37. 願い

 その名を呼んだ瞬間、結晶が強く光り輝いた。氷が溶けるように、柔らかくほどけ、黒い大きな姿が滑り出てくる。その体に比して随分と繊細で美しい翼が広げられ、羽ばたくと、優しい花の香りを含む風がディルの頬を撫でた。


 大地に降り立った竜は、じっとディルを見下ろす。その眼差しは確かに見覚えのある、夜空のような藍色をしていた。

「元気そうだな」

 低く柔らかいその響きは記憶にあるのと変わらない。かつて、彼から与えられた優しさと温もりが一気によみがえって、目頭が熱くなる。それを見てとったのか、ふっとその姿が揺らぎ、黒い衣装に身を包んだ、見覚えのある青年の姿がそこに現れる。

「どうした?」

 何事もなかったかのように、柔らかく笑うその姿に、それでも足が動かない。立ちすくんでいると、いつかのようにためらいなく近づいて来て、軽々と子供のように抱き上げられた。

「でかくなったな」

 藍色の瞳がまっすぐにディルを見つめる。

「本当に、イーヴァル?」

「迎えに行ってやれなくて悪かったな」

「あの時からずっとここに?」

「ああ」

「私のせいで?」

「お前のために、だ」

 事もなげに言うその言葉に、堪えきれず涙がこぼれた。その首に腕を回し縋りつくと、強く抱き返された。


「……あれはいいのか?」

「言ってたろ、岩みたいなもんだ」

「そうは見えねえけど」


 残された男たちののんきな会話に気恥ずかしくなって、その腕からすべり降りる。見上げた藍色の瞳は変わらず穏やかに笑っていた。その穏やかな表情のまま、ディルに問いかけて来る。

「さて、ディル、お前は何を願う?」

「願う……?」

 問い返したディルの手を取り、結晶の前にある黒い石版の前に誘う。そこにはびっしりと何かの文字が刻まれていた。

「これが、『盟約』……?」

「だけじゃないな。和平条約の前文だ」


 我らは恒久の平和を念願し、二度と世界が危機に陥ることのないよう祈りを込めてこの条約を結び、一刻も早い安寧のため、以下の盟約を定義する。

 願わくば、この盟約を破るものが可能な限り少なく、その犠牲が最小限であるように。


 その石版に刻まれた文字を見て、ロイがどこかが痛むような顔をした。

「これは、あなたの言葉?」

「まさか。あいつの願いだろう」

 世界を愛している、と言っていたのは、彼女にとっては真実ほんとうだったのだろう。

「ディル、お前の願いは何だ? 何をもって、この切実だが残酷な願いを書き換えるアップデートする?」

 藍色の瞳がまっすぐにディルを見据える。

「俺はこの条約と盟約の立会人であり、証人だった。だから、お前の願いがあの時のあいつらの願いを上回るなら、その更新を認めよう」

「私の、願い……」


 かつて、世界を滅ぼすほどの戦があった。その戦によって滅びようとする故郷と世界を何としても守りたいという、ロイの願い。その想いを叶えたいという、アストリッドの願い。


 ——それを覆すほどの願いが、自分にあるだろうか?


 ためらったディルの肩を、温かい手が抱く。

「迷うな」

 見上げた顔はただ力強く、その金の双眸はこちらの背筋が震えるほどに鋭い光を浮かべている。

「どんな願いも、俺からすれば、お前の命を犠牲にするほどのものじゃない」

「アル……」

「世界が平和であっても、お前がいなければ意味がない。かつて俺が全てを失って、生きる意味を失ったように」

 ひどく自己中心的なその想いは、だからこそ、とても単純シンプルで強い。

「定まったか?」

 藍色の瞳が、その独善的な言い草に呆れたように、それでも温かく笑う。だから、ディルは安心する。それでいいのだと。

 ふと後ろを振り返れば、青く変わった瞳も仕方がない、というように笑っていた。

「俺の願いはもう十分に叶った。あとはあんたが幸せに生きることが、俺の——俺たちの願いだ」


 ならば、彼女が願うのは——。


「誰もが自由に、呪いや制約に脅かされることなく、自分で生きる道を選択できること」


 そして——。


「全ての子供たちが、どんな事情があっても健やかに育つように、温かく見守られて幸せに生きること」


 きっとそれは簡単なことではないけれど。


「私のような苦しい思いをする子供が、少しでも減るように。それが私の願いだ」


 イーヴァルが、ディルのその手を石版へ導く。そこから光が生まれた。そうしてふと笑う。

「もはや呪いを伴う盟約は破棄された。あとはただ、世界に対する願いとして、最大限の努力ベストエフォートをここに約するのみだ」

「……そんなのあり?」

「仕方がないだろう。お前の願いは欲張りにすぎる」

 そう笑って、だいたいな、と続ける。

「もしお前がそれを本当に願うなら、こんなものに頼らず自分の手で世界を変えて見せろ」


 ここではないどこかへ、と願うのではなく、生きるこの世界そのものを、自分が望むような場所へ変える努力を。お前にはできるはずだ、ともう一度そう笑って。


 ふわりと、左腕が軽くなっていく気がした。目を向ければ、巻きついていた蔦のような文様が淡く解けて宙へと消えていく。同時に石版から光が生まれ、世界を白く包んだ。

 曖昧になっていく視界の中で、ただ強く自分を抱きしめる腕と、金の双眸だけがはっきりとその存在を示す。


「これって、世界の終わり?」

「んなわけあるか」


 ——始まりに決まっている。


 ひどく優しく笑って、温かい手が頬に触れ、唇が重ねられる。その瞬間、世界は真っ白に包まれた。

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