24. Missing link 〜先見視〜 #3
「何でだよ。和平条約だ『盟約』だって言ったところで、守られなきゃ何の意味もねえだろ!」
「何と言われようと、私は反対だよ」
珍しくきっぱりと言ったその秀麗な顔を睨み付けながら、彼は怒りを込めて机に拳を叩きつけた。だが、相手はこたえた風もなく、ただ彼の手が痛んだだけだった。
人間と精霊たちの間で和平条約が結ばれ、大戦は一応の終結を見たが、それでも各地ではまだ争いの火種が
「『盟約』を違えた者については、既に『狩人』たちがその命を狩ってよいということで話がついている。それだけでもやりすぎだと、私は思うけれどね」
「何がやりすぎなもんか。実際に黒狼が全滅したんだろう? ひとつの種族を丸ごと滅ぼされた状況を見ながら、まだ何をためらうことがあるんだ?」
争いが続く限り、彼の悪夢は止まない。人々が互いの合意だけでは争いを止めないというのならば、その行動を縛る苛烈な罰が必要だ。
「盟約」を世界の法則に組み込む。
それが、彼の提案だった。
「本当に、そんなことが必要だと思うのかい?」
「そこまですれば、さすがに『盟約』を破ろうとする奴はいなくなるだろ?」
そして、アストリッドはそれを実行するだけの力をもっている。
「世界に対しての呪いはあんたが直接誰かを傷つけるわけじゃない。だから、その呪いが発動しても、あんたには返らない。それは、『盟約』を違えた奴に跳ね返るだけだ」
「そんな話をしてるんじゃない。私の身など別にどうなっても構わない。言っただろう、君が世界を愛するように、私も世界を愛している。呪いをかけるなんてもっての他だ」
「わかんねえ奴だな。その世界を守るために必要だって言ってんだろうが!」
「だとしても過剰だ。人は過ちを犯すことだってある。たまたま、誤って銃火器の引き金を引いてしまうことだってあるだろう。あるいは止むに止まれぬ事情で、禁呪を使うことだってあるかもしれない。そういう者たちをどうするつもりだい? 私の呪いは、そんな理由など一切斟酌せずにその命を奪うことになる。そんな馬鹿げたことが本当に必要だとでも? 君は、絶対に後悔する時がくるよ」
「この呪いの抑止力で、ほとんどの奴らがその使用を思い止まることができるなら、そんな
ぎり、と拳を握り締めてその顔を睨むように見つめる。目の裏に浮かぶのは、かつて大きな亀裂に飲み込まれた、彼の村だ。いまだに彼はその村が炎に包まれる夢を見る。
「俺は、俺の大切なものを守るためなら何だってする。あんたがやらないというのなら、俺がやる」
「君には無理だ」
「できるさ」
魔女の元であらゆる呪術を学んだ。アストリッドの力には遠く及ばないが、それでも薬の力を借り、彼の命の全てを賭ければ勝算は十分にあると踏んでいた。
「……本当に、そんなことのために命を賭けるつもりかい?」
「あんたにはわからない。あんたは
その悲劇を知りながら、避けえなかったことへの後悔は、一生この身を
苛烈な眼でそう言った彼に、結局アストリッドは折れた。彼の考案した呪いを、自身の強大な力をもって、それまではただの合意に過ぎなかった『盟約』を世界全体に対する呪いとして再構成した。
最初の数年こそ、その呪いはあちこちで発動したが、やがてその事実が知れ渡ると、ほとんど発動することもなくなっていった。それに従って、世界のあちこちを焼き尽くすような破壊はなりを潜めたから、彼の目論見はある意味、成功したと言っていい。
それを見届けてから、アストリッドの元を離れた。その後は、世界各地を薬師として巡った。大戦の爪痕は深く、病んだ大地や汚染された水によって病んだ者たちは数知れず、彼の仕事は多く休む暇もなかった。
そんな風にして時はあっという間に流れ、精霊たちと人間たちの協力のもと、ある程度の浄化が済み、薬師としての彼の役割もひと段落したところで、とある街に落ち着いたのが二十年ほど前だ。気がつけば、一族の中ではすでに亡きヨルンに次いで長く生きている。あとはのんびりと余生を過ごす、そんなつもりだったのに。
今、彼はアストリッドがかつて言った通り、深く後悔する羽目になっている。思えば、あれほど真剣にアストリッドが声を荒げるのを見たのは、後にも先にもあれきりだった。
魔女の家の屋根の上で、空を見上げながらため息をつく。初めて、ディルの腕にあの刻印を見た時、心臓が止まるかと思った。その刻印は彼が
そばにいればいるほど、惹かれていく自分を自覚するからこそ、美しいその白い腕にその刻印を見るたびにやりきれない思いがした。あれこれとよぎるものはあったが、結局のところ、顔に出さずにいるのが精一杯だった。
