Ch. 6 - Change the world

33. 盟約

「で、結局どうするんだ?」

 ディルを抱きしめたまま微笑んでいるアストリッドの上から、微妙に不機嫌な男の声が降ってくる。

「ああ、すまない。返すよ」

 その顔を見て、アストリッドが、また意味のわからないことを言って腕を離すと、彼の方へとディルを押しやった。


 彼は彼で、素直にそのままディルを抱きしめる。あの甘いような辛いような香りがふわりと香り、落ち着くような、逆にそわそわするような、もはや混乱する気持ちさえもが曖昧になっていく。

「大丈夫か?」

「情報と感情の起伏が多すぎるよ」

 思わずこぼれた呟きに、笑う気配が伝わってくる。それでも自分を抱く腕の力が強くなったのを感じて、それに安心する自分を自覚する。顔を上げると、不意に口づけられた。短いが深いその口づけに目を見開いていると、金の双眸が楽しげな光を浮かべる。

「他の奴らばっかりに、お前が動揺させられるのは気に入らない」

「一番、俺を振り回してるのは、間違いなくあなただよ」

 ため息をついてそう言うと、ディルを抱く腕の力がさらに強くなり、その表情がさらに甘くなる。

「なら、いい」

「何なの?」

 首を傾げていると、アストリッドがうっとりと呟く。

「幸せそうだねえ。やっぱり私がその呪いをすっぱり引き受けた方がいいと思うのだけれど」

「却下だよ。もういいから早く話して」

 呆れ顔でディルがそう言うと、アストリッドはため息をついてから話し始めた。


「私が構成した呪いは、もともとはロイの願いだ。彼の願いを元に、世界に対して『盟約』を破った者に刻印し、やがて死に至るという呪いをかけた。基礎となるのは、ここからさらに北にある、ノールヴェストの洞窟の中にある、月水晶とその前に置いてある石版だ」

「月水晶と……石版?」

「そう。まあ月晶石のクラスターと『盟約』を記載した石だね。その二つでこの術は構成されている」

「じゃあ、その二つを壊せば、呪いは解ける?」

「そこが難しいところだね」


 曰く、その二つを壊せば、世界にかけられた呪いは解け、今後誰かが「盟約」をたがえたとしても、呪いが発動することはなくなる。けれども、人の身の内に組み込まれてしまった刻印と呪いは解けない。

 アストリッドが感知している範囲では、ここ数十年で「盟約」を侵した上に、『狩人』の手を逃れたのはディル一人きりだから、現時点で呪いをその身に受けているのも彼女だけだという。そういえば「狩人」もディルの前に現れた時に、随分久しぶりだ、と言っていた。大戦から三百年、思いの外、「盟約」は効果を発揮していたと言っても良いのだろう。


「少なくとも、その二つを壊せば、今後呪いを受ける人はいなくなる。けれども、『盟約』が呪いを伴わなくなったら……」

「また、使い始める者たちが出るかもしれないね」


 かつてロイが言っていたことを思い出す。その呪いのことを知ってなお、それを破ろうとする者などごく少数のはずだと。ディル自身がそのわずかな件レアケースに当たるが、それを壊したところで彼女の呪いが解けるわけではないのなら、壊す意味さえもない。むしろ世界をまた危機に晒すだけで。


「そんなことはどうでもいい。アストリッド、呪いを移し替える以外に、こいつの呪いを解く方法があるならさっさと言え」

 ディルの迷いを悟ったかのように、アルヴィードがそう言った。ふと、心臓が締め付けられるような気がした。彼女が救われなければ、彼もまた、その運命を共にするつもりでいる。

