夜を越えて
ぺたりとテーブルに頬を載せて窓の外を眺める。冬が近づいてきた空は高く澄んで鮮やかに青い。なのに、その空とは裏腹にぼんやりと淀むこの心の重さはどうしたものだろうか、とディルはため息をついた。
理由はわかっていた。アルヴィードがただ出かけてくる、と行き先も告げずに家を出てから、すでに七日が経っていた。イーヴァルが共にいるから話し相手には困らないし、食事も共にしているから孤独を感じることはないけれど、それでもどうしてだか落ち着かない。
「何だろう、これ……」
胸にかかる靄のような感情を持て余し、もうひとつため息をつこうとしたところで、頭の上から海よりも深いため息が降ってきた。見上げると、いつもより、どことなく乱れた長い黒髪とくたびれたような藍色の瞳がこちらを見下ろしていた。
「イーヴァル、おはよう。なんだか疲れてる……?」
「誰のせいだと思ってるんだ?」
こめかみが引きつっているように見えるのは、気のせいではなさそうだった。こちらをまじまじと見つめ、それから、そっと頬に触れてくる。
「よく眠れたか?」
「うん、いつも通りだと思うけど……」
その言葉に、ぴくりと頬がひきつった。しばらくもう一度、じっとディルを見つめ、それから彼にしては珍しく人の悪い笑みを浮かべる。
「なるほど、お前は安眠できたわけだな」
何だかその笑みに不穏な気配をかぎとって、思わず身を引こうとしたディルの腰をイーヴァルがすかさず抱き寄せた。間近に、いつもとはどこか異なる光を浮かべる藍色の瞳が迫る。
「イーヴァル?」
「俺はお前のおかげで寝不足だ。お前ばかり安眠しているのは不公平だ。付き合ってもらうぞ」
言って、ディルを抱き上げると寝室へと大股に歩いていく。何が何だかわからないまま、寝台の上に転がされた。呆然と見上げていると、隣に滑り込み、抱き寄せられた。ディルの銀の髪に、その唇が触れる。
「何してるの?」
「抱き枕だ」
「これでよく眠れるの?」
やわらかくディルを包み込む腕も、白いシャツの間からのぞく胸も、アルヴィードとは違うが、それなりに厚く力強い。伝わる体温は、彼よりはやや低いだろうか。
そんなことを考えていると、くつくつと楽しげな笑いが聞こえてきた。見上げると、ほんのわずか呆れたような、楽しげな表情がそこにあった。
「確かに、眠れるかと言えば、逆効果だな。だがまあ、昨夜よりはましだ」
「昨夜って……?」
「本当に、お前覚えてないんだな……」
やれやれ、ともう一度深いため息が降ってくる。
「お前のせいで、連日ゆっくり眠れやしねえ」
「だからなんで……?」
言いかけたところで腕を取られ、イーヴァルの首に回される。つまりは抱きつくような形に。
「毎晩毎晩、こんな風に縋り付かれて、俺がどれだけ耐え忍んでるかわかるか?」
ぐい、と腰を引き寄せられる。間近に迫った藍色の瞳は、面白そうな光と、それとは別に、明らかに熱を浮かべている。
「ええと……?」
「あいつが留守にしたその晩からお前、ずっと夜中に泣いてるんだぞ」
「え……?」
曰く、すすり泣く声で目が覚め、寝室をのぞいたところ、ディルが眠ったまま涙を流していたのだという。仕方なしに、隣に座って涙を拭ってやったところ、彼の首に縋り付いてきたのだと。
「起きてるのかと思いきや、完全に寝ぼけてやがる。眠ったかと思って、体を離すとすぐにまた泣き出す」
お前、俺たちと別れてから、そうやってずっと泣いていたのか? とその時ばかりは痛ましいものでも見るようにこちらを見つめてくる。
記憶を探っても、そんなことをした覚えは全くなかった。けれど、イーヴァルがそんな嘘をつく理由もないから、本当なのだろう。
「……しばらくは、確かに目が覚めるたびに泣いてたかもしれない」
でも、と続ける。
「ちゃんと一人で大丈夫だったよ——大体は」
それでも、アルヴィードは言っていた。いつも彼女は黒狼の首に縋り付くようにして眠っていたと。それは彼らに会えない時間がそうさせたのだと思っていたのだが。
「誰にでもこんなことをしてるんじゃないだろうな?」
「し、してないよ……」