「随分悩ましいため息ね?」
振り向くと、かつては彼の師でもあった魔女が、楽しげに微笑んでいた。
「冷やかしなら、またにしてくれ」
「あら、せっかく慰めてあげようと思ったのに」
「余計なお世話だ」
「つれないわねえ。せっかく時間稼ぎまでしてあげたのに」
「……ひとつ聞いてもいいか」
「なあに?」
「確か十五年か二十年か、それくらい前に、一度アストリッドが俺を訪ねてきたことがある」
数百年ぶりに会ったその相手は、態度や口調はそのままだったが、その容姿は明らかに女性に変化していた。そして、彼に言ったのだ。「ちょっとだけ運命に巻き込むことを許して欲しい」と。そうして、言いたいだけ言い放って、あっという間に去って行った。
「あの人らしいわね」
魔女は楽しげに笑う。
「ディルはあいつの縁者か?」
「それは内緒」
「はあ?」
「あなたは運命の相手じゃないもの。どちらかというと断ち切る方ね」
「
「いいえ、あの人なら
かつての「ヘマ」のせいで、人に直接働きかけるような術については、ほとんどの力を封じられているに等しいアストリッドのすることだ。そう複雑なことはできないだろう。せいぜいが本当にごくわずか、「偶然」が少しばかり多く積み重なるくらいだ。
——例えば、彼がディルにあの黒狼よりほんのわずかばかり先に出会い、印象を残し、救うことになったような。
「適当なことばっかり言ってると、本気で手ぇだしちまうぞ」
「いいんじゃない? あの子の運命はあの子のものだもの。あの子があなたを選ぶなら誰にも止める権利なんてないわ」
三百年越しの初恋なんて、ロマンチックねと余計なことを言う。
「ああ、でも初恋はもう別に済ませていたかしら?」
「うるせえ」
自覚する前に、それはすでに玉砕済みだった。
「世界を愛しているから、なんてまるっきり嘘じゃねえか」
「仕方がないじゃない、あの人、いまだに自覚してないもの」
かつて、その命をつなぎ止めたという「あの人」について語るとき、明らかにアストリッドは普段と異なる顔をしていた。それに気づいたのは、彼がアストリッドの元を離れるときだ。随分と穏やかな顔をしていると思ったら、黒狼の里へはその「あの人」と出向いていたらしい。
それで、気づいた。なぜなら、彼もまた淡い同じような想いを抱いていたからだ。だが、それを開示する気には到底なれなかった。それほどに、アストリッドの彼に向ける気持ちは明らかに見えたのだ。どんな相手だか、会うことさえなかったけれど。
「いい男なのか?」
「そうねえ。あの人に言わせれば、『あの子を任せられるのは、彼と君とアルヴィードくらいだ』っていうでしょうね」
どうにも褒められている気がしない。もう一度ため息をついた彼に、だがイングリッドは表情を改める。
「これからどうするの?」
「とりあえず、あいつに会いに行くより他にないと思ってるが、何か他にいい案はあるか?」
「あの人に会っても、呪いを無かったことにはできないと思うわよ。一度こぼれた水を、戻すことはできないのと同じようにね」
「情状酌量は?」
「わかっているでしょう?」
「……だな」
この呪いを組み込む時から、始まったら止められないと、そう言われていた。後悔は確かにあるが、それでもだからと言って諦める気にはなれない。この手に掴めるかどうかは別としても、このまま見過ごすにはあまりにその存在が彼の中で大きすぎる。
「いざとなれば、俺の命を賭けてでも何とかするさ。それよりは、あいつを脅して何とかさせる方が早そうだが」
「そうねえ、結局、あの人はあなたに甘いから」
「何だそりゃ」
「なんだかんだ言って、あの人を動かすことができたのは、アルヴィードとあなただけ」
——意外と若好みなのねえ。
あまりの言葉に思わず咳き込む。
「冗談よ」
「あんたが言うと冗談に聞こえなくて恐ろしいからやめてくれ」
かつて、世界を救うと息まいていた自分を、それでもあっさりと受け入れて本当に支えてくれた相手。あれほど警告されたのに、それでも我を押し通した挙句、大きな穴に嵌った彼を、彼女は責めるだろうか。
きっと責めない。どころか間違いなく能天気に笑って、また受け入れてくれるだろう。
だが、話はそこからむしろ始まるのだ。自分が犯した罪の
「やれやれ、因果なもんだな」
「頑張って。楽しみにしてるわ」
「不吉さしか感じねえからやめてくれ」
顔をしかめてから、それでも笑う。
少なくとも今のところ、不吉な未来は視えないようだったので。
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