 唇を噛んだディルには気づかず、アストリッドは淡々と言葉を続ける。

「術を壊しても呪いは解けない。なら、書き換えるしかないだろうね」

「書き換える……?」

「言っただろう、この呪いは元々はロイと私の願いだ。だからディル、今その願いによって不利益を被っているあなた自身の願いで、それを書き換えるんだ」

「『盟約』を上書きオーバーライドするってことか?」

 ロイの言葉に、アストリッドは少し考えるように黙り込んでから、首を横に振った。

「どちらかというと、更新アップデートだね。大戦が終了した直後は、君が言っていた通り、あの混乱を制するために、ある程度強制力のある罰が必要だった。だが、世界はご覧の通り落ち着いた。もちろん、この先にまた似たようなことが起きるかもしれない。けれど、だからと言って、この子のような事態を見過ごすこともできない。だから、『盟約』も世界の状況に合わせて変わっていくべきなんだよ」

「要は、俺たちの考えはもう古いってことだな」


 苦く笑ったロイに、アストリッドはゆっくりとその隣へと歩み寄った。それから、突然、その頭をまるで子供にするようにくしゃくしゃと撫でた。

 目を丸くした彼に、その頬を両手で包み込んで、ひどく優しく笑いかける。


「君はよくやったよ、ロイ。君があれほどの熱意をもって世界に働きかけなければ、君の先見視さきみの夢は間違いなく現実になっていた。君がどれほど無茶をしながら、あの混乱を収めるために世界を駆け回ったか、大戦が終わってからも、どれほど傷ついた人々のために薬師としてその身を捧げたか、私は誰よりもよく知っている。そんな君だから、私は愛しいと思うんだ」


 ロイはその顔をまじまじと見つめ、それから、俯いた。ほんのわずか、その眼が潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


「……まともな告白もできるんじゃねえか」

「ええ? これで良かったのかい? ただ事実を述べただけなんだけれど」


 不思議そうに言うアストリッドに向けられる深いため息は、三人分だった。そんなことは気にした風もなく、さておき、とアストリッドは話を続ける。

「というわけで、ディル、あなたにはノールヴェストの洞窟に行ってもらって、石版までたどり着き、『盟約』を書き換えてもらう必要がある。残念ながら私はついていけない。私はふるい『盟約』の主だからね。念のため、ロイも離れている方がいいだろう」

「一緒に行けるのは、アルヴィードだけ、ってこと?」

「十分だろう?」

 不敵に笑ったアルヴィードに、だがアストリッドは、ほんのわずか眉をしかめて首を傾げる。

「どうだろうね。あそこは、の巣窟でもあるから。あなたが『盟約』を書き換えて、彼らのを奪うようなら、襲ってくると考えた方がいい」

「人の命を狩ることが娯楽とは、随分趣味がいいな」

 アルヴィードの言葉に、アストリッドは、なぜか切なく微笑んだ。

「それについては、私も面目次第がないが、この件が片付いたら何とかするよ」

 そう言ったアストリッドに、ロイが顔をしかめた。何か言いかけた彼に、だが、アストリッドは彼女にしては珍しくきっぱりと言葉を継ぐ。

「問答無用だよ、ロイ。これは、私の責任だ」

「あんたは、ただ寝てただけだろう?」

「仕方がないんだよ。世界がまだ、私を必要とするならね」


 その笑みは透明で、ひどく儚く見えた。それで、ようやくディルは気づいた——気づいてしまった。あっさりと、呪いを引き受けると言ったその理由さえも。


「アストリッド、もしかして、死にたいの?」

「そうだよ、五百年前からね」

「随分引っ張ったね」

「そうなんだよ、友人が許してくれなくてね」

「友人って、イーヴァル?」

「そう」


 あっさりと言われた言葉に、ディルは想像していた以上に心臓に何かが突き刺さったような気分がして、ひどく驚いた。見たこともなかった母親が、自分が生まれるより遥かな昔から、死を望んでいたと言う。

