32. 想い

 ひとしきり泣いて疲れてきた頃、何かが顔の前に差し出された。

「何?」

 言いかけた口に、放り込まれたそれは、いつかももらった飴玉だった。優しい甘さが口に広がる。視線を向けると、やはりひどく優しい眼差しがこちらに向けられていた。

「甘い」

 そう呟くと、その顎を捉えられた。

「本当ならその甘い唇に口づけて、そのまま押し倒して、俺があんたを食っちまうところだがな」

「冗談?」

「本気に決まってるだろ」

 どう聞いても冗談にしか聞こえないその言葉はともかく、その青紫の瞳は明らかに熱を浮かべている。それでも、と笑う。

「格好つけちまったからな。今回はこれくらいで我慢してやるよ」

 そっと顔を引き寄せられ、涙の跡の残る頬に口づけられた。

「あんなややこしい運命とやらに巻き込まれていても、それでもあんたは、あいつのことが好きなんだろう?」

「……多分」

「多分て何だよ」

「だって、他に人を好きになったことがないから」

 正直よくわからない。体もつながって、それで幸せだと思ったから、おそらく間違ってはいないのだろうと思うけれど。

「俺はどうなんだよ?」

「ロイ? あなたのことも好きだけど、でも、ちょっと違う気がする」


 ——どちらかというと、もっと安心するというか。


 そう言うと、がっくりと肩を落とされた。

「そんなことじゃねえかとは思ってたがな」

「ロイは違うの?」

「さっきから俺の話、聞いてるか? 俺は、今すぐあんたを押し倒して、その女になった身体を思いっきり抱いて、俺に溺れさせてやりてえよ」

 額にかかる髪をかきあげられ、まじまじと顔を見つめられる。女性に変わってから、間近にこうして見つめられるのは、そういえば初めてだったかもしれない。熱を浮かべる眼差しは、確かに男のそれで、けれどもディルを追い詰めるほどには強くない。だから、軽口が洩れた。

「……やらしい」

「男ってのはそういうもんだ」

 答える声も顔も、笑みを含んでいる。

「そんなこと、ないと思う……」

「あいつだってそうだろう?」

「アルヴィードは、次は呪いが解けるまで、待ってくれるって」

 そう言うと、ロイは呆れたような顔をして首を傾げる。

「待つ意味あんのか?」

「……わかんないけど。たぶん、私と一緒に生きるって言ってくれてるんだと思う」


 今すぐ抱くこともできるけれど、あと一月しかないと言われたその運命の先を必ず共に見出してくれる、という。彼女のいない世界に意味なんてない、と言い切った彼の言葉が重いけれど。


「若いって希望に満ちてて、嫌だねえ」

「嫌なの?」

「年寄りには眩しすぎるんだよ」

 ぽんぽんと、もう一度頭を撫でてから、よっこらせと年寄りじみた掛け声と共に立ち上がる。

「ロイ?」

「お迎えが来たようだから、お邪魔虫は消えるとするさ」

 視線の先を見ると、黒い獣の姿があった。ロイは羽織っていた外套をディルに放り投げて、口の端を上げてにやりと笑う。

「俺のじゃ気に入らんかも知れんが、素っ裸よりはましだろう」

 そう言い置いて、ディルの額に軽く口づけると、ひらひらと後ろ手に手を振りながら本当に去って行ってしまった。


 森の奥から現れた黒い獣は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。あと一歩という距離で立ち止まると、じっとこちらを見つめる。その金の眼差しは人である時よりも読みにくい。

 ひとつため息をついてから、両腕を広げると、それでも少しためらうように首を振ってから、腕の中に顔を寄せてきた。柔らかいその毛並みが懐かしい。こちらを探るように見つめてから、首を傾げる。人でいる時より、やはりどうしてだかその仕草は可愛く見えて、思わず笑みがこぼれた。

