After / Extra stories
長閑な日々
「目が覚めたのか?」
声をかけると、その瞳がまんまるになるまで大きく見開かれた。以前ここで見た時には、まだ幼さの残っていたその顔は、年を重ねて大人へと、さらに女性へと変化したことで、基本的な造作は変わらないのに、それでも受ける印象が随分違う。
寝室から出てきたばかり、上衣を羽織っただけのしどけないその姿は、率直にいえばすいぶん艶かしかった。同族の、さらに近親にしか惹かれないはずの彼でさえ、じわりとどこかが疼くような。はて、と彼は自分の中に宿るその熱について考える。
だが考え込んでいる彼をよそに、ディルはその表情のままに驚いた声を上げた。
「イーヴァル? どうしてここに?」
「ここは俺の家だ」
「……確かに、そうだね」
それだけで納得したのか、そのしどけない姿のままこちらに歩み寄ってくる。大きく開いた襟元からは柔らかそうなふくらみが半ばのぞいており、のびやかな細い脚は眩しいほどに白い。
「ディル、お前その格好……」
「ああ、ごめん。でもイーヴァルは気にしないんでしょう?」
誰から何を聞いたのか、何を気にしないのか、全体的に不明だったが、その格好を気にしないかと言われれば、本人としても誠に不思議だが、どうやら気にする、のが現状らしかった。興味本位で立ち上がり、その体を抱き寄せてみる。
力を込めれば折れてしまいそうな頼りなさと、線の細さは変わらない。だが、腕の中でとけてしまいそうなやわらかさは、以前にはなかったものだ。
頬に触れる銀の髪と、その肌の香りにくらりと目眩がした。
「イーヴァル」
腕の中から呼びかける声はほんのわずか憂いを帯びている。下心を悟られただろうか。その体を、かつてそうしていたように軽々と抱き上げる。すると、驚いたように目を見開いて、それからふわりと笑った。
以前はこんな風には笑わなかったな、とそんなことを思う。
「どうした?」
「あなたは……寂しくなかった?」
「何のことだ?」
「……私のせいで、あんなところにたった一人で」
深刻そうな小さな声に、思わず彼は吹き出した。ディルはこちらを見つめて不思議そうに首を傾げる。
「お前は俺の正体を見ただろう?」
「黒い……竜?」
「そうだ。
魔力を蓄えるためだったり、ただ単に人の世に飽きたからだったり。だが、そうした眠りにつくことは竜にとっては当たり前のことだったから、孤独を感じることはない。
「ちなみに、俺はどれくらい寝ていたんだ?」
「本当に寝てたの? ええと、三年と少し、かな」
「三年か……。お前がでかくなるわけだ」
彼がディルと出会ったのは、彼女が十四歳の時。それからちょうど子供が大人に変わるその微妙な時期を、ディルはたった一人で、見知らぬ世界で過ごさなければならなかったのだ。
「泣いたか?」
そう尋ねると、少し唇を噛んで、それからいつかのように彼の首にその白い腕を回してくる。あの頃とは異なる、頬に当たるやわらかな感触に体の奥が疼くような熱を持つ。だがディルは、彼の内心など知らぬげに、かつてと変わらないまっすぐな言葉を紡ぐ。
「……寂しかったよ。ずっと、待ってた」
「悪かったな。もう少し、うまく立ち回ってやれればよかったんだが」
その背に腕を回して、包み込むように抱きしめる。以前ならすぐに泣き出していたのに、今はただ穏やかな笑みが浮かんでいるのは、あの男のおかげなのだろうか。
考え込む彼をよそに、ディルはじっと彼を見つめると少し首を傾げた。
「イーヴァルは、強い、よね?」
「強い?」
「どうして、『狩人』たちから逃げなければならなかったのかな、と思って」
あれが全ての始まりだった。ディルが銃の引き金を引き、その身に呪いを受け、狩人を呼び寄せた。あの時、二人から目を離したことを心の底から後悔した。アルヴィードが厄介事を引き起こすのはいつものことだったが、あの短時間でそれほどのことをやらかすのは、さすがに予想外だった。時を戻せるのなら、絶対に目を離さず手元に置いておくのに。
「言っただろう。俺は『盟約』の立会人であり証人だった。あいつらが言っていた通り、お前が盟約を破った以上、理はあいつらにあった。だから俺は手出しできなかったんだ」
「もし、手出しをしたら……?」
「俺も同じ呪いをうけることになっただろうな」
「あなたでも?」
「立ち会い、証人になる、というのはそういうことだ」
あの呪いを構成するとき、アストリッドでさえ随分ためらっていた。それでもあの子のためだから、と何かを諦めたように笑うその様子に絆されて、彼も結局巻き込まれてしまったわけだが。
「そういえば、あの
腕の中を見下ろすと、どうしてだか視線を逸らしている。どうやら、自覚がないわけではなかったようだった。それにしても、あの子供が、とどうにも感慨深いものがある。
「よく……わかんない」
「わからないのか?」
「ロイは、あなたたちに会えなくて寂しくて、死にかけた私を助けてくれた人だから。あの人がいなかったら、間違いなく死んでいたと思う」
「……そうか」