心当たりがもう一人いたけれど。その内心を読み取ったかのように、イーヴァルがため息をつく。
「本当に、お前は懐に入れてくれた相手にはゆるゆるだな」
「ゆるゆるって……」
「こういうことだ」
言いながら、その大きな美しい手が頬から首筋に触れてくる。触れられることも、抱きしめられることも慣れているはずなのに、いつもよりとゆっくりしたその動きに、どうしてだかぞくりと背筋が震えた。
それに気づいたのか、こちらを見下ろす瞳がさらに妖しく輝いた気がした。
「俺でもいいのか?」
「な、何が……?」
「無自覚かよ」
似た物同士め、となぜか呆れたように言ってため息をつくと、身を起こして髪をくしゃくしゃと撫でられた。
「本当に、あんなところで寝てるんじゃなかったな」
目を向ければ藍色の瞳が切なく眇められていた。いつもとは異なる響きを宿す声に、ディルがその真意を問おうとしたところで、地の底から響いてくるような声が割って入った。
「何してんだ?」
見上げると、声のままに恐ろしく険しい眼差しがこちらを見下ろしていた。その背後から、黒い炎でも巻き起こりそうな勢いで。
いつものように足音をさせずに風のように近づいてくると、ディルの腕をとって引き寄せた。その瞳には、苛烈な光と、戸惑いの色が半々に浮かんでいる。
「アルヴィード?」
「何がどうしてお前が朝からイーヴァルの寝台にいるんだ?」
「ええと、話せば長い……」
「長い話?」
ますます険しくなったその表情に、ディルがびくりと体を震わせると、低く笑う声が聞こえてきた。
「怯えさせるな、馬鹿」
「何だと?」
「——泣かせるなら、本気で手を出すぞ?」
ほんの一瞬、驚くほど冷ややかに変わったその声に、アルヴィードが息を飲むのが伝わってきた。見上げると、眉をしかめて、それから深いため息をつく。
「また、夜泣いてたのか?」
「お前が行先も予定も告げずに消えるからだろう」
「それは……だがお前がいるし……」
「なら、この状況は予定調和だろ?」
ディルにはいまひとつ理解しきれない曖昧な会話は、だが二人にとってはそれで十分だったようで、アルヴィードはもう一度ため息をつくと強くディルを抱きしめた。その強さに、何よりも安心する自分を自覚する。
「まだ、寂しいのか?」
「……わかんない」
一人で眠ることになんて、慣れていたはずなのに。
やれやれと何度目かのため息が二方向から降ってくる。彼らに出会うまでひとりきりで過ごすことが当たり前だったのに、今やこの有り様では。自分でもその状況に戸惑っていると、あのなあと、ひどく優しい声が響いてくる。見上げると、その声のままに、穏やかな眼差しがこちらに向けられていた。
「いいか、お前を捕えていた呪いは消えた。俺は決してお前を置いてどこかに消えたりしない」
「いなかったじゃないか」
自分でも驚くくらい、拗ねたような声が出てディルは思わず赤面する。そんなことを言いたかったわけではなかったはずなのに。だが、アルヴィードはこちらをじっと見つめ、それから蕩けるような甘い笑みを浮かべる。
「どれだけ俺が好きなんだ、お前?」
思わず声を上げかけて、だが何を言うべきか言葉を見つけられずにただ口をぱくぱくとさせた彼女を、アルヴィードはもう一度抱きしめる。後ろから呆れたような、うんざりしたようなため息がもう一度聞こえた。
「ずっとそばにいなくたって、大丈夫だ。俺はお前のものだし、お前を置いて逝ったりしない」
「……絶対に?」
「絶対にだ」
確信を持って言う声に、ディルが口を開くより先にイーヴァルが呆れたように言う。
「未来なんて不確定なものだぞ。特に、限りある命を持つ者たちにとっては」
それは幾度も、容易に失われるのを見てきたからこその言葉に聞こえた。
「それでもだ」
まっすぐな瞳には迷いがない。
「俺は広いあの世界でお前を見つけ出した。それに比べれば、どんなことだって可能だ」
待ち続けたあの日々が、彼にとっても苦難の連続だったことは容易に想像できた。それでも、彼は決して諦めずにディルの下にたどり着いてくれた。
心臓がぎゅっと締め付けられるような不規則な鼓動を打つ。その引き締まった身体に腕を回すと、だが、ふとその手を取られた。