「ずるいよ。アルじゃ怒れない」

 そう言った途端、ふっとその姿が揺らいだ。

「獣の姿なら許せるのか?」

「だって、なんか可愛いし」

「お前の目、どうなってるんだ?」

 確かに、黒狼は可愛いというような姿ではないけれど、それでも初めて会った時から優しかった獣は、人の姿アルヴィードよりも親しみが深い。それだけでなく、きっと。

「アルヴィードだと、最近なんか心臓がおかしくなるし」

「へえ?」

 面白そうに言いながらも、間近に迫るその金の双眸は、まだどこか揺らいでいる。


 アストリッドは、ディルのことを、アルヴィードのために用意された祝福だと言っていた。そして、ようやく魔女イングリッドも同じことを言っていたことを思い出した。


運命Destinyであって、宿命Fateじゃない」

「……何だ?」

「イングリッドが、そう言ってた。どういう意味だろう」

「宿命ってのはどうにも逃げられないものだろう。運命は——最終的には自分で選ぶものだ」

 頬に手を触れながら、そう告げてくる。

「きっかけはあいつのおかしな思いつきなんだろう。それでも、お前の存在が、あいつが関与しているものだと思い出してからも、俺にとっては、そんなことはもうどうでもよかった」

 ずっと探していた、と言う。人の姿を封じられて、この世界に飛ばされて。何の手掛かりもなく、ほんのわずかな運命の導き——要は勘——だけを頼りにディルを探し求めた。

「ようやく見つけたお前が、血を流して意識を失ったのを見た時、正直もうだめかと思った」

「アル……」

「人の姿になれない俺は、お前を癒してやることも、抱きしめてやることもできず、ただお前の命が失われていくのを見ていることしかできなかった」


 ——黒狼アルじゃお前を抱けない、と切なげに言っていたのはそのせいだったのか、とようやく腑に落ちた。


「ごめん」

 そう言ったディルに、アルヴィードはロイが置いて行った外套を羽織ると、その横に座り込んで抱き寄せる。

「あいつは、馬鹿なんだそうだ」

 どこかで聞いた台詞だ。

「精霊というのは生まれてすぐに意識を持ち、そのまま一人で生きていくんだそうだ、知ってたか?」

「知らない」

 だが、なんとなくアルヴィードが言わんとすることはわかってしまった。

「それで、あいつは人間との間に生まれた子供が、愛情をもって手元で育てる必要があることなんて全く知らずに、それが最適だと思って、狭間の世界の『祈りの家』にお前を置いてきたんだそうだ」

「信じられない」

「そういう奴なんだ、あいつは」

 ただ黒狼の里が滅んだ償いとして、彼の伴侶となるものを生み出すためだけに、三百年もかけて相手を探し、子を成した。

「あの人は、俺のその……父親のことを好きだったのかな?」

「どうだろうな。正直なところ、好意らしきものはあったんだろうが、かなり怪しい気がするな」


 その言葉に、深いため息が漏れた。望まれて生まれてきたのは間違いないはずなのに、大きく何かがずれている気がしてならない。


「俺を恨むか?」

 切ない声に目を向ければ、その声のままに切ない眼差しがこちらを見つめていた。

「どうして?」

「お前があんな子供時代を過ごすことになったのは、俺の運命に巻き込まれたせいだ」

「でも、そもそもあなたがいなかったら、俺は生まれてもいないわけでしょう?」


 かつての自分なら、生まれてきたことさえも厭わしいとどこかで感じていたけれど、少なくとも今は——。


「今の俺には、ちゃんと大事に想ってくれる人がいるみたいだから」

「引っかかる言い方だな」

 脳裏に浮かぶのが一人ではないことに気づかれただろうか。それでも強い眼差しを向けられれば、心臓がいつもとは違う鼓動を打ち始める。揺れた眼差しに気づかれたのか、その金の双眸がさらに熱を持った強い光を宿す。

