40. Afterwards 〜決意〜
「祈りの家」を後にして門をくぐると、ディルの足が止まった。その気配がふわりと和らぐのを感じて視線の先を見れば、あの男が立っていた。遠目からでもはっきりとわかるほどに、その顔には迷う表情が浮かんでいる。何をしにやってきたのかは、火を見るより明らかだった。
ディルの方はと言えば、おそらくそんなことには気づいていない。その顔に浮かぶのは、あくまで親愛の情だ。ならば、彼の取るべき選択肢は一つしかない。
その男の方に駆け出そうとしたディルの後から、はっきりと彼の姿を示す。それだけで、相手の男がはっと息を飲むのが見えた。一歩大きく踏み込んで、今にもその男の胸に飛び込んでしまいそうなディルの体を後ろから抱きすくめる。勢いを失って、彼の胸に引き寄せられた彼女は、不思議そうに彼を見上げた。
「……何?」
「別に」
先ほどと同じような会話がかわされる。だが、目の前の男——ロイにはそれだけで十分だったようだった。
「仲良いな、あんたら」
いつかも聞いたその台詞はきっとわざとだろう。当時はまだ、彼が人の姿を取れない時だったが。
「当たり前だろ?」
にやりと笑って見せれば、どこかが痛むような顔をする。ならば、もっと早くに真剣に奪いにくればよかったものを、と内心で呆れる。
機会は何度もあったはずだった。ディルの中で、その男の存在が大きくなっていくのは感じていた。元々、人との縁が薄い子供だったディルにしてみれば、命を救ってくれ、見返りも求めず何くれとなく世話を焼いてくれたその男に好意を抱くようになるのは、ごく自然なことだった。獣の姿しか取れない彼が、もどかしい思いをするほどに。
だが、その男は根がお人好しすぎるのか、自分の命を賭けるほどに想いを寄せておきながら、結局はそれ以上踏み込んでこなかった。
ここにこうしてやってきたのは、その男にしてみれば最後の賭けだったのかもしれない。そして、残念ながら、彼がここに——共にいた。そして、一度手に入れたものを差し出してやるほど彼は寛容ではない。彼自身のためだけでなく、ディルの心を守るためにも。
彼の素性を知り、彼に一度全てを許した今、たとえ確かにその男に惹かれているとしても、その想いを突きつけられ、どちらかを選べと迫られれば、ディルは悩み、ずっと心を引き裂かれるだろう。そんな余計な想いを、優柔不断な男の未練のせいでさせるつもりはなかった。
「アストリッドに伝えろ。余計な手出しは無用だ。こいつは俺が一生守り抜く」
その意味を正しく悟ったのか、額の髪をかき上げて男は深いため息をついた。それから、彼の腕の中のディルに目を向ける。
「あんたは今、幸せか?」
「……だと、思う」
「……確信がないなら、攫っちまうぞ?」
それはその男の精一杯の最後の
「幸せ……かな?」
「当たり前だ。覚悟しておけ」
あえて不敵に笑ってそう告げれば、その頬が真っ赤に染まる。どうにもにやけてしまいそうな頬を引き締めて、その体を抱きしめる。どうやら、優しげな彼自身よりも、初めて会った頃の尖った気配の方が好みのようなので。
そうして、ロイの方に目を向ければ、どうしようもなく切ない表情を浮かべている。それを見て、さらにディルを自身の胸に抱き込んだ。あんな表情を見せてやるつもりはなかった。
その意図に気づいたのか、諦めたように笑って、こちらへと踏み出してくる。気配を尖らせた彼には構わず、ディルの銀の頭に手をのせる。
「末長くお幸せに、だな」
「ロイは?」
「俺?」
「またあの街に戻るの?」
「……そうだな。他に行くあても特にないし」
「また会える……?」
わずかに寂しげな響きを宿した声でそう問われ、またその表情が揺らぐ。彼は内心で舌打ちする。無意識にとは言え、煽るなと言ってやりたかった。
「あんたが呼べば、いつでも来てやるさ」
「いらん世話だ。大人しく隠居しとけ」