 だとしたら、生まれてきた自分は、一体なんなのだろう。


 アストリッドはディルの表情の変化には気づいた様子もない。だが、代わりにロイが声を上げた。

「ディル」

 眼を向けると、いつも通り、ひどく優しい瞳にぶつかった。今にも泣き出しそうに揺らぐディルの瞳に気づいたのか、頭を撫でられる。

「こいつが抱えてる闇は、あんたには関係ない。どれほどにその闇が深くても、こいつは誰かがこいつを必要とする限り、生き続けようとする。

「それって……」

「かつては、そのイーヴァルって奴が、今は、俺とあんたとアルヴィードがこいつが生きる意味だ」

「——そう、そして君たちが生きるこの世界そのものがね」


 浮かぶその笑顔はやはりとても澄んで綺麗で、馬鹿だ馬鹿だと何度も言われていたけれど、本当は全てを分かった上で言っているのかもしれない、と思った。


「いいんだよ、そんなことは気にしなくて」


 ディルの内心を読んだように、アストリッドは苦笑する。それがこの人なりの精一杯の心の均衡バランスの取り方だというのなら、見逃してやるより他ないのだろう。

 ディルはただ、もう一つ深いため息をつく。

「そういえば、あの人は今どこにいるの?」


 藍色の瞳を持つあの青年は、初めからずっとディルに優しかった。厄介事に巻き込もうとするアルヴィードから守ろうとしてくれていたし、強引なアルヴィードに怯えるディルを何度も抱き寄せてくれた。

 残酷な事実を突きつけられ、飛び出したディルを、それでも必死に探し、頼っていいのだと、そう言ってくれた。

 最後に、『狩人』を呼び寄せたディルを救い出し、逃してくれた。

 たった数日間の出会いだったのに、彼がディルにくれた優しさは数え上げればきりがない。


 尋ねたディルに、アストリッドは少し遠い眼をする。

「多分、ノールヴェストにいると思う」

「呪いの根源に?」

「あなたを守るためにね」


 ——必ず迎えに行ってやるから、と言っていたのに、来てくれたのは黒い獣アルだけだった。約束を違えるような人ではないから、何か理由があるのだろうとは思っていたけれど。


「無事、なの?」

「行って確かめておいで。私に今言えるのは、それだけだよ」

 曖昧な言葉にはもううんざりしていたが、それでもその薔薇色の瞳に浮かぶ複雑な光を見れば、それ以上聞くことはできなかった。


 ディルの刻印は、まだしばらく猶予があるとのことで、ひとまず今日はこの城で休み、明日の朝、アストリッドにノールヴェストの洞窟の入り口に送ってもらうことになった。

 案内された部屋は、最初に通された部屋と同じような豪奢なつくりで、大きな寝台と、優美な調度品で飾られており、なんとも落ち着かない。それでも、あまりにめまぐるしかった一日を振り返りながら寝台に寝転んでいるうちに、いつの間にかうとうとしていたらしい。


 ふと、あの香りで意識が浮上した。まだ眠りを欲する瞼をそれでもなんとか開くと、目の前に金の双眸があった。一応、部屋の鍵はかけておいたと思ったのだけれど。

 ディルの表情だけでその疑問を理解したのか、口の端を上げて笑う。

「窓から入った」

「……黒狼アルで?」

「このくらいの高さなら、俺でも余裕だ」

 得意げに言うその表情に、思わず笑みがこぼれた。確かに、テラスへと続く張り出した大きな窓の外にはお誂え向きに大きな木が立っている。アルヴィードでなくとも忍び込むのは容易だろう。

 その胸に、顔を寄せる。引き締まったその身体は鋼のように硬い。それでもディルを包み込む腕は優しく、何よりも安心する自分を改めて自覚する。

「柔らかいな」

 対照的に感じたのだろうか。アルヴィードはディルの首筋に顔を埋めながらそう呟いた。伸びた柔らかい黒髪がディルの頬をくすぐる。その髪に触れ、首筋に指を滑らせると、びくりとその体が震えた。身を起こすと、間近にディルの顔を見下ろしてくる。その頬に両手で触れると、その金の瞳が明らかに熱を浮かべる。


 引き寄せて、唇を重ねる。何度も軽く触れる口づけを繰り返すと、やがて深く口づけられた。長く熱いその口づけを終えると、熱を浮かべる金の眼差しがまっすぐに射るようにディルを見つめる。