「ディル」

「なに?」

「やっぱりお前が欲しい」

「今、ここで?」

「だめか?」

「背中が痛いよ、きっと」

 割と本気で言ったのだが、アルヴィードは呆れたように笑う。それから頬を両手で包まれ、深く口づけられた。何度も、想いを伝えるように。


 唇が離れて、その顔を見つめれば、その表情はひどく甘い。初めて会った頃はあれほど怖いと感じたのに。きっと自分も同じような顔をしているのだろうという自覚はあった。

「そんな顔を見せておいて、まだ俺に耐えろって言うのか?」

「……無理?」

「無理じゃねえよ」

 仕方がないと言うように笑って、黒い獣へと姿を変える。その体を抱きしめると、下半身に何かが当たる感触があった。

「ええと、なんかごめん」

 言った途端、いつかのように首に噛みつかれた。今度は痕が残らない程度の甘噛みだったけれど。


 黒い獣とともに城に戻ると、アストリッドとロイが二人で葡萄酒のグラスを傾けていた。

「早かったね、話は済んだかい?」

 にこやかに微笑まれ、やはりほんのわずか苛立ちが募った。

「おい、少しは反省しろ」

「何をだい?」

 心の底から不思議そうに尋ね返され、ロイがうんざりとしたような深いため息をついた。それからディルに本人の代わりなのか、申し訳なさそうな視線を向けてくる。

「こいつはこういう奴だ、諦めた方がいい」

「何だい、人を異常者みたいに」

「あんたが異常そうじゃなかったら、世界中が狂人だらけだ」

「ひどいなあ」

 そう言う表情はそれでも楽しげだ。

「仲良いね」

「もちろん、私の一番大切な人だからね」

「誰がだ?」

「君に決まってるじゃないか」

 その場にいたディルと、ロイと、ついでに着替えてきたアルヴィードまでが固まる。

「……誰が、誰の、何だって?」

「だから、君が、私の、一番大切な人だって」

「大切ってはあれか、お気に入りの玩具みたいなもんか?」

「そんなの、この流れなら愛しているという意味に決まってるじゃないか」


 せっかく君のために庭も美しく整えたのに、褒めてもくれないし、残念だよねえ、と、それでもまったく残念そうに聞こえない声でそう呟いている。


 唐突な愛の告白に、完全にロイが凍りついている。とりあえず面白そうなので代わりに尋ねてみることにした。

「アストリッド、ロイが好きなの?」

「そうだよ」

「いつから?」

「初めて会った頃からかな」

「ずいぶん長いね」

「……初耳だぞ」

 唖然としたような顔のまま呟かれたその言葉に、アストリッドは平然と答える。

「そりゃあ言っていないからね」

「何だその雑な告白は……!」

「ああでも一度言ったような気がするな。口づけだってしたじゃないか。忘れてしまったのかい?」

 薄情だなあと、やはりどこか感情が伝わらない声でにこやかにぼやいている。ロイは、わずかに苛立ったように言い返す。

「忘れてねえよ! でもあんたは『君が愛するように、この世界を愛したいと思う』って言っただけだ。どう考えても対象は世界だろうが……!」

「凄いね、一言一句覚えていてくれたのかい?」

 心底驚いたように、それでも今度はきちんと嬉しそうに微笑んだアストリッドに、ロイの顔が真っ赤に染まる。珍しい事態にディルもアルヴィードも目を丸くした。

「まあでもその話は後にしよう」

「あ、後でいいの⁉︎」

「それよりはあなたのその腕を何とかする方が大事だ。だからわざわざここまで訪ねてきてくれたんだろう?」

「ちょっと待て」

 ロイが、額に手を当てながらアストリッドの話を遮った。

「ディルの呪いの話の前に一つだけ聞かせろ。あんた、好きな奴がいるんじゃなかったのか? 黒狼の里にはそいつと一緒に行ったんだろう?」

「イーヴァルのことかい?」

「名前は知らねえが、あんたはずいぶん楽しそうにそいつの話をしてた」

「嫉妬かな? 嬉しいね」

「話を逸らすな!」

「逸らしてるつもりはないんだけどね。イーヴァルのことなら、この長い生で最も長く付き合ってる相手だからね。話も合うし、会えば嬉しいし、誰よりも気安いのは間違いないよ」

 でも、と続ける。

「例えば君はそれが美しいからといって、岩に恋をするかい?」

「岩?」

 生物ですらない。

「まあ、そうだよな」

 奇妙に納得したような声は、アルヴィードのものだ。

「俺が口を挟むのも何だが、イーヴァルあいつよ」

「そうなの? 優しいし、別に普通にありそうだけど」

「まあ、ないもんはねえよ」


 どうしでだかきっぱりとそう言い切っている。アストリッドもそうだとばかりに頷き、呆気にとられているロイを素通りして、ディルのそばに歩み寄ってきた。

 それはそれとして、ディルの父親との関係はどうなのなのだろうなど、聞きたいことはたくさんあったはずなのだが、アストリッドはすっぱりと話を切り上げてディルの腕に触れる。


「とりあえずその話は後にしよう。それより、あなたのこれについて」

「どうにかしてくれるの?」

 ほんの少しばかり嫌味な響きが篭りすぎただろうかと思ったが、アストリッドは気にした風もない。肩口から覗く文様を見て、ため息をつく。

「ずいぶん進んだね」

「分化のために、寝て起きたらこうなってた」

「ああ、なるほど。繭の間にあなたを覆い尽くさなかったのがせめてもの幸いだね。ここまで進んでしまっているとなると、一番手っ取り早いのは私の命と引き換えにしてしまうことだね」