そのうち孫の顔でも見せてやるさ、と笑って言えば、ロイは大きく目を見開いて、やがて額を押さえて笑った。
「……なら、そん時には名付け親になってやるから、呼んでくれ」
「断る」
そんな他愛もない会話をして、その場は別れた。
ディルを連れて、イーヴァルの隠れ家だった森の中の家を訪れる。彼の魔力が続いているのか、家の中は埃が積もると言うこともなく、まるで昨日まで誰かが住んでいたかのように整って見えた。
「また、ここに来られるなんて」
感慨深そうにそう呟いた横顔は、かつてここを訪れたときよりも随分大人びている。背が伸び、幼くやや丸みを帯びていた頬はすっきりと美しい線を描いている。何より、性別の曖昧だったあの頃とは決定的に異なるのは、柔らかな体とその身から強く漂うあの匂いだった。
その身体を後ろから抱きすくめる。首筋に顔を埋めると、頭の芯が痺れるほどの強いその香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「ディル」
名を呼ぶと、その声に宿る熱を感じたのか、びくりとその体が震えた。こちらを見上げるその瞳には、わずかな戸惑いの色が見える。
「俺が怖いか?」
「……ちょっとだけ」
あからさまに逃げ腰だったあの頃に比べれば随分な進歩だろうか。思わず相合を崩した彼に、ディルはぽかんと目を見開いた。それから俯いた目元が仄かに朱に染まる。
「どうした?」
「別に……」
視線を逸らそうとするその顎を捉えて、まっすぐに目を合わせる。刻々と色を変えていた瞳は、今はアストリッドによく似た薔薇色に変わっている。あの精霊を思い出すのは癪だが、それでも、記憶にある限り最も最初に彼が心惹かれたのは、この場所で、明け方に見たこの色だったので、仕方がないように思えた。
「夜明けでなくても見られるようになったのは、いいんだか悪いんだかな」
「……どういう意味?」
「その色を見られるのは、そんな時間に共にいる俺だけだったのに」
そう言った彼に、ディルはしばらく考えこむようだったが、その言葉の意味を理解したのか、急にその顔が耳まで真っ赤に染まった。口を開けて何かを言おうとして、不意に背に腕を回し、その顔を彼の胸に押し付けてくる。
「アルヴィードの馬鹿」
「馬鹿とはなんだ」
「……恥ずかしい」
「何でだ? 惚れた相手に触れたいと思ったり、それを独占したいと思うのは、自然なことだろう?」
「そうかな……?」
「じゃあ、お前は俺が他の誰かを抱いても構わないのか?」
そう尋ねれば、少し考える様子で視線をさまよわせたのち、眉根がギュッと寄せられた。
「……それは嫌だ」
それから、こちらを見上げてもう一度首を傾げる。
「アルヴィードも、私が誰かに触れられたり抱かれたりしたら、嫌?」
「当然だろ。そんな風にお前に触れようとする奴がいたら、殺してやりたいと思うさ」
あながち冗談でもなくそう言うと、びくりとその体が震えた。
「今までは、お前を捕えていたあの呪いが解けるまではと思ってたが、もう遠慮する必要もないよな?」
頬に触れ、顔を寄せるとその睫毛がわずかに震えている。触れた手は、以前も言っていた通り、氷のように冷えている。その手を握り締めながら、反対の手で腰を抱き、耳元で囁く。
「そんなに怯えるなよ。優しくしてやるから。もう知ってるだろう?」
逃れようとする腕を捉えて抱きしめながら、深く口づける。その身体は、本気で力を込めたら折れてしまうそうなほどに細く柔らかい。何度も繰り返し口づけ、腰から背を撫でているうちに、その脚から力が抜けていく。抱き留めて、抱え上げる。見上げてくる瞳は、こちらを誘うように潤んでいた。甘い香りに、じわり、と自身の熱が煽られる。
「今夜は覚悟しておけよ」
笑みを含んだ声でそう告げれば、戸惑いながらもその美しい腕が首に回される。それでも、最後の抵抗を示すかのように、その声は呆れた響きを含んでいた。
