてそう言うと、不意に抱きしめられた。きつく、それまでされたことがないくらい、背中が折れそうなほどに。

「何で、よりにもよってあんたに惚れちまったかな」

 耳元で、低く囁くように告げる声は泣き笑いのように聞こえた。

「それは、負い目なんじゃないの?」


 ——恋情というよりは、後悔と憐憫の。


 だが、見上げた顔は困ったように笑っていた。

「だったら、よかったんだけどな」

 切ない表情の意味はさすがにディルでも気づかずにはいられなかった。だが、ロイは腕を解くと、その身体をアルヴィードの方に押しやる。

「頼むぞ」

「あんたに言われるまでもないさ」

「……だろうな」

 深いため息をつきながら、ロイは懐から二つの瓶を取り出すと、ディルに手渡した。手のひらに収まるくらいのその小瓶は、内側で何かがちかちかと明滅している。ひとつは黄色く、もうひとつは青く。

「洞窟の中は暗いだろうから、灯りとお守り代わりにな。雷と炎をそれぞれ封じてある」

「凄いね、綺麗」

「よっぽど衝撃を与えなければ割れやしねえが、一応取り扱いには気をつけてくれ」

「わかった」

「必ず、無事に戻ってくれ。無理だと思ったら逃げろ。そいつを叩きつければ、派手に打ち上がるはずだ。俺か、アストリッドが必ず気づく」

「そんな事態にならないことを祈ってて」

「祈りで、あんたが救えるなら、いくらでもそうするがな」


 それは祈りが叶えられなかったことを知る者の言葉だ。かつてのディルがそうであったように。けれど、今は——。


「大丈夫だよ。もっとも強い力を持つ精霊と現世最高の先見視さきみと、最後の黒狼に守られるなんて幸運に恵まれる奴がそうそういると思えないし」

「どっちかっていうと、厄介者に絡まれてるだけな気がしなくもないがな」

 言えなくもない。けれど、ようやく笑ったその顔にほんの少し安堵して、そうしてディルとアルヴィードは二人に見送られて、その世界の果てにやってきた。


 渡された小瓶を取り出し、洞窟の中を照らす。思っていたよりも強いその光は、その洞窟が想像以上に広く、そして奥へと続いていることを明らかにした。

「広いね」

「そうだな」

 ゆっくりとその中に踏み込んでいく。明らかに天然の洞窟に見えるのに、奥へと一本続く道が見える。慎重にその道を進みながら、傍らを歩くその人を見上げると、その横顔は穏やかに落ち着いている。

「……何だ?」

「ううん。俺でいいのか、ってさっき聞いてたから」

「そういえば、答えを聞いてないな」

「アルヴィードはどうなの?」

「どうって?」

「もし、私がロイを好きだと言ったらどうするの?」

「どうしようもねえな。本当にお前があいつを選ぶなら、それはそれで仕方ないんだろう」

 投げ出された気がして、何となく面白くない気持ちが湧いてきて自分でも驚く。

 ——別にそんなに好きじゃないと言われたような気がして。

「違ぇよ、馬鹿」

 その表情の変化を悟ったのか、呆れたように笑う気配が伝わってくる。もう一度見上げると、そんな場合ではないはずなのに、ひどく甘い表情が浮かんでいる。

「お前が、何かを欲しいとか好きだとか、こだわるなんてよっぽどのことだろう」


 いつだって期待して、裏切られそうになると怯えて逃げ出していたくせに。


 そう言って笑う。

「お前が、本当に何かを欲しいと願うなら、俺はそれを叶えてやるさ。とはいえ、そうそう簡単にお前を諦めると思ったら大間違いだ。で、結局のところ、どうなんだよ?」

「よく、わかんない」

 アルヴィードのことが好きだと思う。彼から向けられる好意も間違いなく嬉しい。だが、ロイから向けられる好意と、自分が彼に抱いている感情については、よくわからない、というのが本音だった。

「好き、ってややこしいね」

「まあ、そうだな」

 笑って頷いて、だが不意にアルヴィードが足を止めた。ディルの行手を遮るように左手を前に出す。

「何……?」

「見ろ」

 踏み込もうとしたその数歩先には、闇しかなかった。底の見えない大きな断崖が口を開けている。右側に細い、人一人がやっと通れるような橋のような道がある。

「あれを渡れってことだよね」

「翼でもあれば別だがな」

 軽口を叩いて、だがすぐにアルヴィードの気配が変わる。周囲に向けて警戒するような眼差しを向ける。

「おでましか。走るぞ」

 言って、ディルの腕を掴んでその細い橋のような道を駆け抜ける。

「アル……?」

「いいから走れ!」

 引きずられるようにその道をかけながらも、端が崩れ、一瞬足を踏み外しそうになる。奈落へと真っ逆さまに落ちそうになるところを、引き上げられ、そのまま抱き上げられた。

「こっちの方が早えな」

「ごめん」

 謝りながらもなるべく負担にならないように、その首に腕を回す。その向こうに見えたのは、闇の中に浮かび上がる、煌く鎌だった。

「『狩人』……!」

「どこまで逃げ切れるかだな」

 言ったそばから、前方にその姿が現れる。滑るように宙を進むその姿は、地面など必要としないと言わんばかりで、どう考えても陸地が必要なこちらが不利だった。アルヴィードは、全力で岩の橋を駆け抜け、対岸に滑り込む。銀の鎌がその髪の先を切り裂くのと、対岸に着くのはほぼ同時だった。

 広い地面を確認するなり、アルヴィードはディルを下ろし、腰に帯びていた剣を抜く。

「ディル、道はどっちに続いてる?」

 狩人から目を離さないまま、そう尋ねられ、小瓶を掲げながら周囲を見回すと、狩人の立ちはだかる先に続く穴が見えた。

「狩人の先、左の奥」

「なるほど、通せんぼってわけか」

「抜けるぞ」

「通さぬよ」

 にぃっと笑うその顔は、かつて見たそれとは異なるが、その邪悪さにおいては変わらなかった。なれの果て、とロイは言っていた。破壊の衝動で正気を失い、消滅させられる代わりに、幽鬼として使役される身になったと。

「じゃあ、死ね」

 アルヴィードは、瞬時にその距離をつめると、狩人の左腕を斬り落とした。だが、相手は動じた風もない。

 切り落とされた左腕は霧散し、気がつけば元どおりになっている。

「はずれか」

「そなたには見えぬであろう」

「どうかな」

 言ってディルの方を振り向くと、不敵に笑う。

「着替えを拾っておいてくれ」

「え……?」

 問い返す間もなく、その姿が揺らめき、黒い獣に変わった。金の焔のように輝く瞳が、狩人を捉える。そして、目にも見えない速さでその左肩に食らいつくと、腕ごと引きちぎった。狩人が愕然としたような叫びを上げる。

「馬鹿な……!」

 それから、その喰いちぎった肩をさらに噛み砕くと、狩人は信じられないというような顔のまま、前回と同じように急激に老いてしなびていき、やがて灰になった。


 黒い獣はその口から不快そうに何かを吐き出す。それは、透明な石の欠片だった。側に駆け寄り、その首を抱く。

「黒狼の姿なら、月晶石の埋め込まれた場所が見える?」

 黒い獣は返答の代わりなのか、ディルの頬を舐める。

「凄いね、アル」

 そう言って、その首のあたりを撫でた時、だが黒狼がぴくりとその耳を立てた。後ろを振り向き、低く唸り始める。


 その視線の先に見えたのは、無数の煌く鎌と、押し寄せる狩人の姿だった。

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