「不安か?」

 あれほどに人の心の機微に疎かった彼が、今はそんな風に問いかけてくれる。そして、ディルの手を握って首を傾げる。

「冷たいな」

「緊張すると、末端が冷えるんだって」

 握りしめる彼の手も、触れてくる唇も熱い。

「あなたの手は、熱いね」

 そういえば、いつだって子供だったディルよりも体温が高かった気がする。

「お前に触れる時は、いつも興奮してるからな」

けものみたい」

「獣なんだよ」

 その熱を浮かべる瞳は、まっすぐに想いを伝えてくる。それでも、それ以上は触れてこようとはしないその様子に、ディルは不思議な気がした。

「前はもっと、こう遠慮がない感じだったのに」

 隙あらば触れて、奪おうとしていたのに、今はただ優しく触れ包み込んでくれている。

「慣れたんだよ」

 黒狼アルで、と呆れたように笑う。

「お前、覚えていないだろう? ずっと黒狼おれにしがみついて寝てたんだぞ」

 再会してからずっと、眠っている間にうなされたり涙を流しているのに気づくたびに寄り添うと、首にすがりついてきたのだという。

「眠ったまま泣いて、俺が隣に行ってやると抱きついて幸せそうに笑って、ようやく穏やかに眠るんだ」

「全然、覚えてない」

 それで、ようやく腑に落ちた。黒狼が魔女イングリッドとともに姿を消したときにあれほどに不安を覚えた理由に。そこにいてくれることが無意識下で当たり前になっていたせいだったのだ。

「で、俺がいない間にを煽ったわけだな」

「そ、そんなこと……」

 していない、と言いかけて、けれども記憶を探るとそうとも言い切れない気がしてくる。眠る時に抱きしめてもらっていたし、目が覚めると確かにそばにいてくれていた。酔い潰れた翌日の朝は、そういえばやたらと怒っていたが、もしかしたらとんでもないことをやらかしたのだろうか。

 目を泳がせたディルに、アルヴィードはもう一度呆れたように笑った。

「あいつが底抜けのお人好しでよかったな」

 でなきゃとっくに喰われてるぞ、と。

「お人好し……なのかな」

 そうは見えないのだけれど。そう呟くと、目の前の相手は片眉を上げてほんのわずか遠い目をすると深いため息をついた。

「俺が言うのも何だが、大概だな」

「どういう意味?」

「お前がまだまだ子供ガキだってことだよ」

 それから、噛み付くように深く口づけられる。先ほどのそれよりも遥かに強引で、何かを刻み込むような。絡みつく舌と頬と首筋に触れる手が熱い。いつもと違うそれに、体の奥に熱が宿るような感覚がして、思わず体を震わせると、笑う気配が伝わってくる。

 唇が離れた後、間近にあるその金の双眸を眇めて、こちらを見下ろす瞳に浮かぶ光は強い。

「誰彼かまわず誘惑してんじゃねえよ」

「そんなこと、してないよ!」

「自覚がねえのが一番問題なんだよ」

 やれやれとため息をついて、それでももう一度強く抱きしめられる。

「お前は俺が守る。そして、必ず二人で生きて戻る」

 強い眼差しで、まっすぐに告げてくる。

「何かを犠牲にすることもしない。だって、お前は俺がいなくなったら泣くだろう?」

 そう言って笑った顔はとても優しく、どうしてだか泣きたくなった。どれほどに、この体に刻まれた呪いが彼女を侵そうとしても。


「そんなもののために、命なんて賭けてやらない。俺の命は、お前のものだ」


 どんな盟約ちかいよりも確信をもって、強く。


 共に過ごした時間の長さだとか、出会いの方法だとか、運命だとか。そんなものは関係ない——というか、それら全てをひっくるめて。


「お前が愛しい。だから、お前と共に生きたい。それが俺の願いだ」


 その単純シンプルな願いを共有して。


「うん。も、あなたと生きたい」


 もっと他に言うべきことがあるはずなのに、彼女が出来たのは、ただ頷くことだけだった。けれど、その言葉の変化に気づいたのか、向けられる眼差しが緩んでひどく甘いものに変わったから、その想いは伝わったのだ、と安堵してその胸に顔を埋めた。

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