「……優しくしてくれるんじゃなかったの?」
「優しくするさ。だが、お前が思っているよりずっと、どれほど俺がこの日を待っていたか、思い知らせてやる」
その瞳が驚きと——おそらくは恥じらいを浮かべる。そんな表情さえ愛しくて、抱き上げたままその額に口づけた。
「愛してる、ディル」
「……今⁈」
呆れたように言うその口に軽く口づけて寝室に入り、寝台にそっと下ろす。間近に顔を近づけると、その薔薇色の瞳が揺れて、それでも何かを諦めたかのように、まっすぐに彼の眼を見つめる。
「……あなたのその金の瞳が全部の始まりだった気がする」
「どういう意味だ?」
「我儘で、自己中心的で、気まぐれで」
「おい……」
「でも結局、私はあなたのその金色から目が離せない」
白く美しい手が、彼の頬を捉え、引き寄せる。
「あなたが思っているよりずっと」
——あなたのことが好きだよ。
引き寄せて耳元で囁かれた甘い言葉に、驚くほど自身の中に熱が宿り、目眩がした。唇を重ね、さらに首筋に唇を這わせると、甘く辛い香りでさらに頭の芯が痺れる。
触れる場所に赤い痕を残していく。左腕の内側に残した痕を見て、ディルが首を傾げる。
「これは……?」
その意味に、今まで気づかなかったとでも言うのだろうか。そういえば、前回肌を重ねたすぐ後に分化が起こって、すべてがまっさらになってしまっていたことを思い出した。
あえて見せつけるように、その腕を取り、きつく吸って痕をつける。
「……痛くないのに、刻み込まれてる。あの刻印みたいだ」
「あれとは違って、すぐに消えちまうさ」
「……じゃあ、消えたらまたつけてくれる?」
その意味を、わかって言っているのだろうか?
怪訝そうな顔になった彼に、ディルはほんのわずか切ない笑みを浮かべる。
「あなたと繋がってる気がする」
「こんなものがなくたって、今から思い切り繋がってやるさ」
率直な物言いに、ディルが呆れるべきか、恥じらうべきか悩むような顔をする。それから、ふと首に下げられた銀の鎖に気づいた。
「これは……」
「ああ、そういえば、イングリッドがくれたんだ」
「あいつが……?」
どちらかといえば、不吉な予感しかしない。その表情を読んだように、ディルはその鎖を外すと、下げられた二つの指輪を見せた。
「私の髪を切った時に、これに変えてくれたんだ。落ち着いたら、ひとつを愛する人にって」
「……絶対につけたくないな」
「どうして?」
「あいつが絡むとろくなことがない」
魔女の指輪など、呪いがかかっていないまでも、覗き見くらいは平気でやりそうだ。鎖ごとその指輪を受け取ると、枕の下に埋めておく。
「……そうなの?」
せっかく綺麗なのに、と残念そうに呟く。そういえば、カラヴィスでも装飾品を見て眼を輝かせていたのを思い出す。
「明日、何かお前に贈ってやるよ」
——贈り物をしたり、愛を囁いたり。
そういうありきたりなことから始めるのも、悪くない。
何しろ、普通でないことばかりから始まっているから。
そう言うと、ディルは驚いたように眼を見開く。
「あなたがそんなことを言い出すなんて、雷でも落ちるのかな……?」
あながち冗談でもなさそうなその言葉に、もう一度深く口づけながら、その衣服に手をかける。その手を掴まれたが、抵抗はないも同然だ。
「お前の全てを俺にくれ。その代わり、俺の全てがお前のものだ」
両手の指を絡めてそう告げれば、一度ぎゅっと眼をつむり、それから切なく笑った。
「ずっとそばにいて、私が必要な時に抱きしめて」
それだけが、望みだと。
「
「契約なの?」
「誓いよりも確実だろう?」
言いながらも、その誓いの代わりに深く口づけて、あとは沸き上がる熱に、二人して身を任せた。
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