あの男もまた、普通でない出会い方をしてしまったのだろう。であれば、ディルにとってはアルヴィードもあの男も、そう変わらなかったのかもしれない。かつて彼に助けを求めたように、彼女に他に選択肢がなかったのなら、あとはきっと——。
「アルヴィードはどうやってお前を口説いたんだ?」
そう尋ねると、ディルの顔が不意に真っ赤に染まる。絡めていた腕が解かれ、彼の腕から抜け出そうとするのを抱きしめて止めた。
「イーヴァル……?!」
「離れていた間のことくらい、教えてくれてもいいだろう?」
「そんなの……恥ずかしいから言わない」
目を逸らしてそう言う姿は以前の幼さを思い起こさせるが、それでも細い首筋から覗く無数の赤い痕や、朱に染まる目元はやはりあの頃とは違うことを実感させる。
自分でも呆れるほど長い時を生き、時の流れなど、彼にとってはもはや意味をもたないと思っていたのに。
「惜しい気がするな」
「……何が?」
「やっぱり、あんなところにいないで、お前のそばでお前を見ていればよかった」
「どういう意味?」
「そのままの意味だが」
まっすぐにその瞳を見つめて、その銀の頭に手をかけて引き寄せる。そのまま唇を重ねると、驚いたようにその目が見開かれた。
「……悪くないな」
「どういう意味⁈」
同じ言葉を、異なる響きでディルが繰り返した時、不意に黒い影が現れて腕の中のそれを奪い取って行った。
「何やってんだ?」
地の底から響いてくるような低い声とこちらを射抜くような金の眼差し。そればかりは三年前とあまり変わらないが、それでもその切実さは以前はなかったものだろうか。上半身裸のまま、ディルを誰にも渡すまいとその胸に抱き込む様は、微笑ましくさえある。
「別に。話をしていただけだ」
「話をするだけで唇が重なるとは知らなかったな」
一部始終を見ていたらしい。その険しい眼差しに思わず笑みが漏れる。
「必死だな」
「お前が手を出すとか、おかしいだろうが!」
「ああ?」
「竜のくせに」
竜はその寿命の長さと個体数の少なさから、基本的には同族同士で婚姻する。血が濃いほど力が強くなる傾向にあるから、兄弟姉妹など近親で
だが、どうやらディルには惹かれているらしい己をようやく自覚する。遅すぎて笑うばかりだが。
「そいつは特別だ」
「……何?」
「でなけりゃ、わざわざ自身を封じてまで助けてやろうなんて思わないさ」
「どうして……?」
アルヴィードの腕の中から、ディルが不思議そうにこちらを見つめている。その瞳は薔薇色に変わっている。かつての変化する瞳の意味をようやく思い出して、なるほど、と思う。
「天の瞳はお前に受け継がれ、そしてお前は
「どういう意味だ?」
「アル、お前、そいつのその色が気に入っていただろう?」
そう言うと、アルヴィードはただ肩をすくめる。だが、初めてここをディルが訪れた時から、明け方にその寝台に潜り込んで何やらごそごそしていたのを知らぬ彼ではない。
「その瞳は、森の精霊の中でも、最も古い連中が受け継いできたものだ。天候を操るほどの大きな力を象徴していた」
「私にそんな力はないよ?」
その言葉に、彼は軽く頷いて笑う。ディルの魔力が弱いのは、混血であるせいだろう。それでもその不可思議な空を映して変化する瞳は、その血とともに受け継がれた。そして伴侶を選んだことで、分化と共に失われたようだが。
かつて、その瞳を持たないことで虐げられ、圧倒的なその力を暴発させたのは、彼女の母親の方だ。彼女を虐げていた連中がありがたがっていたのは、結局その程度のことだったのだと、彼女はもう知っただろうか。
どうにも、結局そういう巡り合わせなのか、とふと思った。かつて目を覆うばかりの惨劇の後の血の海で、彼は切実な声を聞いた。
——しなせて。
——たすけて。
相反する言葉なのに、彼に向けられた切実な願いは、実のところ同じだった。
一度目は五百年ほど前。最初のそれはあまりに酷い惨状で、彼も命を落としかけるほどだったが、それでも傷つけた方の絶望の方が遥かに深かったことを、彼はよく知っている。そして、彼は己の印をあの腕に刻み込んだ。それが死をもたらさぬように願いながら。
二度目はそれほどではなかったが、それでも彼に救いを求めたあの声と眼差しは、今も彼の眼に焼きついている。夜を映す、鮮やかな紺色の。
そうして、それ以来、彼はその瞳に囚われているのだと、ようやく気づいて思わず自分の鈍さに苦笑する。同族でなくとも、これほどに惹かれる理由はなんだろうか。
今さら手に入れようとは思わないが、そばで見守るくらいならいいだろう、と内心で肩をすくめる。いずれにしても飽きるほどに長い生はまだ続きそうなので。
「イーヴァル?」
ひとり微笑む彼に、ディルもアルヴィードも怪訝そうな眼差しを向けてくる。
「何、次の世代にでも期待するかな、と思ってな」
愛する者の近縁なら、自分に似合いかもしれない、とそんなことを戯れに考えながら。
それから——。
「会いに行ってやるかな」
ことあるごとに、そうは見えずとも死を願っていた彼女が、少しは変わっただろうか。
そろそろ本音を聞き出してもいい頃だろう。そう独り呟いて、彼はもう一度微笑んだのだった。
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