 あっさりと言われたその言葉に、理解が追いつかなかった。

「一度発動してしまった呪いをなかったことにすることはできない。けれど、誰かにすり替えることは意外と簡単なんだよ」


 そう言って美しく微笑むと、アストリッドはディルの左腕に指を滑らせながら、何かの音の連なりを呟き始める。


 慌ててロイがその肩を掴んだ。

「待て!」

「だって、君は私にそれを願いにきたんだろう?」

 薔薇色の瞳が心底不思議そうに、まっすぐにロイの瞳を見つめている。ロイは苛立ったようにその両肩を掴む。

「ああ、そうだ——だが、そうじゃない! 俺は俺の尻拭いをあんたにさせたいわけじゃない。あんたにそんなことをさせるくらいなら、俺がやる」

「君には無理だよ」

「できるさ——ってなんか既視感デジャヴがあるな、この話」

「だから、私が君にそんなことをさせるわけがないのもわかっているだろう?」

「あの時と今じゃ状況が違う。これは俺の過ちだし、俺はもうあんたに守られるばかりの子供ガキじゃない。だから、もし他に手段がないなら、俺が何とかする。だが他に方策があるだろう?」

 強い眼差しで詰め寄ったロイに、今度はアストリッドが視線を逸らした。だが、ロイは逃さないとばかりに、低い声でもう一度その名を呼ぶ。

「アストリッド」

「なくはないよ。けれど、私たちのこの不手際の結果せいで、この子に危険を負わせたくはない」


 そんなことをさせるくらいなら、自分の命を差し出す方がいい、とアストリッドは真摯な眼差しで言う。


「私はもう十分に長く生きた。君という人にも出会えたし、動機はさておいても自分の子を得ることもできた。ちゃんとこの子を愛してくれる人もいる。もう完璧な機会パーフェクトタイミングだと思わないかい?」

「——死に時だって言いたいのか?」

「まあ、わかりやすく言うとそうだね」

「俺にわけわかんねえ愛の告白をしておいてか?」

「だからこそじゃないか」

 ふふんと鼻で笑いながら、ロマンチックだろう、と意味不明なことを言った。ロイは頭を抱えている。イングリッドが「馬鹿なの」と言っていた意味がよくわかる気がする。


「人を置き去りにして、話を進めないで欲しいんだけど」

「ああ、何かまだ言い足りないことがあったかい? どうやら私はあなたにひどいことをしてしまったらしいから、どんな罵詈雑言でも受け付けるよ。何なら殴ってくれても構わない」

「……そんなに悪趣味じゃない」

「さすが、あの人の子だ。優しいね」

 そればかりは心から嬉しそうに言うものだから、調子が狂ってしまう。ともかく、と続ける。

「私も、誰かを犠牲にして生き延びるなんて絶対ごめんだよ。何か別の方策があるならちゃんと話して欲しい。もともと、そんなに惜しい命じゃないし」

「ディル」

 アルヴィードが咎めるような眼差しを向けてくる。

「わかってるよ。でも、俺はこれ以上余計な重荷を背負いたくない」

 本当に大切な人が——共に生きていきたい人がいるからこそ、尚更に。


 ——自分の母親の命か、自分を救ってくれた恩人の命か、どちらを犠牲にするかを選べなんて。


「どっちも嫌だ。なら、多少面倒でも危険があっても他の道があるならそっちを選ぶよ」

 可能な限り面倒くさそうにそう言ったディルに、アストリッドはしばらくぼんやりとその顔を見つめ、ややして、どうしてだかとても綺麗に笑った。それから、不意にディルを抱き寄せた。

「子供っていうのは、凄いねえ」

「な、何……」

「彼以外に、こんなに誰かを愛しいと思うことがあるなんて、思いもしなかったよ」


 驚いたよ、とその美しい顔に満面の幸せそうな笑みを浮かべて。


 その腕の暖かさに思わずほだされそうになって、それも悔しい気がして、ディルは思わず呟いた。

「……馬鹿じゃないの」

「それはよく言われるんだ、何でだろうね?」


 楽しげに笑って言うその美しい顔に、どうしてだかじんわりと暖かくなる胸を抱えて、ディルはため息をつくより他なかった。

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