「不安になるのは、証がないせいか?」
「そんなの……」
必要ない、と言おうとしたディルに笑いかけながら、アルヴィードが懐から何か小さな箱を取り出す。そこには指輪が一つ入っていた。外側は鮮やかな金、内側が白金の二重構造で、側面に薔薇色と黒の小さな石が嵌め込まれている。
「言っただろう? 俺の全てがお前のものだ」
ディルの左手をとり、薬指にその指輪を嵌める。驚くほど滑らかなその表面はつけているのがわからないほど、違和感なく彼女の指にぴったりだった。
「これ……」
「俺がそばにいなくても、俺の心はいつもお前と共にある」
もし不安を覚えても、これを見て、思い出せるように、と。
「それを用意しに行ってきたのか」
イーヴァルの言葉に、アルヴィードはただ肩をすくめる。イーヴァルは歩み寄ってくると、その指輪をまじまじと見つめた。
「この細工はカラヴィスのものだな。
よかったな、と頭を撫でられる。
「これでそいつの不在時にも、抱き枕はいらないだろう」
屈託なく笑うその顔に、だがほんのわずか寂しさを感じる。それが顔に出たのか、イーヴァルは口の端を上げて、ディルの頬に触れてくる。
「して欲しいことがあるなら、素直に言え」
いつかも誰かに同じように言われたその言葉に、驚くほど心が震えた。はじめにイーヴァルを、次にアルヴィードを見つめると、こちらも仕方がない、というように肩をすくめて笑う。
「私は、ずっと一人でいることに慣れていると思ってた。でも、それは他に選択肢がなかったからで」
頭をイーヴァルの胸に預けて、その身体に腕を回す。
「あなたたちが私を変えてしまった。だから、できれば」
——二人とも、ずっとそばにいて欲しい。
「欲張りめ」
「だめ?」
「ただ側にいて、手も出さずに見守れと?」
答えられず首をかしげた彼女に、それでも遥かに長い時を生きてきたらしい竜の青年は何かを諦めたかのように笑う。
「お前の子供時代を秤にかければ、まあまだ足りないくらいか」
仕方ないな、と笑みを含んだ声と共に強く抱き返され、それからアルヴィードに渡された。
「運命とやらは、厄介だな」
「知るか、俺が望んだんだ」
こちらもひどく穏やかに微笑んで、それから顎をすくい上げられる。
「返事は?」
「……何の?」
「
「え?」
「俺を生涯の唯一の伴侶として望んでくれるか?」
「選択肢、あるの……?」
思わずそう聞き返したディルに、今度こそアルヴィードは呆れたようにため息をつく。それでも、ディルの返事を待つように、ただこちらをじっと見つめる。
その金の双眸はいつかと同じように強い光を浮かべているが、それはもうディルを怯えさせることはない。答えなど決まっているけれど、きっと言葉にすることに意味があるのだろう。
「あなたが私を暗い場所から助け出してくれた」
初めて会った時からずっと。
「だから、これからもずっと側にいて、抱き締めて」
そう言った瞬間に抱き寄せられ、唇が重ねられた。何度も繰り返されるそれは、いつもよりひどく優しく穏やかなもので、ディルにそのままに優しい未来を予感させた。
「やっぱりさっきの、撤回していいか……」
後ろから投げかけられた呆れたような声も含めて。
繰り返される口づけが止むと、また強く抱き寄せられる。こちらを見下ろしてくる金の双眸は、贈られた指輪と同じように鮮やかだ。ディルの耳元に口を寄せ、アルヴィードは低く呟く。
「もう夜が怖くはないな?」
「どうかな?」
指に輝く金色を見つめる。あれほど人の心に疎く無骨だった彼が、これほどに繊細な贈り物をしてくれるようになるほどには、ディルを取り巻く世界は優しく変わっている。それでも――。
「まだ、だめかも」
今はまだ、この力強い腕に包み込まれる幸せが、必要な気がするから。
「もうちょっとだけ甘やかして?」
上目使いに言った彼女に二人がぽかんと口を開ける。それからどうしてか額を押さえて頭を抱えている。
そんな風にして、ディルにとって何にも替え難い幸せな日々は始まったのだった。
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